060 白く染まる世界
「遅いな……」
昼休みの始まりを告げるチャイムを聞きながら未央は、ひとりごとをつぶやいた。
目を通していた書類を置き、椅子の背もたれに体重を乗せて伸びをする。
ほぅっと小さな息を吐いて腕時計の時間を確認する。
それは、チャイム通りの時間を指していた。
その結果にわずかに眉をしかめた。
(とすると、波綺が出て行ってから十二分ちょっと。替えの下着とナプキンを持たせてあるから特に問題はないはずなんだが……。いや。問題は……ある。しかし、すぐにどうこうなることもないだろう。そもそもここは学校だ。人気のない夜道ではない。問題ない)
ガラっと、ノックもなく引き戸を開ける音で、未央の思考が途切れた。
「あの……さくらちゃん……」
少し息を切らせた少女が保健室へと駆け込んでくる。
「高木瀬か」
忙しなく辺りを探す女子生徒に苦笑いする未央。
「先生。さくらちゃんは……」
「ん。さっき起きたよ。心配ない」
楓は、その言葉に表情を輝かせ、もう一度あたりを見回す。
「あぁ、でも今はいない」
「え?」
「ふふ。心配するな。トイレに行ってるだけだ。じきに戻る」
「は、はい」
あからさまにちょっとガッカリして頷く楓。
(戻る……はずだ)
カップを手に取ると、未央は言いようのない不安を温くなったコーヒーで無理に飲み下した。
ハンカチで手を拭きながら廊下に出る。
なんだか朦朧としてきた。
……血、出過ぎ。失血死するんじゃないのか?
って、その前に貧血か。
ふらふらするのはその所為か……。
そう言えば、廊下に生徒の姿がある。
……………。
処理してる間に昼休みになったのか……。
「気がつかなかったな……」
立ち止まって、廊下の窓から外を眺める。
湿度を含んだ風を受ける髪を右手でかき上げる。
結んでないとウザいんだよな。
今は結んでもウザいんだけど。
「あの、なみき、さん?」
「?」
男の子の声に呼ばれ、顔だけで振り向く。
「あ、あの……」
視線を合わせると、口をパクパクさせてなにかを言いよどむ。
「……?」
「え? あ、あの、お、屋上で、友達が呼んで、たよ」なぜだか、いっぱいいっぱいの様子。
知らない男の子。多分一年生。幼さが残ってるから。
……上級生だったらごめん。
「誰?」
友達って。
「あっと、その、名前忘れちゃったんだけど、たしかポニーテールの」
「茜?」
「あ。そ、そうかも。あかねって言ってた気がする」
「そう」
…………。
瞳を見つめると、その男の子はあからさまに視線をそらして慌てだす。
「な、なんか急いでたみたいだから、屋上早く行った方がいいよ」
「……」
「じゃ、じゃぁ確かに伝えたからね!」
そう言い残すと男の子はバタバタと走っていった。
……屋上?
そう言えば行ったこと無かったな。
面倒だけど行ってみるか……。
ギィッ……と、明らかに使われていないであろう屋上へのドアが軋みをあげる。
「…………」
隙間から肌寒い風が通り抜ける。
ドアの影から屋上の様子をうかがう。
……誰もいない。
それはそうだろう。
そもそも、こんな寂れた様子じゃ学校側が開放していないと思う。
こんなところに茜がいるはずがない。
帰ろ。
「おぉっと。どこに行くんだい? さくらちゃん」
振り向こうとした瞬間、肩を掴まれる。
「…………」
「酷いなぁ、お友達置いて戻ろうとするなんて」
振り向いた目の前には軽薄そうに笑う男の顔。
「さぁ、お友達を迎えに行こうか」
そのまま背を押されて屋上へと連れ出される。
ひょっとしたら本当に茜がいるのかも。
そう思って押されるままに裏手へと足を運んだ。
「遅かったねぇさくらちゃん」
そこには今朝の上級生たちであろう四人の男子学生がニヤニヤと笑みを浮かべて待ちかまえていた。
……と、すると背中のコイツを入れると五人全員になるのか。
サッと周囲に視線を走らせる。
遮蔽物はない。少なくとも茜は「ここ」には居ない。
戻ろうと後ずさる。
「おっと。来た早々帰るなんてツレないねぇっと!」
