真夏のループ
それは、暑い暑い日のことだった。
クーラーのない部屋の温度がいけなかったのか、カーテンの隙間から差し込む日差しがいけなかったのか、嫌な夢を見た。
暑い道を一人で歩く夢だった。陽炎が立ち上るアスファルト。歩き続ける自分は、ひどく喉が渇いていた。喉が渇いたまま暑い中を歩き続ける――そんな夢だった。
朝方見た夢を思い出してしまったのは、現実でそれと似た暑さの中を歩いているからだろうか。照りつける日差しの下を歩いていると気が滅入る。学校帰りの制服姿なのだから暑さもまた格別だ。
「この夏休み、遊びの予定はある?」
気分転換かそれとも自棄か、隣を歩いていた友──アキラにいつもよりも勢い良い声で問われた。
「殆どが学校で勉強だろ。これといった予定はない」
残念ながら現代の高校生にはやることが多い。学歴社会の神話は崩壊しつつあるが学歴はあるに越したことがなく、とりあえず将来の為に勉強、そんな惰性的な繰り返し――ループに親も教師も自分達もハマってしまっている。
抜け出したいと思わなくもないが、かといって何をしたいという明確な目標があるわけでもない。よって、親や教師達の言い分に合わせることに不都合はない。
勿論アキラも同じ中学、同じ高校と進んでループの中にいる。今日も夏休みだというのに高校の企画する特別授業(進学の意思ある者は全員強制参加)の帰りだ。
先の問いかけが「勢い良い」としか言いようがなかったのもそのせいかもしれない。夏休みの予定の半分は特別授業で埋まり、しかもそれは切れ切れに配置されてるものだから長期旅行も望めない。夏休みの予定を聞いたところで、大した事がないのが互いに分かり切ってる。期待に満ちあふれた問いかけになどなるわけもない。
「でもいつもより休みはあるじゃないか」
「もれなく大量の宿題が付いてくるけどな」
額に浮かぶ汗を拭いながら答えるとアキラが大仰に溜め息をついた。
大量の宿題は三日以上の休みの時に出されるが、日常でも特別授業で読み解くテキストの予習は必須となる。授業では解答と解説だけやるものだから結構な速度で進行し、予習の量も多い。今日も家に帰ったら鞄に入っているテキストとにらめっこだ。
「サボってしまいたい」
呟いてアキラは恨めしそうに自分の鞄を叩いた。
「それが本当に出来ることならな」
一応同意はしてみせた。サボりたいと言いながら、アキラも自分も本当にそうする事はできないだろう。真面目な訳ではない、互いにサボる理由が見当たらないだけだ。
「ジュンくらい頭が良ければ宿題もサクサク出来るんだろ? いいな」
「俺は頭が良い訳じゃない。理屈っぽいだけだ。それに俺の部屋にはエアコンもないんだ、宿題なんか全然進むものか」
答えて、溜め息を一つついた。アキラとの会話のせいではない。この照りつける日差しのせいだ。
汗を拭い、首を振る。そんな行動を取ったところで暑さに変化はないのだろうけれど。
夢と同じように喉がひどく渇いていた。
高校へは電車通学だが、駅から家まで徒歩二十分という面白くない現実がある。三十分だったら駅まで自転車で行くことも考える。が、歩いても問題のなさそうな二十分では駐輪場の件等考えて結局徒歩を選んでしまった。問題はない──ただし、普段であれば。この日差しの中、二十分の徒歩。田舎ながらも店の並ぶ道を通っているのに砂漠を歩いている気分だ。溜め息の一つや二つつきたくもなる。
暑さなんて若いのだから大丈夫、と教師は言う。自分達の時代はクーラーも当然禁止されていたけれど、辛い辛いと言いながらも乗り越えられたのだと。果たしてアスファルトが延々続く道の温度は若さだけで乗り切れるものだろうか。しかも今日は職員会議で特別授業は十時半に終了した。速やかに帰りなさいと追い出され、このように炎天下を歩く羽目になる。
明日も明後日も特別授業はある。明日も明後日も天気予報は晴れだった。更に言うならばその先も。「一週間は良いお天気が続きます」空調の利いているだろう室内でにこやかに告げたお天気お姉さんは悪魔に見えた。
学校を出てからずっと制服が汗で肌にまとわりついて気持ちが悪い。蜃気楼とまではいかないが、陽炎は学校を出たときから見えている。脱水症状や日射病で倒れて噂になるのは非常に不本意だ。
「あちーなあ。ジュースでも買う?」
「ここまで来たんだ、もう少し我慢して家で冷たいのを飲みたい」
「キューッと? 親父みたいだな」
そういうお前こそ親父っぽいのだと言い返したかったがやめた。その代わりに止めどなく吹き出る汗を拭う。
「本当に暑いな」
言っても無駄だと分かりながら口にして、後悔した。己の発した暑いという単語を耳にして益々気が滅入ったからだ。
「年々暑くなってるよな。あー、目の前に海かプールが出てこないかな」
無駄な願いを口にするアキラの顔は思ったよりも真剣だった。アキラは水分補給が必要な状態なのかもしれない。幻覚を見て道に寝そべった日には熱されたアスファルトで火傷をしかねない。
生徒が一人くらいそうなれば学校も考えてくれるのだろうか。それとも、生徒がたるんでいるからだと言うのだろうか。――尤も、小学生高学年の頃からつき合いのあるアキラをそんなことの犠牲にしたいとは思わないが。
「俺も付き合うからスギシタで何か買って飲むか」
スギシタは駅と家の間に──どちらかといえば家寄りにある、自分が幼い頃から行きつけの駄菓子屋の名だ。恐らく駄菓子屋を営んでいるおばさんの名字なのだろうが、店に看板が出てないから杉下なのか他の字なのか分からない。正式名称ももしかしたらスギシタなんとかと続く可能性もある。幼い頃に「スギシタ」と認識していたから「スギシタ」は「スギシタ」で自分達にとってはそれ以上でも以下でもないのだけれど。
「うしっ、じゃお先!」
アキラは片手を挙げてみせ、駆け出した。数十メートルも走って角を曲がればスギシタがある。付き合うと言ってるのに先に駆けていってしまうのは、それほど程喉が渇いていたのか性格なのか……多分両方だろうと結論づけて足を進めた。
