050 父親
「ちょっといいか?」
と、父さんに誘われたのは、夕食の後かたづけが終わった時だった。
「久しぶりにその辺をぶらぶら……」
ちょっと照れくさそうな父さんが可笑しくて、最初はこんな時間に? とも思ったけどふたつ返事でオーケーした。
昔は、よく散歩に連れて行ってもらってたから懐かしくてってのも理由だった。
「あら、あなたお出かけ?」
夕食後、外出着に着替えた父さんを見て、リビングでお茶を飲んでいた母さんがそんな声をかける。
「ん? あぁ、ちょっとそこまで、な」
その短い答えに母さんは一瞬だけ戸惑ったような表情を見せた。
でも、いつもの外出着に学校指定のコートを羽織っている俺が隣に並んで立っているのを見ると納得したようにニッコリと笑って頷いた。
「さくらちゃん。もう夜も遅いから気をつけてね。あなたもよろしくお願いしますね」
「あぁ。わかってる」
「じゃ、行ってきます」
「はい。いってらっしゃい」
湯飲みを片手に、小さく手を振って見送る母さんだった。
「あ~。お姉ちゃんたちどこか行くの?」
玄関で靴を履いているところに、お風呂上がりの瑞穂がタイミング悪くやってくる。
なんとなく落ち込んでいるかと思った瑞穂も夕食時にはもういつもの感じに戻っていた。
「い~な、い~な~。ね? お出かけするんでしょ?」
ダンダンと床を踏んでなおも言い募る。
いや。別に、そう羨ましがるようなことじゃないだろ。
その辺を散歩するだけなんだし。
「ちょっと散歩にね」
「瑞穂も行く!」
「湯冷めするからダ~メ。母さんと留守番よろしく」
「む~っ! ならなら。おみやげ買ってきて。ね?」
「だから、散歩だっての。行ってきます」
「む~~!!」
膨れた瑞穂を残して苦笑している父さんと家を出る。
夜空には月が煌々と輝き、うっすらと流れる雲を浮かびだしていた。
ふたり並んで夜の住宅街を歩く。
この辺は車こそ少ないんだけど、街灯と月明かりでとても明るくて、いくつもの光源に照らされた影が万華鏡のように広がっている。
ふと父さんを見ると驚くほど間近に見えた横顔にびっくりする。
昔は見上げていた顔が横を向くだけで見えるようになっていた。
まだまだ俺よりは高いけど、その身長差は五センチほどしかなくて、文字通り肩を並べて歩いていることに年月の流れを感じた。
そっか、あれからもう三年近く経ってるんだもんな。
「デートに誘われたんだって?」
しばらく無言で歩いていた父さんは、タバコに火をつけて大きく吐き出してから夕食時の話題を持ち出した。
やっぱり気になるのかな。
夕食の時は大して興味なさげだったんだけど。
「う~ん。どうも断れなくてね。メグも瑞穂も面白がって協力してるし、まぁ、成り行きで」
月明かりの下だからなのか、身構えることもなくスルスルと言葉が出てくる。
照れとか緊張とか余計な感情に惑わされることなく対等な立場で話すことが出来る。
きっと、並んで歩いているから正面切って向かい合っているわけじゃないことと、その、父さんの隣だという安心感からなのかもしれない。
「咲矢崎、浹くんだっけ? どんな子なんだ」
「身長は父さんよりちょっと高いかな。真吾と同じかそれ以上あると思う」
「ん? 真吾くん、そんなに大きくなったのか」
「あれ? 最近は会ってなかったの?」
「まぁな。最後に見たのは一年半くらい前かな」
ふと横を見ると穏やかな表情の父さんと視線が合った。
くすっと微笑むと、父さんは軽く笑いながら大きな手で頭を撫でてくれた。
「その時は、今のおまえと同じか、もう少し小さかったと思うが」
「成長期だからね。でも、昔は俺より低かったのに、今では生意気にも身長追い抜かれちゃったし」
「はは。まぁ赤坂さんも身長あるからな。真吾くんもまだまだ伸びるだろう」
「大吾おじさん百八十越えてそうだしね。って、そうそう。トールはね、図体は大きいんだけど、手間がかかる弟みたいな感じかな」
「そうか。しかし、その浹くんも目が高いな」
「ん? どうして?」
満足気な顔の父さん。
「二年と少しで、こんなに見違えたんだ。俺も写真で見ていたとは言っても再会した時には驚いたからな」
「そんなに変わったかな?」
「あぁ。俺の母親や姉さんにそっくりで……美人に育ったな」
「そ、そぉ? う~ん……。確かにこの前写真で見たけど、似てはいたよね……」
ん? 母親に……姉さん?
