波止場にて
かもめの鳴き声が、潮風に混ざって、フェンスに寄りかかりなが本を読んでいる狭くて長い一本の波止場に、〝彼〟はいた。
テトラポッドが埋まった彼の足元では、満ち潮に合わせて海水が浸攻をはじめている。
そんな夕暮れの一区切り。
勇次は自分の駆る空賀機を遥か遠方に見据えながら、少々厚めの装幀の本を片手に熟読している。
外側からは良く見えなかったが、どうやら英語で綴られているようだ。
僕は聞けて、話す事はできても、読んだり書いたりすることはできない。
分かるだろうか? これらは別の能力なのだ。
その聞くことと、話す事、この二つをとってみても、ごく一般素養のやさしい表現までしか理解できないので、当然その本がなんであるかも分からないのであった。
「何を読んでるの?」
でも彼が、その本をいつも大事そうに抱えながら、信仰心の篤い敬虔なカトリック教徒やクロイツ一世を未だに救世主と崇めるクロイツ帝国のバイエルン人のように
いつも眺めていること、それは知っていた。
聞く機会がなかったわけじゃない。聞く勇気がなかったから、僕はその時初めてその本について問うたのだ。
「ああ、これはね。指輪物語っていう本だ」
「ふうん」
別に、その本のことを知りたかったわけじゃない。小説なんて、まして英文の小説など、興味もない。
そうではなくて、僕はその本を読む勇次が知りたかっただけだった。
「どういう内容なの?」
「どういう内容? かぁ……」
そう訊ねられると、勇次は険しい顔つきで三十秒近く熟考してから、ようやく口を開いた。あんまり長かったので、
「そう、物語の内容。あれ、聴こえてる?」
と、尋ね直したほどだった。
「聞いてるよ。そうだね。うーん。上手く説明できるか分からないけど……後、長い話になるけど、サウロンっていう冥界の王が、世界を支配する強力な指輪を作って、
色々な種族のいるその国に、自分の作った別の指輪を送ったんだ。その指輪は種族を纏める兄弟な力があったんだけど、実はそれが罠でね。
自分の指輪によって指輪の力支配されていたんだ」
なるほど、なんだか神話みたいな話だ。
「というか、中央集権的だね。政治っぽいかも」
「あー確かに」
話を続ける。
「その冥界の王サウロンに立ち向かう人達の中にイシルドゥアっていう人がいて、その世界の色々な種族を纏め上げて、戦いを挑むんだ」
へえ、なんだか面白そうだ。
さっき僕の言っていた興味がないという言葉がまるで僕が最初から嘘だったみたいな雰囲気になってしまっている。
勇次は、本当に人を説得したり、感化させたりするのがとても上手だ。
彼が口喧嘩で負けてる姿を、僕は幼少のころから見た事がない。
勢いに任せて乱痴気な声の大きさで相手を威圧する訳ではなく、汚い言葉で罵倒したりもしない。
では理詰めで追い詰めるのかというと、それも違うのだ。
彼はともかく、真心を込めて、ただ優しい言葉遣いで、相手の意識を変える。
それが彼のやり方。
彼と口喧嘩をした者は、自分がいつのまにか、何と戦っているのか分からないというような心理的錯綜を覚える。
自分を見失ってしまう。そこで足元に照らされたともし火のような彼の優しさが加わると
相手は仲良しになるか、女なら惚れるかのどっちかだ。
「で、イシルドゥアは勝てたの?」
「そう、勝ったんだ。サウロンにはね……」
「サウロンには?」
なんだか含んだもの言いだったので、どういう意味かを窺うと。
冥界の王に勝って、それで終わりじゃないことがわかった……。
「そう、そこからがはじまりなんだよ。 続きは読んでからのお楽しみさ、黒江、お前も少しは本を読んだらどうだ?」
うわあ、そこまで見抜かれていた。
やっぱりすごいな、こいつは……。
俺は本当に、こいつと友達で、一緒に戦えてうれしい。