スギシタの前でラムネを片手にアキラは店のおばさんと話をしていた。おばさんと言っても、幼い頃におばさんと認識しそのままそう呼び続けているだけで、実際は八十歳過ぎているはずだ。
「おばさん、俺にもラムネを」
差し出した小銭を受け取り、おばさんは店の中へと戻っていった。
「高校生になって良かったことは買い食いが禁止されてないって事だな!」
「それだけを上げられると非常に虚しい気になるのは何故だろう」
おばさんが笑顔でラムネを片手に戻ってきて──暑いねえとかそうですねとかそんな会話をしていると、どこかでサイレンが鳴った。昼を知らせるサイレンにしては時間がおかしい。十一時をやや過ぎたばかりだ。そもそも町内放送でないのはその音で分かった。町内放送はもっと濁った音がするのだから。
こう考えている間にもサイレンはまだ鳴っていた。受け取ったラムネの瓶が異様に冷たく感じられた。
「あ」
アキラが驚いたように何かを見ていた。アキラの視線を辿ると、その先には店のテレビがある。もう一度アキラを見たとき、アキラはとても敬虔な表情で目を閉じていた。
「アキラ」
呼びかけに反応せずアキラは目を閉じていて、アキラを驚かせたテレビの画面には沢山の黙祷する人々が映し出されていた。目を凝らして、画面の隅に書かれた文字を読みとる。それが長崎の原爆の慰霊だと分かった時にサイレンは鳴り止んだ。
サイレンが鳴り止んで少しの間の後アキラは目を開けた。そういえばアキラは小学校高学年の頃に長崎から転校してきたのだと──唐突に思い出した。
「そうか」
納得して漏らした声が聞こえたのか、鼻の頭を掻いてアキラは困ったように笑う。
「うん。久々にサイレン聞いたから」
「誰か、身内でも──」
原爆で亡くなったのかと聞こうと思ったけれど、失礼な気もして言葉に出来なかった。その問いかけの先を読みとったアキラが頭を振る。
「うんにゃ。ばってん長崎育ちやっけん」
明の使った言葉はあまり耳慣れない響きだった。アキラが長崎生まれだというのを忘れていたのは、アキラが殆ど方言を出さないからでもあるのだろう。出会った頃からアキラは方言を使っていなかった気がする。
今のアキラの言葉は耳慣れない響きだったが、久々に方言を使うアキラが間違えたせいなのか元々こんな言葉なのか分からなかった。
「方言も合ってるのか分からなくなったな。ずっと黙祷も忘れてた」
言葉を切って、アキラは空を見上げた。どこまでも憎らしいほどに青い空を。
「──ここでは、サイレンが鳴らないから」
確かに、自分はずっとこの町で育っているけれど原爆の時間のサイレンなんて聞いたことがない。終戦記念日に黙祷する程度だ。
店の中では、サイレンの音を響かせたテレビがもう今日のニュースを知らせていた。
「ま、こう言っても長崎も広島の投下時間には鳴ってなかったけどな」
「……そうか」
何がそうかなのか分からなかったが、他に言葉が見つからなかった。
「俺は終戦記念日にまとめて祈るとするかな」
取り繕うように呟いて視線を移すと、珍しく今まで黙っていたおばさんと目があった。おばさんはいつにない悲しい目をしていた。
「アンタ達は」
嗄れた声になったせいか、二度咳をしておばさんはもう一度口を開いた。
「アンタ達は何を祈るんかね」
責めている調子ではなかった。か細い問いかけの声に、自分とアキラは顔を見合わせた。
「え」
「おばさん?」
問い返しながら気づいた。今更気づくのも間抜けな話だが、おばさんは恐らく八十歳以上──自分達にとってはもう遥か昔の出来事である戦争を経験しているのだ。遥か昔と言うのは失礼かもしれない。けれどまだ高校生の自分は十五歳で、戦後何十年という言葉にも少々現実味がない。
「平和な時代に生まれたアキラ君とジュン君は何を祈ってくれるんやろか」
おばさんは店とおばさんの家を仕切る戸の方を振り返った。その和室に仏壇があるのは、子どもの頃好奇心で覗いたものだから皆が知っている。もしかしたら、おばさんの身内や親しい人は戦争で亡くなったのかもしれない。
カシン、と妙な音がした。アキラが手にしていた空のラムネの瓶を落とした音だ。それは割れずに床に転がりカラカラと空虚な音をたてた。
「あ、ごめんなさい」
慌てて拾い上げて、アキラは手を伸ばせば届く場所にあった瓶の回収棚にラムネの瓶を並べた。おばさんはいいよいいよとか言って笑っていた。
喉が、ひどく渇いていた。手にしたラムネの瓶は少しずつ温度を失ってきている。まだ冷たいその瓶を握りしめて、おばさんの問いかけを思い出していた。
黙祷はするけれど、いつも不思議だった。あのサイレンが鳴り続ける時間、何を祈ればいいのかが。
自分の父方の祖父母も母方の祖父母も、自分が小学生の頃に亡くなっていた。戦争の話は遠く、書物や映像に頼るばかりだった。
亡くなった人の冥福、自分達が恩恵を受ける平和への感謝と維持、今どこかであっている戦争の終結。思いつく限り祈ってもなおサイレンは鳴っている。
幼い頃、薄目を開けて誰も黙祷を終えていない事に驚いて慌てて目を閉じた事がある。あの瞬間、非常に恥ずかしい真似をした気がして酷く申し訳なかった。
何を、祈るのだろう。
さっきテレビから流れるサイレンの音に目を閉じていたアキラは、何を祈っていたのだろう。戦争の話は遠すぎて、悲惨な光景は紙や画面の向こうにしかない。その後ろめたさで口を開くことが出来なかった。
聞かれたことが勉強のことなら良かった。もしそうであれば習った分だけ、完全にとはいかなくてもそれなりの答えを言える自信はある。
初めて見たおばさんの悲しい目が脳裏を過ぎる。見当違いのことを口にしてしまったなら、傷付くのだろうか。戦争に様々なものを奪い取られて生きてきたであろうおばさんとその世に生きた人々を傷つけてしまうのだろうか。見当違いのことを口にしてしまったなら、正してくれるのだろうか。おばさんの知っている本当のことを教えてくれるのだろうか。
