002 家族
「ただいまー」
「あ~。お兄ちゃんお帰り~」
一週間ほど前に久しぶりに戻ってきた実家の玄関をくぐると、妹の瑞穂が愛猫チェリルを抱えて、嬉しそうにとてとてと出迎えにきてくれた。
瑞穂とは歳がふたつ離れている。
共働きの両親に代わって、小さい頃から面倒を見てきたせいもあってか、お兄ちゃんっ子でよく懐いてくれていると思う。
それでいて小学校高学年くらいからは妙にお姉さん風を吹かせたりして、逆にこっちの世話を焼くようになった。
正直、空回り気味だと感じることも多いけど、本人が好きでやっているみたいなので黙認している。
それは二年半のブランクがあった今も続いているみたいだ。
身内のひいき目があるのかもしれないけど、なかなか可愛いと思う。
俺と瑞穂はあまり似ていない。
瑞穂は母さんにそっくりだけど、俺は親父の方の母親、つまり婆ちゃんに似てるらしい。
「瑞穂。お兄ちゃんじゃない。……お姉さん。だ」
訂正すると『えへへ』と笑って、わかっているのかいないのか、舌をペロっと出した。
「にゃぁ」
チェリルが瑞穂の腕から抜け出して、靴下に額をこすりつけるようにすり寄ってくる。
「チェリル! 瑞穂よりお兄ちゃんの味方なの!?」
「そうだよな。チェリルは俺の味方だもんな~」
話しかけながらチェリルを抱きかかえる。
胸の中で揺らしてやると、気持ち良さそうに目を閉じて喉をゴロゴロと鳴らした。
キッチンの方に歩きながら、ちょっと膨れてる瑞穂の頭をポンポンと軽く叩いて話しかける。
「親父は?」
「まだ、帰ってきてないよ」
「そっか。母さーんご飯まだ~?」
キッチンへ続く入り口の暖簾をくぐりながら母さんに晩ご飯を催促すると、
「はいは~い。もうちょっと待っててねぇ」
母さんは楽しそうに笑顔で答えて料理を続ける。なんだか、いつにも増して嬉しそうだ。
リビングルームのソファーに腰を下ろし、テレビのリモコンを操作する。
抱えていたチェリルを離してあげると、にゃぁんと甘えた声で鳴いて膝の上でくつろぎ始めた。
その横では、さっきから後をくっついてきていた瑞穂がニコニコと微笑みながらこちらを見ていた。
「ん? なにか顔についてるか?」
テレビのチャンネルを変えながら尋ねると、
「なんでもないよ。ただ、お兄ちゃんが帰ってきたのが嬉しくって」
屈託のない笑顔で答える瑞穂。その言葉に、料理の皿を持って入ってきた母さんが相槌を打つ。
「そうよねぇ。やっぱり一樹ちゃんがいると料理にも張り合いが出るわぁ」
にっこりと微笑みながら、唐揚げを山盛りにした皿をテーブルに置く。
「もう……。母さんも瑞穂もちゃんと呼んでくれよな。俺は『お姉ちゃん』で『さくら』なんだから。そんなことじゃ、いつかご近所にボロが出るってば」
「そうねぇ。私の娘たちですから、近所でも評判の美人姉妹って噂も立つでしょうし」
嬉しそうに次々と料理を運んでくる母さん。
「言ったろ。俺は従姉なんだってば」
「あらあら、そうだったわねぇ、さくらちゃん。でも、私のことは今まで通りに、母さんって呼んでいいですからね~ふふ」
…………。
そう。俺が女になってしまって、母さんがショックを受けてたのは、ほんの最初の頃だけだった。
それからすぐにこの事実を当たり前のように受け入れた。
瑞穂も似たようなもんだ。性格も母さんに似てるし。
問題は俺と親父で、手術のあと、引っ越ししてひとり暮らしを始めたのも名前を変えたのも、俺から提案して家族の中でも最初に親父が賛成した。
そんなところは、どうやら男の方の肝が小さいらしい……って、今は女なんだけどね。
母さんと瑞穂は、女になった俺とも今まで通りな雰囲気で接してくれるんだけど、親父とはどうも疎遠になったように感じる。
そりゃぁさ、今まで手塩にかけた(?)息子が、実は女の子でした、なんて言ったら気落ちのひとつもするんだろう。
今では、ちょこちょこっと挨拶するくらいで、以前のようには話さなくなった。
ちょっと寂しいけど仕方ないかなとも思ってる。
「さぁ、さくらちゃん瑞穂ちゃん、たーんと召し上がれ」
「いただきまーす」
手を合わせてから、俺と瑞穂はそれぞれのご飯に箸をつける。
「たくさんあるからね。どう? 美味しい?」
「うん。やっぱり母さん、料理上手いよね」
下宿先の食事を思い出しながら答える。
別に、そこの食事がおいしくなかったってことじゃない。