「あれ? 姉さんって……」
「あぁ。俺は元々三人兄姉でな。姉さんと妹がいたんだ」
……いた?
「妹は生まれつき病弱でな。三歳になった夏に病気が悪化して亡くなった。姉さんも今はもういない」
溜め息のように、ふぅっと煙を吐き出す。
少しだけ重い空気が辺りに漂う。
「そう。色々、あったんだ」
興味はあったけど、あんまり触れてはいけないような気がして、相づちを打つだけにしておいた。
そっか。父さんにお姉さんと妹がいたのか。
叔母にあたる人なんだよな。
逢ってみたかったな。
「それより。悪かった」
「え? な、なにが?」
一転して元の様子に戻った父さんに少し戸惑う。
「日曜日のことだよ。嫌がっているのを無理に連れて行こうとして」
「あ、あぁ、うん」
「実はな、世津子さんから怒られてな」
苦笑する父さん。
「世津子さんって……下宿先の大家さんのこと?」
大家さんってしか呼んでなかったので改めて名前を言われるとピンとこない。
「あぁ。『もう少し、さくらの気持ちも考えなさい』ってな。つい、前みたいに接していたんだが、悪かったな。すまん」
軽く頭を下げる。
「あ。うん。いいよ、別に」
「それでな。よくおまえと話すことが必要だ。とも言われて。まぁ、それはわかっていたんだが、ついつい先延ばしにしてたことも確かだったし」
「……」
「三年近く逢ってなくて、いざ再会したらこんなに美人になってるし。おまけに母さんや姉さんに似てるしな。どうも、な」
わぁ。父さんが照れてる。
「うん。それは、逢わなかったのは、俺の、いや……。その……。私の方から言い出したことだし。父さんの気持ちもわかるよ。自分自身が、自分でも誰なのかわからなくなることがあるんだ。家に帰ってから、すごくそう感じてる」
「辛いか?」
立ち止まった父さんの気配に振り向く。
五歩ほどの距離を置いてしばらく見つめ合った。
「………………。正直、ちょっとね」
言うつもりがなかった言葉がするっと出てしまう。
だめだ。今の父さんに嘘は通じそうにない。
「そうか……。おまえを家に戻す時にな、世津子さんに『まだ早すぎるかもしれない』って言われたんだ。それでも俺は家に連れ戻すことにした。母さんも瑞穂もそうしたがっていたしな。おまえにとっても良いことだと思ったんだ。でも、それがおまえの負担になってしまっているのなら……」
「父さん」
言葉途中でとめる。
「……」
「大丈夫。家に戻るのは自分自身でも決めたことだし、いつまでも逃げてちゃいけないって思ったんだ。だからそれは大丈夫」
「そうか、ならいいんだ。それでな、日曜日、どうする? 無理しなくてもいいぞ」
「挨拶に行くんでしょ? それも問題ないよ。大丈夫。多分」
「多分?」
「あ、うん。こっちは、まぁ問題ない……いや、あるにはあるんだけど、それより父さんたちの方が大変だと思うよ」
「ん? どうしてだ?」
「行けばわかるよ。あんまり驚かないでくれると助かるんだけど、瑞穂も来るし」
「わかった。覚悟しておこう」
「あはは。よろしくお願いします」
「ちょっと寄っていくか?」
と言って、父さんが居酒屋を指す。
「いいけど。ちょっと待ってね」
父さんに背を向けると、束ねてた髪をほどいて軽く頭を振る。
コートを脱いで心持ち背筋を伸ばす。
そして、シャツのボタンを胸元まで開け、両袖を折り返した。
「お、おい……」
「よし、お待たせ。入ろうか」
戸惑う父さんの腕を取ってお店に入る。
「いらっしゃいませー」