惑いながら今日の国語の授業を思い出していた。問題の意図を読みとりなさい。筆者は何を考えていたか。筆者の意見を何十字以内でまとめなさい。紙の上の問いに自分はいつも迷うことなく書き込んできた。間違えても誰も傷つけることのない、ある程度書くべき事の決まっている易しい問題ばかりだった。
遠く、アブラゼミの鳴き声がした。響きわたるその音に思考が益々沈んでいく気がする。アキラを見ると、空を見上げて考えるような表情をしていた。
そういえばアキラは今日、国語の授業で当てられて間違えていた。「どうすればこの答えが出るんだ。四択だぞ、ちゃんと問いの意図を読みとってしっかり選べ」――教師に怒られ、ぺろりと舌を出していたアキラ。国語の成績はいつも自分より少し下だった。けれどそのアキラは空を見上げて一生懸命考えていた。自分は回答を放棄しかけている、それに気づいて息を飲んだ瞬間、アキラが口を開いた。
「原爆の日も、終戦記念日も目を閉じて思いつく限りの事を祈ります。亡くなった人の事も。残った人のことも、これからのことも。今どこかであっている戦争が終わるようにとも」
自分も、おばさんもただその言葉を聞いていた。喉がひどく渇いていた。手に握ったままのラムネの瓶は大分温くなっていた。アブラゼミの鳴く中、子ども達が道路の向こうを駆けていくのがアキラ越しに見えた。
「でも、本当はそう言った日に祈るだけじゃいけないんですよね、ごめんなさい」
言ってアキラは頭を下げた。自分も自然とそれに続いた。黙っているだけの自分が酷く情けなかった。
「ありがとね」
おばさんは笑ってそう言ったけれど、哀しそうな顔にも見えた。
「ううん。上手く言えなくてごめんなさい」
もう一度謝るアキラにおばさんは笑い直して――今度はいつもの笑顔で――駄菓子をいくらかくれた。二人分の駄菓子を受け取ったアキラがこちらの方を見て、首を傾げた。
「あれ、ジュンってば飲んでなかったの?」
一瞬何の事か分からなかった。おばさんとアキラの視線が自分の手元に注がれて、そういえばラムネを開けてもいなかったことを思い出した。
のどは渇きすぎて渇いている感覚を失い、ラムネは冷たい温度を疾うに失っていた。
「取り替えたげるから」
おばさんが笑って、冷たいラムネを取ってくれた。
「ありがとう」
すっかり温くなったラムネを返し、冷たい瓶を受け取って喉に流し込んだ。
刺激が喉を通り抜けていく。刺激と共に、先刻まで支えていた感情が全てどこかへ流れていくようだった。
何を祈るのか。一言の問いかけに何も答えられなかった。この回答に点数はつかない。偏差値も出ない。けれど、答えなければならない問題だった。考えなければならない問題だった。
おばさんに頭を下げて店を出た。日差しはまだ強く、蝉の声も煩い。先ほどのテレビも会話も夢のような、呆れるほど日常の光景だった。自分の分の駄菓子を手渡され――一瞬返そうかとも思ったが、そこまでする程のものでもないかと思い直し――礼を言って受け取ってポケットに押し込んだ。
「暑いなあ」
アキラが額に浮かんだ汗を拳で拭った。さっき飲んだラムネがそのまま汗に変わっているような気がする。
「夏休みの予定が何もないなら、今度の休みにプールでも行かないか」
「男同士で行っても虚しいだけだ」
ちえーと言ってアキラは空を見上げた。いつものアキラだ。さっきおばさんに答えてみせたのは別人ではなかったろうかと思うほどに。
「お前、夏には毎年あんな事考えて祈るのか?」
疑問はそんな問いかけに姿を変えた。アキラは足を止め、驚いたようにこちらを見る。通り過ぎた話に引き戻されたのが意外だったに違いない。アキラが驚くのも無理はない。話を戻した自分自身が一番驚いているのだから。
瞬時迷う素振りを見せたアキラだったが、頷きを返した。
「祈るよ。心苦しいけどね」
不思議な答えだった。
何故、と言いかけて自分の家の前まで来ていることに気がついた。このまま別れるべきだろうか――手を振ってまた明日、と。けれど明日こういう会話が出来るかは非常に怪しい。
「どうする?」
惑う自分に問いかけたのはアキラだった。驚きつつ、アキラの顔を見つめる。
「……どうするって?」
「こんな話、ジュンとするの初めてだからさ。このまま話してたい気もする」
思っていたのは似たようなことだった。アキラと出会ったのが小学五年生の時。それから五年ばかり付き合って来たけれど――こんな話を最近まともにした記憶がない。当たり障りのない会話ばかりしてきたから。
「そうだな、俺もお前と話していたい。エアコンはないけど、冷たい茶くらいなら出せる。暑いけど上がってくか?」
「あ、そうか。ジュンの部屋ってエアコンないんだよな。ちぇ」
わざとらしくそう言って、アキラは笑った。
「お茶宜しく。お邪魔します」
そういえばアキラを自分の部屋に招くのも久々だった。まだ親の庇護下にある身では休日に友達を呼ぶのも一苦労だ。休日は家でゆっくりしたいと思っている親にとって友人を招くというのは嬉しいことではないらしい。しかも自分の部屋は二階にある。遊びに来た友達は部屋に移動するために自然と家の中を歩き回る形になってしまうのもネックだ。友達が歩き回る範囲を掃除しなければならないと母が唸る。
結局外に遊びに出ることが主流になる。遊びに出たところで何をするかというのは非常に限られてくるが。
幸い今日は平日で父も母も仕事に出ている。夕方まで帰らない筈だ。
玄関の鍵を開けて入ると――締め切った誰もいない家特有の臭いがした。家中の窓を開けねばならないなと思う。窓を開けるのは一番に家に帰った者の仕事で、大体自分がやることになっている。
「俺の部屋覚えてるか」
「うん、二階だろ」
脱いだ靴をしっかりと揃えながらアキラが頷く。アキラは普段陽気で、ともすれば軽薄な印象を与えるがこの辺はしっかりしている。