でも、飲み慣れた水や食べ慣れた味が味覚の基準になるものだ。
俺も当番制で夕食を受け持っていたけど、まだまだ母さんには敵わない。
「ふふ。ありがと。お世辞でも嬉しいわね~」
俺たちの食べる姿を嬉しそうに眺めながめる母さん。
会話しながらも、布巾でテーブルを拭いたりと忙しそうにしている。
ん? ひょっとして照れてたりするのかな。
「もう、お部屋の片づけは終わったの?」
今度は急須にお湯を注ぎながら話しかけてくる。
「大体は済んだかな? 元々そんなに荷物なかったから。どっちかと言うと以前の持ち物を処分する方に時間がかかったくらいだし」
「なにか欲しいものはない?」
「欲しいもの?」
「ドレッサーとか花柄のカーテンとか」
「……いらない」
「化粧品とかアクセサリーとか」
「……いらない」
「ワンピースとかハンドバッグとか」
「いらないってば!」
「そう? 欲しくなったらお母さんに言ってね。さくらちゃんもお年頃ですからねぇ」
「……お年頃……」
さっきは女として扱えみたいなことを自分から言った手前、反論も出来ずに黙っていると、瑞穂が代わりに母さんに話しかける。
「お母さん。瑞穂~春物のワンピが欲しいな~」
天真爛漫と言うか無邪気と言うか、瑞穂が満面に笑顔を浮かべて甘えた声を出す。
「あらあら。それなら今度、お母さんと一緒に見に行きましょうか」
「うん。やったね」
喜ぶべきか悲しむべきか。女同士の家族の会話としては遜色ない団欒のひとときに、心の中で溜め息をつきつつ黙々と食事を続けた。
そんなこんなで親父が帰ってくる前に食事を済ませ、構って欲しそうな瑞穂を適当にあしらって自分の部屋へ退散する。
明後日はいよいよ高校の入学式。
ベッドの上に置いていた制服を目にすると、気分がどんよりと沈んでいく。
……スカート。
それもセーラー服。
転校先の中学は私服登校|(だからそこを選んだ)だったのでスカートを穿かずに済んだんだけど。
カウンセラーの先生が言ってたんだけど、こういったものは慣れるのが一番だそうだ。
日頃から身につけていれば、すぐに気にならなくなるそうなんだけど。
そうは言っても精神面の抵抗が強くて、一度だけ穿いたことはあるものの、それ以来スカートだけは避けてきた。
本当に慣れてしまえるものなのか信じ難いし、その自信もない。
でも……学校は基本的に制服着用だし、ここであれこれと思案してても仕方ないので、とりあえず試着してみようかな。
一度は決心して制服を手にしたんだけど、試着に対する葛藤が頭の中で渦巻いて思考が停止する。
制服を見つめて、ぼぉ~っと立ちつくしていると、静かにドアをノックする音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん……ちょっといい?」
ドアの向こうから瑞穂の声が聞こえてくる。
「どうぞ」
と言うが早いか、俺の返事とほぼ同時に瑞穂が部屋に入ってきた。
そして、手にしていた制服を目ざとく見つけると、はしゃいだ声を出す。
「あ。高校の制服だぁ。光綾のは、ちょっちアナクロなセーラーだったね。でも、可愛くて結構男女ともに人気あるんだよ~」
なんだか、すごく嬉しそうな瑞穂を前に、俺はなにも言えずにまぶたを閉じる。
無意識にこめかみがヒクヒクと震えた。
「あれ? お兄ちゃん。なんか機嫌悪そうだね」
そんな俺の変化を見て取ったのか、瑞穂が俺の顔を覗き込んでくる。
「当たり前だ! セーラー服なんて着られるか!!」
「え~? なんで~? 似合うよーきっと」
その似合うってのも問題なんだ。
まだ、男として育ってきた自覚と言うかプライドからか、スカートを穿くこと自体に抵抗を感じる。
前に一度だけ穿いた時は、股下が落ちつかないやら女装してるみたいだわで、それ以来穿いていない。
「ね。ね。着て見せてよ」
「な!?」
「予行練習だと思って。ね? そうそう着方わかる? 瑞穂が教えてあげるよ」
妙に……いや、かなり嬉しそうにして瑞穂が俺にセーラー服を着せようと、目をキラキラと輝かせている。
一瞬断ろうかと思ったけど、明後日には着て行かなきゃならないんだし、現在かなり決心は鈍っていたけど元より試着してみるつもりだったので渋々了承した。
意を決すると、パパッと今着てるセーターとジーンズを脱ぐ。
「あ……わ……」
瑞穂が持ってたセーラー服に顔を埋めて、それでも顔を真っ赤にしながらこっちを見ている。