景気のいい店員の声に迎えられて父さんとカウンターに並んで腰掛けた。
「あら、いらっしゃいませ」
すぐに、和服姿の女性が、笑顔でおしぼりとお茶を出してくれる。
そして、そぉっと、父さんの耳元に顔を寄せてつぶやいた。
「不倫?」
「けほっっ」
飲んでいたお茶でむせる父さん。
あはは。慌ててる慌ててる。
「違う。……娘だ」
「まぁ。本当に?」
「本当だ」
「ホントに本当?」
「嘘ついてどうする?」
「そっかぁ。あ、はじめまして。晶子と言います。いつもお父さんにはご贔屓にしていただいてます」
と、丁寧に挨拶してくれる。
「こちらこそはじめまして。さくらです」
それに習ってこちらも軽く会釈した。
もちろん愛想笑いも忘れていない。
「これはこれはご丁寧に。ふぅん。智さんにこんな大きな娘さんいたんだ」
冷やかすように微笑む。
「えっと、晶子さん?」
「はい。なにかしら?」
晶子さんは大人の余裕を感じさせる笑顔で振り向く。
「父はよく来てるんですか?」
「そぉねぇ。週イチくらいかしら。以前は奥様とふたりで来てくれてたりしたのよ」
「へぇ」
母さんと来てたりするんだ。
「ビール。それと……」
話を中断させるように父さんが注文をする。
「あ。私もビールで」
父さんの顔を覗きこむ。どうしようか迷っている父さんに『一杯だけ。ね?』とジェスチャーで頼み込むと、苦笑いして頷いた。
「生ふたつ」
「はい」
晶子さんが笑顔でテキパキと準備を始める。
よし。ハタチオーバー作戦成功。
ふふ~ん♪この為に年上モードにしたんだからね。
家じゃマズイけど、ここなら母さんの目も届かないし大丈夫だろ。
「母さんには内緒だぞ」
小声の父さん。
「ん。ありがと」
ふたりで小さく笑った。
「お願いがあるんだけど」
料理を適当に注文して、ビール(俺は二杯目からウーロン茶)を飲みながら下宿のおばさんのことや家を離れていた間の話を交わしたあと、頃合いを見計らって切り出す。
「珍しいな。なんだ?」
機嫌良さげな父さん。
「アルバイトしたいんだ。で、学校側に両親の許可が必要なんだけど」
ちょっぴり上目遣いで父さんを見る。
「どうした? 小遣い足りないか?」
「そうじゃないんだけど。ちょっとね」
この体にかかったお金を少しでも返したいんだ。と言う言葉をウーロン茶で飲み込む。
「どんなバイトなんだ?」
「それはまだ決めてない。土日だけで良ければ今月からでもやりたいんだけど、本格的には夏休みに入ってからかな」
「そうか」
「どうかな?」
「まぁいいさ。おまえがやりたいのなら別に反対はしない。でも、だからと言って成績に影響が出ない範囲でな」
「ん。わかってる」
よし。これであとは学校側に申請して、バイト先探すだけだな。
「部活とかやらないのか? ほら、前に空手や剣道やってただろう?」
「部活は、なにか文化部に入るつもり」
「そうか。でも、体動かすのは好きなんだろう? 先日も庭でやってたじゃないか」
「うん。でも部活としてはもういいや」
「そうか。でも……。まぁいいか。好きにするといい」
「ありがと。父さん」
それから。ちょっと飲み過ぎた父さんに肩を貸して家に帰った。
ほろ酔い加減の父さんを笑顔で迎えた母さんは、ちょっぴり眉がヒクついていた。
予感めいたものを感じた俺は早々に自分の部屋へ退散してことなきを得たけど、その後、父さんがどうなったのかはわからない。
ま。大丈夫だと思うけどね。
五章終わり。キリよい話数。