「先に部屋に入っててくれ、お茶持ってくるから。窓を開けて扇風機をつければ少しはマシな筈だ。常識の範囲内では部屋のモノ見ててくれて構わない」
「了解」
ひらひらと手を振って、アキラは階段を上っていった。
台所に移動するまでに通った部屋の窓を全て開けた。台所で隅にある買い置きの菓子から良さそうなのを見繕って手に取る。空いた手で皿にキッチンペーパーを敷き、そこにぶちまけた。
ザラザラという小気味いい音がする。茶が冷えているはずだ、と冷蔵庫を開けてみると予想通りお茶と、珍しくジュースが冷えていた。どちらを持っていこうかと考えた挙げ句、トレイにそれらを乗せ、コップと氷を追加して部屋へと向かう。
部屋に入ると、アキラが窓を開けてくれたお陰か澱んだ空気は抜けていた。それでも温度は変えることが出来ず、扇風機が温い風をかき回していた。
アキラは手にしていた本から顔を上げ、借りてたよと呼びかけてきた。それは既に許可していたことだから頷きだけを返す。
「暑いな。エアコンすらない部屋ですまん」
呟きつつ部屋の中央に置いている狭いテーブルの上にトレイを置く。
「分かってて上がったんだから謝るなよ。それにしても久しぶりだな、ジュンの部屋」
アキラは目を細めて部屋を見回した。最後に部屋に入ったのは中学生の頃。しかも受験がまだ遠い話だった頃だ。
「俺もお前の部屋に行ってないな」
アキラの部屋に最後に上がったのもそれくらいの頃だ。マンガ本がたくさん並んでいたあの本棚はあの頃と同じ量だけマンガが詰まっているのだろうか。それとも、増え続けているのだろうか。
「今度遊びに来いよ。ジュンならウチの親大歓迎だって。お前みたいなしっかりした奴が友達にいるってのを喜んでるんだから」
遊びに行きたいとは思っていた。けれど、アキラの部屋に何度も上げて貰いながらウチに上げないのは気が引けると、親がいい顔をしない。アキラもアキラの家族もそういう事は気にしないのだが、そういう問題ではないらしい。
たわいない事を言い交わしながら、さてどうやってあの会話の続きに持っていこうかと考えた。日常の会話を一風変わった雰囲気に戻すのはなかなかに難しい。
友達相手にそんな難しいことを考えるなよ、と自分の中の何かが呟く。が、自分の中の別の何かがそれに反証する。友達だから、難しいのだと。
真面目な話は友達だからこそやりにくい。
普段、頭の中で色々と考えていても口に出すとなると躊躇ってしまう事が多い。口に出せないのはきっと――否定されるのが怖いから。いや、違う。否定ならまだ先に進むことが出来る。怖いのは、切り捨てられてしまうこと。今忙しいんだから、興味ないんだけど。考える事そのものを無意味にされてしまうこと。
話したいことがあるなら話してごらん。親も教師も良くそんなことを言う。ただし、決して言葉にされない前提がついている。こちらに余裕があるときだけ聞いてあげる。皆自分の事でいっぱいだ。適合した時間を探すのは非常に難しい。いつの間にか必要とされた時間以外は黙り込むことが増えた。
たわいない普通の会話の方が話が弾むし、誰も傷つけない。そんなことは幼い頃に肌で感じて理解した。これもまた自分たちの進路と似たような小さなループなのだろう。
似たような時間を持ち合わせた親しい友達相手に恐れることは馬鹿げてる。しかし、だからこそ恐ろしい。そうした友達に切り捨てられてしまうことこそが尤も怖いから。
惑っている間に扇風機がまた一度首を振った。温い風が頬を撫でる。
アキラはコップを片手にこちらを見ていた。
「なあ、アキラ」
「ん?」
呼びかけにアキラは笑顔を向けた。いつもと同じ笑顔だ。
「さっきの話の続きをしてもいいか」
問いかける声は妙に掠れていた。緊張しすぎているのが自分でも分かる。
「うん。でもその前に」
アキラは本を床に置き、ジュースの入ったペットボトルを片手で取り上げた。ジュースを飲むのかと思えば、こちらにコップを持つようにと示した。
「喉、渇いてるだろ。飲んでからにしよう」
苦笑して取り上げたコップに淡い色の液体が注がれる。一気に流し込むと少し気分が落ち着いた。
「お前が原爆の日と、終戦記念日に真摯に祈るって言っただけでも俺にとってはかなり凄い事だったんだが……何が心苦しいんだ」
案外すんなりと問いかけることが出来た。こんな容易いことに悩んでいたのが不思議なのか、今こうして容易く問いかけることが出来たのが不思議なのかは分からなかった。
「うん、難しいから上手いこと言えないんだけどさ。最初サイレンの鳴らない県に来て、思ったんだ。なんでここは夏の三日……広島の原爆の日、長崎の原爆の日、終戦記念日に祈らないんだろうって」
アキラは鼻の頭を指で軽くかいて、続ける。
「悪いけど、最初は失礼な事だと思ってた。平和への意識が薄いって」
アキラは申し訳なさそうに言ったが、全然悪いことではない。アキラの態度とスギシタのおばさんへの答えを考えると、自分たちは意識が薄いのだと思う。そのことを告げるより早くアキラが口を開いた。
「でもさ、考えたら三日祈ればいいってもんじゃないんだよ。祈るに越したことはないんだろうけど、結局祈ってどうなるって話じゃないか。サイレンが鳴った瞬間だけ真摯に祈って何になるのか。そう考えたら非常に虚しいんだ」
言われた事の意味に驚いた。それは真摯に祈る者だけが抱く切ない思いに違いない。
「祈るだけでも大したものだと思うけどな。恥ずかしながら、俺達はそれすらまともにしてないし、平和についてなんて……授業でやるときくらいしか考えないし」
手にしたコップの中で氷が溶け、他の氷との小さな隙間にカランと滑り落ちた。まるで合いの手を打つような音に聞こえた。
「まともに考えてるっていう言葉を借りるならさ、まともに考えた僕と、考えてない人と同じ事しか出来てないだろう? それが何より切ないんだけどね」