後ろの男に掴まれて奥へ奥へと押しやられる。
最後にドンっと背中を押され、その勢いを殺すために金網に手をついて立ち止まる。
錆びついたフェンスと、風雨で汚れた金網越しに裏庭が視界に入った。
「……!?」
壁を背に振り返ると取り囲まれていた。
昇降口の建物の裏側にあたる十メートル四方もないスペース。
後ろは壁、左側は金網。前と右には取り囲むように男たちが塞いでいる。
「へへへ……」
嫌な笑い方。
ドクンドクンと心臓が悲鳴を上げはじめる。
一対五。
体調も万全じゃない。
まともに走れるのかどうかの現状では、逃げられそうもない。
「なにか、用……ですか?」
思ったよりも掠れた声。
その声で自分がすごく動揺していることを自覚した。
一方、そんな自分を離れて眺めているような意識もある。
心と体が分離したような、そんな違和感。
すごく現実味が薄い。でも、夢ではないことは痛いくらいに脈打つ鼓動で自覚出来る。
「……へへ」
ニヤニヤとした笑いを浮かべる男たちの視線を浴び、じっとりとした嫌な汗が背中をつたう。
「客だよ客」
そう言うと男たちのひとりがぴらっとなにかを差し出した。
客?
……これは……お札?
「五千円でヤラせてくれんだろ?」
「……」
醜い欲望が今にも飛び出しそうな嫌な笑みに生理的な嫌悪感が込み上げる。
「へへ。噂になってんだよ。オマエが五千円でヤラせてくれるって」
「そうそう。前の学校でたんまりと稼いでたんだろ?」
ひひっと下品な笑いを浮かべる男たち。
噂?
なに?
そんな噂が流れてるのか?
知らず知らず握りしめた手の平が、じっとりと湿っていた。
鼓動は次第に早鐘のように高まり、嫌な記憶がフラッシュバックする。
スタンガン。
マンションの一室。
ビデオカメラ。
泣き叫ぶ女の子。
ニヤニヤと笑う男たち。
悲鳴。
発作。
あ……やだ。
……嫌だ。
……怖い。逃げ出したい。
「……ぁ……ぅ」
喉が渇いていて上手く声が出ない。
口の中も、かさかさしていて唾が飲み込めない。
全身に震えが走るのを気取られないように力を込める。
反射的に逃げ出そうとする身体を辛うじて抑えつける。
落ち着け。
こんなんじゃ身体がまともに動かない。
今仕掛けても、先制攻撃でふたりはなんとかなるとして、残り三人に捕まるのは目に見えている。
走って逃げる?
にしても、どこかに隙が出来ないと……。
「おぉっと。逃げようなんて思うなよ」
周囲を見回す視線から悟ったのか、男のひとりが機先を制する。
「大声出してみろ? 顔の形変わるまで殴るからな」
慈悲なんて欠片もない笑みで頬に拳をあて、グリグリと押しつけてくる。
大声出したくても声が出ない。
動揺を抑えるようにゆっくりと深呼吸する。
だけど、記憶に刷り込まれた恐怖が鼓動を激しくするのをとめられない。
男のひとりがビデオカメラを取り出して撮影を始める。
バクン。と、周囲に響いたんじゃないか思うくらい鼓動が大きく聞こえた。
だめ。
いや。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ。
いやだ……
「いいよ~。ばっちり撮れてるよ~」
赤いランプが点灯し、録画されていることが見て取れた。
「しっかしコイツ。目が潤んでねぇ?」
「そう言われれば顔も赤くなってるし。なんか誘ってね?」
「もう感じてんじゃねぇか?」
「このインラン雌犬が!」
「期待通り可愛がってやるから安心しろってばよ。うひひ」
口々に勝手なことを言っては、それがどう面白いのか爆笑する男たち。
「ほぉ? 否定しないところを見ると図星ってか」
「…………」
「おら! いつまで隅っこに縮こまってんだよっ!」
不意に髪を引っ張られ、壁から引き離される。
後ろに回り込んできた男に右手を捻り上げられ、ガシャリと冷たい感触の何かが手首に巻き付けられた。
「っ!?」
「あれ? こいつギプスしてる。手錠かかんないんだけど?」
「どこでもいいだろ。二の腕にでも繋いどけ」
「了~解」
ガシャリという金属音。
え?
