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「……風の精霊?」
語られた話は、俄かには信じられないものだった。しかし意味もなくソルディが口にすることはないと思う。一筋縄ではいかない精霊なのは、重々承知している。
この話が現実に起こりえると仮定するなら、気になったのはそれだけじゃない。彼の話に出てきた精霊の愛し子と風の精霊。そして過去にあったという迫害。現実とも虚構とも判断しかねる昔話の中で与えられたキーワード。
これを素直に偶然だと言い切れるほど、おめでたい性格はしていないつもりだ。
真偽などわからないし、人間界に伝わるような作り話の可能性もある。けれど精霊が存在するのなら、昔話にも真実の一片が含まれているのではないだろうか。だとしたら、今の話は何を意味しているのだろう。
「昔話は、昔話だよ」
疑問は誰でも抱く程度のものだったが、ソルディは言及しない。むしろ先手を打ってかわした。
「信じようが信じまいが関係ないが、参考までに聞かせてくれ。お前はこれを信じるのか?」
「それを聞いてどうするの? その話が本当かどうかは、君の方が知っているはず」
ソルディは苦笑した。生真面目なシエラに、どう言葉を返すべきか迷っているように見える。
「真偽はどうでもいい。ただお前はどう思うのかを知りたい」
それなら、とシエラは考える。真偽を決めるのが自分ならば、どう答えるか。
「……私は、そんな出来事があってもいいと思う。自分の常識で世界を狭めてはいけないと思うから」
だが、所詮は昔話。それが可能だとしても、同じことがこの身に起こるとは思えない。
――君に、私を精霊にするほどの力があるというの?
そう問いかけたところで、答えは決まっているように思える。彼にそれができるとは思えない。
ふと思った。ソルディは人間が嫌いなのだろうか。嫌いだとはっきり聞いたわけではない。けれど今までの会話を思い返せば、感じられるものはあった。
親しげな表情を見せてくれるが、それはシエラが特別だからではないか。もし何の異能もない普通の人間ならば、彼はその美しい双眸に侮蔑を込めて、冷笑を浮かべるのではないか。
精霊にとって、精霊の愛し子は特別なのだと聞いた。哀れで愛おしい存在だと。それを語るソルディに嘘偽りはない気がした。それが事実なら、精霊の愛し子を迫害した人間を嫌悪するのは当然だ。
何だか物悲しい。一部の人間の悪行が、人類そのもののイメージをがらりと変えたに違いない。このまま精霊に背を向けられるのは、悲しいことだと思った。
「ソルディは――」
言葉が続かない。それはシエラの自分勝手な解釈に過ぎない。彼の心情を理解していますとでも言いたげな親切顔で、実はまったく見当違いなことを言う可能性がある。
「どうかしたか?」
不思議そうに、顔を覗きこまれる。何と誤魔化そうかと考えていると、若葉色の髪が目に付いた。
「君の髪は綺麗」
ソルディは虚をつかれたように無防備な顔をした。けれどもすぐに我を取り戻して、柔らかく苦笑する。
「お前の髪は神聖な色だな。神の身遣いとされる白色だ」
ふわりと頭に手が置かれた。シエラは己の髪を手で持ち上げて、まじまじと見つめる。神聖な色と言われたのは初めてだ。普通は気味悪がられるものだと思っていた。
現にシエラはこの白髪が好きではなかった。奇異の証など、誰が喜ぶものか。
不満が伝わったのか、宥めるような声色で言われる。
「お前はこの髪色がお気に召さないようだ」
「……これは証だから」
常人とは異なる、目に見える異常。白人よりも透き通る肌と見事な白髪。日光を浴びることすらままならぬ身体。唯一母から受け継いだのはこの容貌。
それをソルディに訴えても無駄なのだろう。不老不死の精霊には、老いや病は遠い存在だ。人間は死ぬ。その知識があったとしても、所詮は他人事。理解することはできないだろう。
「私にとっての世界はこの部屋。そして窓から臨める切り離された風景。知るのは降雨、暖か陽光、ときに強く穏やかな風」
小窓から見える眼下の世界。光溢れる街の様子。神が与える天災と恩恵。知り得るは小さな世界。
与えられた部屋にひとり。孤独な夜は母が御伽噺を聞かせてくれた。母が仕事で留守の日中は、気まぐれな精霊たちが相手をしてくれる。心強い味方だ。
「すべては私が特別な子どもゆえに」
限られた世界であっても、満ち足りていた。けれど普通にはなれない。
シエラはうっすらと微笑んだ。