アキラは呟き、空を見上げた。
アキラの言葉に何を返せばいいのか良く分からなかった。答えを放棄した訳じゃない。言葉が出てこない。アキラの言うことは確かにある一面ではそうであっても――何か、何かが酷く違う気がする。
同じ事しか出来ていなくても根本の違うそれは非常に大切なことのように思える。それを言ってやりたいのに、何が違うのか説明する言葉が出てこない。アキラの切ない呟きを払拭してやるほどの明確な答えが、アキラを納得させるほどの答えが、見つかりそうで見つからない。
かといって沈黙を守ることはアキラへもまた自分に取っても誠実ではない気がして、とりあえず口を開いた。
「上手く言えないけどな、お前が言うのは非常に良く分かるけど、何か……何か見落としてる気がする。お前と俺の差は確かにあるんだ」
「あるなら聞きたい。それは僕がずっと考えて――未だに答えが出ない所だから」
「あると思ったからこんな暑い部屋にお前を上げたんだ。ちょっと待て。掴めそうで掴めない」
アキラは頷き、ペットボトルを手に取って手にしていたコップにその中身を注ぐ。暑いものだから消費が激しい。自分のを注いだ後にこちらのコップの存在に気づいて注ごうとしたのを手で制した。
今までの記憶をひっくり返すのに集中したかった。先ほどから何かを掴みかけたと思えば遠のいて――まるで己自身に弄ばれているようだ。
「戦争ってなんだろうな?」
じれったさに苛つきながら口に出した問いかけは最大の疑問だった。口にした自分は驚いたが、アキラは驚かずにその問いかけを受け入れたようだった。口元に手を当てて少し考え込んだ。
窓の向こう――多分庭の木にいるのだろう蝉は煩いほど鳴いている。ふと見上げた空は青く、夏の色をしていた。アキラが祈っていた何十年も前のあの日もこんな風に蝉が鳴いていたのだろうか。わんわんと耳に響くほどだったのだろうか。こんなに暑い日だったろうか。風は吹いていたのだろうか。ただ一つだけ推定するならば、何十年も後にこうしてその日の事を考えたり祈ったりする日になるなんて誰も思っていなかっただろう。
視線を戻せば――毎日過ごす自分の部屋があった。クーラーもないと愚痴をこぼせる普通の部屋だ。その部屋でアキラは言葉を見つけたのか、考えるようなポーズを崩した。
「怖い例えしていい?」
「ああ」
頷くとアキラが真剣な表情で空を指さした。
「こうして話しているときに、次の瞬間に銃弾やら爆弾やらが降り注ぐ……それが戦争だと僕は思う」
斬新な例えに――分かっていても現実味のなかった事をリアルに例えられて息をのんだ。
「長崎生まれだから、原爆で例えてあげようか。特別授業でさっきまで教室にいたけどさ、この町にあの爆弾が落ちたら、どれだけが生き残れたと思う?」
ぞっとした。職員会議で早々に終わった特別授業。皆と同じように学校から出て、陽炎の見えるアスファルトの上を暑い暑いと愚痴りながら帰ってきた……そんな些細な事の繰り返しが脳裏に浮かぶ。当たり前だと思っていた日常を、否定された。
戦争を扱った本は沢山読んだし、映像でも見た。それが現実味がなく遠い世界だったのは、日常とかけ離れた世界だったからだ。こう例えるのは失礼だろうが、親が生まれるより更に過去の歴史の中で起きた、過去の時代の上に起こったことをそのまま今に重ねる想像をしたことがなかった。
ふと過去に読んだ本のシーンが脳裏に蘇った。町を焼き払う爆弾を投下した飛行機乗りが飛行機から降りて、懐にしまった写真を取り出して眺めるシーンだ。小説だったのかマンガだったのかは覚えていない。一つだけ印象に残ったのはその、当然で悲しいシーンだった。
「そうして俺達を殺す人間は……家に帰れば家族もある普通の人間か」
「うん、僕らみたいな人かもしれない」
告げるアキラの横顔が酷く大人びて見えた。学校とは違う友人の顔に今更ながら気がついた。
本などで見た戦争の姿は遠かった。遠い筈だった。
「これが戦争だと思うよ。少なくとも、実際の戦争を知らない僕らにとっては」
アキラはそう言って目を細めた。それは何か遠くにある答えを見つけようとしているような仕草だった。
「で、だからどうするって話なんだけどさ。こうした話をしてても結局何もしないしできないじゃないか。語り継いで、考えて……何か違うのかな」
握りしめたコップを見つめる。氷も溶けて、水が底に溜まっていた。さっきからずっと答えを探している。アキラと自分の差はあったはずだ。
「答え、見つからないだろ」
呼びかけられ反射的に顔を上げると、アキラは思ったよりも柔らかい表情をしていた。少し躊躇いながらアキラは口を開く。
「考えても、何かを変える力はない。戦時中、戦うことに反対だった人もいたけれど逆らうことは出来ずに、実際の歴史は止まらなかった。それに似てる気がして……ちょっと切ない」
ずっと何かが引っかかっていた。
分かっていても逆らわずに続けるしかなかった。他に術がない。どこかで知っている何かと同じだ。
暑い部屋の中で蝉の声と扇風機の音だけが耳に響く。ひどく喉が渇いた気がした。
瞬間、思い出した。ループだ。
とりあえず将来の為に勉強……そんなループを繰り返す今の自分達だ。考えてはいる。しかし考えを行動に起こすには明確な術がない。とりあえずは安穏と生きるために与えられたものをこなしていく。
ループの中で示される進路。それが正しいと思ってひたすら進む連中がいる。正しくないと思いながらも逆らう気もなく進む連中がいる。正しいのか正しくないのかは知らないが、とりあえず他に目標がないから身を任せる自分たちのような連中がいる。示されるのが気にくわないと条件反射のようにループから抜けた連中もいる。
戦争なんて数十年前の、過去の話だ。テレビの向こうの国の話だ。けれど万が一、いや、もっと低い確率だ――そう思いたい――今戦争になったら。進路として示される先に戦争があれば、全員がループから抜けられるか?