「?」
「お姉ちゃん……胸おっきいね」
そう言われて、マジマジと自分の胸を見下ろす。
確か中三になってから急に成長しだしたんだよな。
今ではもうなんともないけど、膨らみ始めた時は疼くように鈍い痛みが胸全体を覆っていて、四六時中意識が胸にいくし、触ると痛いしで正直パニックだった。医者の話では、女性ホルモンが分泌され始めて、正常な発育が始まっただけだから心配するなとか言ってたな。
「んー。まぁな。瑞穂も、そのうち大きくなるよ」
なんの根拠もないけど、とりあえずそう口に出してみる。
瑞穂は確かまだまだ小振りかもしれない。と言っても実際に生で見たことはないんだけど。
「ねぇねぇ、やっぱり揉むとおっきくなるの?」
興味津々、好奇心に爛々と目を輝かせて瑞穂が詰め寄るようにして訊ねてくる。
いったいなにを言い出すかな、この娘は……。
「……友達に遊び半分で揉まれたりしたことはあったけど、それは原因じゃないと思う。去年くらいからかな急に大きくなり始めたのは」
「えぇ!? ねぇ、お姉ちゃん。その友達って男の人?」
「バカ。んなことあるわけないだろ。女の子だよ」
親友にして悪友の月城薙の顔が思い浮かぶ。
「ほぇ~。それじゃ瑞穂もお姉ちゃんみたく、これからおっきくなるのかな?」
そう言って自分の胸に両手をあてる。
「そうなんじゃないの?」
それにしてもコイツ、下着姿だとちゃんとお姉ちゃんと呼ぶのな。
「さぁ、早く制服よこしな。風邪ひいちまう」
「あ。ごめんね。ハイ」
渡された制服のスカートをつまみ上げ、足を通してホックを留める。
ちょっとウエストブカブカかな?
「あ。それはね。ここで大まかに調節するんだよ。あとの微調整は、ここに金具が並んでるでしょ。これでやるんだよ」
瑞穂が調節してくれてる間に、シャツのボタンを留めて上着の袖を通す。
「リボンは普通に結べばいいよ。っと。これでよし」
着付け(?)が終わって、姿鏡の前で前後ろとクルクル回ってみる。
「ほらほら。お姉ちゃんすっごい良く似合ってるよ」
「……」
確か似合ってた。
悲しいほどに……。
セーラー服が似合う自分になんだか泣きたくなったが、瑞穂の手前我慢した。
コイツにはこの気持ち、絶対わかんないだろうな。
「スカート、ちょっと短くないか?」
膝上十センチほどのスカート丈が心許ない。
「今は、これくらい普通だよ」
「そうなのか?」
パンツ見えるんじゃないのか? これは。
「うん。でもお姉ちゃん、足綺麗だからいいじゃない」
「いや、そんなことを問題にしてるんじゃなくて」
「気になるんならストッキングしたらどうかな? 確か学校指定のものがあると思うんだけど」
「う~ん。そうだなぁ……ないよりは安心するかもな」
「お母さんが新しいのいくつか持ってたと思うからあとで聞いてみたら?」
「ああ」
「そうだ! ねぇねぇ。お母さんにも見せてあげようよ」
「いぃ!?」
「ほらほら。早く早く!」
「ちょっ、ちょっと待て……」
瑞穂はこちらの返事も待たずに引っ張って行く。
「お母さ~ん。ほら、お姉ちゃんの制服姿だよ~」
キッチンに入ると、親父が帰ってきてて背広姿のまま水を飲んでいた。
俺の制服姿を見て、コップを口につけたまま時間が止まったように動かなくなる。
「まぁまぁ。さくらちゃん! 良く似合ってるわよぉ」
「……ぁぅ」
母さんが手放しで誉めちぎるせいで、女装を見咎められたような気恥ずかしさから顔が赤くなっていく。
「そうやって、頬を赤く染めてるところなんて、すっごく可愛いわぁ」
母さんがエプロンの裾を両手でギュッと握って、心底そう思ってるような仕草で遠慮のない感想を述べる。
「うんうん。やっぱお姉ちゃん可愛いよ~」
「ふむふむ。これはボーイフレンドの四、五人はすぐに出来るわね~」
「ねぇお姉ちゃん。中学の時にラブレターとかもらってたの?」
「そうねぇ、さくらちゃんならすでに引く手数多かな?」
おもちゃとなっている俺を尻目に、親父はひとりキッチンから出て行った。
(はぁ……)
その後ろ姿を見送りながら小さく溜め息をつく。
帰ってきてるって知ってたら、こんな姿で下りてこなかったんだけどな。
息子の情けない姿を見て呆れちゃったかな。
制服の話題で盛り上がる母娘を残し、ソッコーで部屋へ戻って着替えた。
今日はもう風呂に入って寝よ。とほほ……。