あ?
て、手錠?
我に返った時にはもう遅かった。
右手首と左の二の腕を後ろ手に手錠で繋がれていた。
「よぉっし。おい押さえとけ」
「あいよ」
リーダー格がそう言うと、手錠をかけた男が羽交い締めしてくる。
背中が男と密着し、学生服のボタンがツボを押すように所々に感じられる。
「うわ。お尻や~らけ~」
腰をグリグリと押しつけてくる。
「やっ……」
身体を離そうとするけど、羽交い締めされた状態では大して変わりない。
触れられているところに拒否反応のように鳥肌が立つ。
「い、痛っ」
不意に胸に痛み。
後ろに気を取られていて目の前の男に注意が向いていなかった。
「おぉ~結構胸でかいじゃん」
服の上から力任せに胸を握られる。
なんとか身体をよじって逃げようとしていると、不意に足下が涼しくなる。
「おぉ~白パンご開帳~~」
いつの間にかスカートが落とされている。
「すっげ。めちゃめちゃスベスベだよ。こいつのフトモモ」
太股を撫でられる感触のおぞましさに頭の中が白くなる。
「胸も……って服の上からじゃイマイチだな」
体中を這い回るたくさんの手の平の感触は、脊髄に針金を通されるように身体を硬くさせる。
「……ぁ……ぁ」
声は声にならず、震えでガチガチと歯が鳴るばかり。
パニックに陥っている本能と身体。
それを離れて見ている理性の自分。
ドラマや映画を見ているような、自分の意識で行動出来ない主人公を見守っている。そんな感覚に近い。
でも、感触は確かに感じられて、決してこの状況がドラマや映画ではないことを雄弁に物語る。
「おい。俺は撮るだけかよっ!」
撮影してた男の焦ったような声。
「待ってろって。おまえ二番目にしてやっから。もちろん最初は俺だけどな」
「ちょっと待て。ずりぃぞ」
「慌てるなって。時間はたっぷりあるんだから」
「うぉ~俺もう我慢出来ねぇ!」
「おぃおぃ。挿れる前から出すんじゃねぇぞ?」
「ぎゃはは」
なぜ?
どうして?
フラッシュアウトしそうになる意識の中で、そんな言葉だけが渦巻く。
血が下がるような喪失感。
その術を忘れたかのように思い通りに動かない身体。
小さな悲鳴しか出ない声。
ほとんどが白く染まる意識。
それを他人ごとのように眺めている『自分』。
これが俺か。
本当に自分自身なのか!?
この程度のことで。
こんなことされて。
こんなに嫌だと感じていて。
抵抗らしい抵抗も出来ない。
それが『俺』なのか。
中二まで男として育ってきて。
あんなに努力して。
周囲の目に反発して。
なりたくもなかった女になって。
自分をごまかして。
周囲を欺いて。
嘘で塗り固めて。
家族に迷惑かけて。
それでまたコレか。
「あれ? さくらちゃんナプキン派?」
身体に這い回るおぞましい手の感触に耐え、遠くなりかける意識にそんな言葉が聞こえてくる。
「うわ、臭っ! ひょっとしてこいつ生理なんじゃねぇ?」
顔を近づけて、わざとらしく鼻を鳴らして臭いを嗅いだ男が顔をしかめる。
一方でぬらぬらとした舌の感触が脇腹や首筋を汚していく。
「ウソマジで。じゃぁヤってる最中血みどろかよ!?」
「まぁ、初物感覚ってことで我慢しろよ」
「ヒヒ。じゃぁさ中出ししてもいいんじゃね?」
「おまえ、最初から出す気満々だったじゃねぇか」
「へへへ。ま、当然でしょ。金払ってるんだし」
「一回五千? ひとり五千?」
「最初の五千でずっとってことでいいんじゃね?」
「な? さくらちゃんもそれでいいよな?」
……気が遠くなる。
意識が焼き切れる。
身体の感覚が無くなっていく。
有から無へ。
一から零へ。
……白。
ただただ真っ白に。
視界の全てが。
意識の全てが。
音の全てが。
全てが白に染まる。
白く。
白く。
白く。
限りなく白く。
世界の全てが、白く染まる……