浮かんだ疑問にぞっとした。じっとりと肌を濡らしていた汗が一気に引いた気がする。
「戦争ってのは終わらないのかもしれないな」
思わずそう呟いた。戦争から何十年も経った今の自分達の思考は、果たしてあの頃と変わっているのだろうか。
「ジュン?」
「戦争を考えてきたアキラと俺の差が今分かった」
目を丸くするアキラに笑みかけて、ペットボトルを手に取った。大分温くなったそれをコップに注ぎ入れた。
「俺達の進路と良く似てる」
自分は確かにループの中にいる。ただ、何か目標ができればループから抜けてそれを目指す覚悟はある。
「進路?」
呟き返すアキラの眉間に皺が寄っていた。曖昧すぎる答えの奥にある解答を必死に探しているかのように。
「先に言っておくけど、上手いこと考えを整理して告げる自信はない。それでも聞いてくれるか」
前置きにアキラは至極真面目な顔で頷いた。
「お前は自分が何もしないと言ったけど、俺達はその思考すらない。何が出来るかも知らない。何かが出来ると考えたことすらない」
それで同じ事をしているのが問題なんだよ、とアキラの声が聞こえた気がした。
「分かりやすく言おう。俺達は――お前達みたいに戦争というものが何なのか考えてない。知識はあるが、それを自分達の目の前にあるものとして捕らえたことがない。悲しいストーリーとだけ思っているだけで十分だからな。考えなくても生きてこれた。切れ切れの知識はあってもそれを繋ぎ合わせる術がない。もっと言うなら、繋ぎ合わせる必要すら感じたことがなかった」
アキラの目がまん丸になった。
「スギシタのおばさんにお前は答えたが、俺は答える言葉を持たなかった。お前はもしかしたら俺が答えなかったと思ってるかもしれないが、そうじゃない。答えられなかったんだ。これがお前との差じゃないだろうか」
それが、ただ一つで最大の差なのだろう。
アキラは静かに答えを聞いていた。互いに飲み物を飲むことを忘れている、そう思ったのは自分の喉が渇いてきたからだ。
注いだまま飲み損ねていたコップを引き寄せ、一気に流し込んだ。生温いそれが胃に到達する感触があって、それでやっと落ち着いた。
半ば投げ出すようにコップをテーブルの上に置く。
「俺も原爆の落ちた県で育てばお前みたいな事考えられたんだろうな」
「十分考えてるって。凄いよ」
いつ鳴き止んでいたのか蝉の声がわぁああと耳に届いた。やっと、喉の渇きが止まった気がした。久しぶりに清々しい気分だった。
「こうして向き合って真面目に語り合うのってどれくらいぶりだっけ」
アキラの言葉に少し考えて――通じないだろうと思いつつ、誠実な答えを口にした。
「かなり前だな。俺達、ずっとループの中にいたから」
「ループ?」
問いかけたアキラに頭を振って返す。
「もっと早く、抜けてみれば良かったな」
「なんだよ、ループって。さっきから難しいこと言うんだからさ。教えてくれよ」
ループの中でまともな会話すら忘れていたけれど、今やっと抜けた気がする。ただ困った事にそれを説明するには難解で時間がかかりすぎる。
どこから説明しようか。
「今のは俺の感傷だから気にするな」
「言い逃げは狡いぞ」
アキラは悔しいからジュースもう一杯と言ってペットボトルに手を伸ばす。
「じっくり聞き出してやる。明日もこうして話せるだろう? 明後日も、明々後日も――これからはずっと」
問いかけてくるアキラは笑っていたけど、真剣な目をしていた。
「勿論」
扇風機は温い空気を掻き回してる。なのに、気分が良かった。
瞬間、カチャリと音がして部屋のドアが開いた。何だろうと振り返ると母がそこに立っていた。
「こんにちは」
アキラに、こんにちはとか久しぶりねとか二言ばかり返して、母はこちらを見た。呆れたような、怒ったような表情だった。
「順平 《 じゅんぺい》、お友達を上げるのは構わないけど、なんで貴方の部屋なの。居間ならクーラーもあるのに」
まくし立て、母はアキラにまた声をかける。
「ごめんね、アキラ君。暑かったでしょう。クーラーいれるから、いらっしゃい」
告げて母はエアコンの電源を入れるために駆け下りた。
「そうだよな、暑かったんだよな」
アキラはそう呟いて、いたずらっ子のような――小学生の頃と同じような笑顔で笑った。
「暑さなんて気にならなかったや」
「俺もだよ」
ついでに言うなら、時間も気にならなかった。窓の外を見れば、いつの間にか青い空は薄くなりうっすらと赤みがかっている。それだけの時間が経過したのだと時計が証明していた。
「うわ、もうこんな時間」
アキラが驚いたように呟き、頭を掻いた。
「帰るか?」
「エアコンの部屋でお茶とお菓子をご馳走になってから」
我が母の性質を理解しているアキラは鞄を持って立ち上がった。エアコンを入れた居間にはしっかりとお茶とお茶請けが準備されているはずだ。
「ジュンのお母さんて昔っからまめな人だよね。有り難くご馳走になって帰りますよ」
アキラは部屋を出ながら大仰に礼をした。
「そんなこと言って、なかったらどうするんだよ」
先に階段を降りるよう促され、降りながらそう声を返した。そんなことはまずないのだけれどと自分でも思いながら。