後は色々な種族が出てくるらしい。最近の日本の趣向とは、また少し違っていて、説明するのに苦戦していたし、僕も2割も理解できていなかったと思う。
スパイダーマンみたいに空を飛んだりはしないの? っと聞いたけど、僕のことを冷笑していた。
ああ、なんていうか、ああいう雰囲気じゃないんだよね。
後になって思い返してみれば、この言葉の意味がとても良く理解できたけど……そのときはそれすらいまいちで、ハテナマークを頭に量産させていた。
なんと説明したらいいのか……。割と本気で困った表情をしていたことから。
彼のその物語に対する情熱は、本気だったのだろう。
なんでそんなに夢中になるのかと聞くと、彼はその世界観がとても気に入っているらしい。
「こんな世界が理想的だなって、俺も思うんだよ。 まぁ、俺は彼らみたいに世界を救うとかっていうのは、ちょっと荷が重過ぎるからいやだけど
もうちょっと日常的な感じで、できればエルフとか……長生きする種族で生活とかできたら、いいね」
「エルフ?」
「そう、エルフ族は、何千年先も生きるんだよ。決して老いることがないんだ」
ちょっと理解できなかった僕は慌ててみせた。
「な、何千年って、俺達の暦からあのキリストが生誕してからもまだ2000年とそこらなんだよ?」
「そう、生き続けるんだよ。体を著しいく傷つけられたりしない限りはね」
その一言を聞いて、ちょっとだけ安堵の表情とともに、乱暴な言い方で言い放ったそれは。
「ああ、でも死ぬのか鉄砲で撃たれたりしたら」
「ま……まあそりゃあね。でもそうか……」
勇次にとっては痛烈な一撃だったようだ。
「だったらあんまり便利じゃないよね。ずっと何百年も家に引きこもってたって、そのうちすることなくなるし」
「外にでたら、変なのにとっつかまる可能性だってあるし」
「確かに……」
と、勇次はなんだか凄くがっかりした表情を見せた。なんか変なこといっただろうか。
しかし次の瞬間、表情を明らげると何か思いついたように、またその口を開きはじめた。
「不死か……不死といえば、吸血鬼とかもあるぞ。あいつは銃に撃たれてもしなないよ」
「え、銃に撃たれても死なないのまでいるの?」
「でも老化もするでしょ?」
「いや、老いとかもない」
「ええ!」
死ななくて老化もしないなんて!
「ああ、ただ、まぁ色々と制約はあるけどな」
「うっひゃー、なんでもやりたいほうだいじゃん」
「後、この指輪物語ではでてこないけどね……」
「別の作品のなのか」
なんだよ。びっくりさせやがって……。そしたら日本のヒーローでも、近いやつはいるよ。
不老不死という表現はそれでもあまりないとは思うけど。
「作品というか伝承というか……まあ近い感じなのかな?」
と、二人で話しに浸っていたら、いつの間にか消灯の時間が迫っていた。
最後に「そんな世界が、あったらいいね」とだけ告げて、僕はようやく本題を切り出した。
「そんな本好きの勇次にちょっと頼みがあるんだよ」
「――ほう、できることなら構わないが」
「――……ふむふむ、でも読むのと書くのとでは、ちょっと違ってくるぞ?」
「――な、なんだって? そんなのってアリなのか?」
と、いう驚愕と懐疑の返答を繰り返しはしたものの。
「でも、やってみるよ黒江」
「本当か!?」
「それに、なんだか面白そうだしな」
やっぱり彼こと勇次は快い返事で僕の計画について承諾してくれた。
さて、後は予定がしっかり立てられれば良いのだが、でもその前に明日のことか……。
そこには色々な種族が住んでいて、こことは違う摂理で生きる日常があって、でも笑ったり、泣いたり、怒ったり、楽しんだり、時には世界を揺るがす事件があったり。
それを救う為に戦ったり、そんな異世界の幻想を、勇次は本気で信仰しているのかもしれないな。
――彼のそんな純朴な一面が見れて、とてもよかった。