「いやいや」
答えになっているのかいないのか分からない合いの手を入れ、アキラが笑う。
居間に移動すると、冷たい空気に迎えられた。机の上には予想通りお茶とお茶請けが既に準備されている。我が母ながら抜かりない。
「ね」
同意を求めるような呼びかけに頷き返して、座るようにと手で促した。
「ども、いただきます。後でお礼言っといて」
「そうするよ」
椅子に座って下らない話をしている間に部屋の空気は更に冷えていって心地よい温度になった。
台所の方から微かに良い香りが漂ってくる。今日の夕食は魚の煮付けらしい。
アキラは自分の分のお茶請けを空にして、お茶の最後の一口を流し込んだ。
「長々とお邪魔しちゃってごめん。今日は話が出来て本当に楽しかった」
「俺の方こそ」
鞄を手に取り、アキラは立ち上がった。
「じゃ、今日はこの辺で」
「ああ」
玄関までアキラの背中を追って――本当は外まで見送るつもりだったが、ここでいいと言われその場で手を振った。
「また明日」
「ああ」
ループを抜けた今日のように、明日も話せる事を願ってアキラの背を見送った。
家に帰ると母が居間の片づけをしていた。
「アキラが礼を言ってた」
「そう。なら良かった。でもどうしてアキラ君を部屋に上げたの? 居間ならクーラーもあったのに。暑かったでしょう、可哀相に」
この部屋では話せなかっただろうと思えたが、その事を言っても母に伝わるかは非常に怪しい。こんな些細な事でも伝え損ねれば互いに嫌な思いをするだけだと判断し、布巾を手に持って問いかけてきた母にああとかうんとかだけ返した。正直、少しばかりループに戻ってしまった気がした。
「早くご飯済ませてお風呂入っちゃいなさい。宿題もあるんでしょう」
「ああ、そうする」
その前に片づけをしようと部屋に戻ると、薄暗い部屋にペットボトルとコップや皿だけが残っていた。長いような短いような夢を見ていたような気がする。そう思ったことがおかしくて笑いが漏れた。果たしてその夢はアキラとの会話だったのか、この現状なのか。もう少し話してみたかった。それが許される時間などなかったのだけれど。
食事と風呂を済ませて親と適当で無難な会話を終え、ドラマも大したものがないのが分かっていたから、自分の部屋へと上がる。居間の時計は二十時を示していた。
明日までの宿題がある。これを済ませる頃には布団に潜り込まねばならない時間になるだろう。終わったらいつも通り寝てしまおうか。いつもと同じ事をするのが少しばかり切ないけれど、他にやる事も見つからない。
机について、テキストを広げた時、耳に微かにサイレンの音が聞こえた。アキラが黙祷したあのサイレンの音。一瞬硬直した後に幻聴だと気がついた。どうやらこの耳にあのサイレンの音が残っていたらしい。幻聴だと分かっていながら目を閉じた。今なら真摯に祈れる自信があった。
どれくらい経ったろう、黙祷を破ったのは電話の着信音だった。あまりに主張の激しい音に幻のサイレンがかき消され、目を開けた。電話というのはこんなにも派手な音を鳴らすものだったろうか。苦笑してテキストを開いた時、電話の音が止んだ。多分母が取ったのだろう。
明日の授業はどこまで進むだろう。広げたテキストの問題にうんざりした所で、階段を上ってくる音に気がついた。キシキシと軋む音がだんだん近づいて――部屋のドアが二度叩かれた。
「順平、アキラ君から」
ドアを開け母が顔を覗かせる。母はノックはするが、こちらの返事の有無は気にしていない。
「アキラから? ……ありがとう」
受話器を受け取り、母がドアを閉めたのを確認してから保留ボタンを押す。
「もしもし」
『あ、ジュン。どう、予習はかどってる?』
受話器から陽気な明の声が聞こえてきた。
「今からだ。お前が電話してくるなんて珍しいな。予習範囲で分からないことでもあったのか」
『分からないも何もまだ手つけてなかったりするんだな、これが』
屈託のない声だった。
「じゃ、何の用だ」
鉛筆を弄びながら問いかけると、アキラは少し詰まったようだった。アキラの家の音――多分テレビの音だろう、それが聞こえてくる程度の沈黙があった。
『……久々にジュンと話せて楽しかったけどさ、家に帰ったらなんかいつも通りなんだよな。妙に不安になって電話かけた』
僅かな間をおいて告げられた言葉に笑いそうになった。何のことはない、自分と不安を抱いていたらしい。
『聞こえたぞ、今笑ったろ』
口を尖らせるアキラの顔が見えるような気がする。
「笑ったが、お前を笑った訳じゃない。俺もそうだったから、同じなのがおかしかった。お前が帰った後は――怖い程いつも通り……日常で、夢でも見てるみたいだ」
『ジュンもか!』
嬉しそうにアキラが呼びかけてきた。そのストレートさが羨ましくもある。
『良かった。こんな事考えるの僕だけだったらどうしようかと思った』
考えるのはきっと誰も同じなのだろう。こうして電話までかけてきて確認できるのが珍しいのだ、きっと。
「俺はお前と友達で良かったと思うよ」
口から出た本音に、受話器の向こうでアキラが息を飲んだようだった。
『な、何かあったのか?』
「何か? ああ、今日沢山あったじゃないか」
『……変なの』
長めの沈黙の後、アキラはぽつりとそう告げた。他に言葉も見つからなかったのだろう。言葉の選択はとにかく、声音は嬉しそうに聞こえた。
「そうだな」
同意して、その後下らない話を十分ばかり続けた。長々と話していると親が踏み込んで来る可能性が高くなるから、時計を見て程々で話を終える。
「じゃ、また明日な」
『ああ、また明日』
「切」のボタンを押して顔を上げる。妙に気分がいい。受話器を一階の居間に戻してきたらこのまま寝てしまおうか。宿題は早起きしてからやればいい。
受話器を置くついでに台所で洗い物をしていた母にその旨告げた。今から寝て明日早起きして宿題を済ませると告げておけば、部屋の電気が消えていることを不審に思って踏み込まれることもない。
部屋に戻って布団に潜り込んでも心地良さは継続していた。アキラもそうだろうか。心地よく宿題をしているのだろうか。そんな事を考えているうちに優しい眠りに捕らわれた。
その夜、自分は夢を見た。暑い暑い道をアキラと一緒に歩く夢だった。アスファルトから陽炎が立ち上る。けれど、不思議と喉は渇いていなかった。もう渇くことはないのかもしれない。そう思ったところで目が覚めた。
「……」
カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しかった。
日差し。それに気づいた瞬間、すうと血の気が引いた。日が差すより先に起きる予定だったのだ。慌てて目覚まし時計を引き寄せると、いつも起きる時間と同じ時間だった。
「……」
頬をぺしりと叩いてみたが、何も変わらなかった。どうやら夢を見ているわけでもなさそうだ。起きる時間をセットした針の示す時間は疾うに過ぎているし、時計の音を止めるボタンは既に押されてしまっている。目覚ましを無意識に止めて寝てしまったことだけが確かだった。
「予習してないぞ……」
このまま呆然としていても状況は改善されない。それどころか悪化するばかりだ。慌てて跳ね起きた。
顔を洗って目が覚めた。朝御飯を掻き込むようにして押し込んだ。家で少しでも予習をするか、学校でするべきかと悩みながら制服に着替える。登校は誰とも待ち合わせている訳でもないから、どちらを選択しても問題はない。自分が集中できるのがどちらかの判断に迷っていただけだ。
特別授業開始のベルが鳴る瞬間まで、自分はテキストと必死に格闘していた。結果、負けたのだけれども。
教師の説教を受けるハメになったのは自分だけではない。クラスの数人と、そしてアキラ。立たされたアキラが同じく立たされた自分の方を見て、教師に見つからないように気を付けながら笑んでみせた。机の下ではちゃっかりピースまで作って。
あのバカ、とも思ったが自分も無表情で机の下にピースだけ作って返してやった。それに気づいた女子の目がまん丸になったのが愉快だった。
予習を忘れて立たされても気にならない程の充実感がある。明日からはまたちゃんとするから、今日くらいはいいだろう。そう自分に言い聞かせて頷いた。
「まさかジュンまで予習忘れとはね」
「お前の電話を受けた後に寝て、早起きするつもりが起き損ねた」
帰り道はやっぱり暑かった。じっとりと吹き出す汗に閉口し、額に浮かぶ汗を拭う。
「僕も。電話して寝ちゃった」
「お前の場合、起きる気もなかったんじゃないか?」
ご明察、と答えてアキラはケラケラ笑った。
「でも、良い夢見られたから立たされても気分いいや」
アキラも良い夢を見ていたことに驚き、同時にそれは当然のような気もしていた。
「俺も良い夢を見た」
「あ、だから珍しくピースしてくれた訳だ。ジュンがあんな真似して返してくれるとは思わなかったから、ビックリした」
だろうな、と頷く。
「気づいた女子が目を丸くしてた」
またもアキラが一頻り笑って――今度は目尻に浮かんだ涙を拭っていた。そこまでおかしいことだったろうか。
目の前にスギシタが見えた。
何か買っていくか、と聞くのより早くアキラが口を開いた。
「そうそう、夏休みの予定はある?」
昨日と同じ事を聞かれた。
「ない」
問いかけを飲み込んで答えたせいか、非常に簡潔な答えになってしまった。それを不快に思った様子もなく、アキラは頷く。
「僕は祖父母の所に行くんだけど、ジュンも一緒に――二泊三日くらいで長崎に行かないか? 流石に旅費は出せないんだけど、宿泊費はかからないぞ」
「長崎」
昨日のサイレンの音が耳に蘇る。アキラと自分が久々に向き合って話すきっかけになったあの音が。
母に確認しないといけないな、と思った。親が許可を出さなければ立ち消えるだろうことが過去の経験で分かっていたから。
「そうだな、行こう」
なのに、口は勝手にそう答えていた。母や父が許可を出すまで交渉する気になっている。アキラの思考を育てた場所で、自分に何が見えるのか知りたかった。
「やった」
嬉しそうにそう言ったアキラの向こうで蝉が賑やかに鳴いていた。
「スギシタに寄って帰ろうか」
「ああ」
それは――蝉が賑やかに鳴く、空の青い、夏の日のことだった。
何年か前に書いたもの。8月なので投稿してみました。