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The blessing of the moon  作者: MI
第一章 月夜の訪問者
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 翌朝、シエラはぱっと目を開いた。数秒、ぼんやりと室内を見つめ、ぱちぱちと目を瞬かせる。

 ――昨日の精霊は、私が見た夢だったのだろうか。

 昨晩の記憶と新たな疑問を胸に、寝起きとは思えない足取りでベッドを降りる。カーテンを開いて部屋に光を取り入れる。

 人々が活動し始める時間帯。路地を歩く人々のざわめきが二階の部屋にいても感じられる。人が行き来する眼下の路地は、いつもと同じ。日常がそこにある。

 振り向いて視線を泳がすと、壁際に寄りかかっているクマのぬいぐるみが目に入った。昨夜、光を湛えた瞳で滑らかに動いていたのが嘘のように、光のない目で沈黙を守っている。

 シエラはクマのぬいぐるみを手にとって抱きしめた。

 名を呼べ、と精霊は言った。一言その精霊の名を口にするだけで、杞憂は晴れるはずだ。でもなぜかそうすることを躊躇っていた。昨夜の出来事がすべて鮮やか過ぎる夢だったのではないか――そう思えばこそ、なかなか呼べずにいた。

 ――なぜこんな些細なことを気にしているのだろう。

 ふと疑問に思って首を傾げる。呼んでしまえばいいのだ。そうすれば楽になる。確か、精霊はソルディと名乗った。抱きしめていたクマのぬいぐるみをもと通りに戻すと、覚悟を決めるように深呼吸した。

「――ソルディ」

 一秒、二秒、三秒――何も起こらない。

 ふぅ、と息をついて初めて気を張り詰めていたことを知った。力が抜けてベッドに座り込む。そして顔を上げた瞬間に、それはいた。

 左右で輝きの違う印象的な双眸と若葉色の髪の精霊――ソルディが音もなく姿を現していた。

「おはよう、シエラ。名を呼ばれるのを待ってたけど、もう少し遅かったら勝手に乗り込むところだ」

 面白そうに瞳を輝かせる精霊の姿は、美青年と呼ばれるに相応しい容貌をしている。しかしソルディは精霊だった。人間にはない奔放さ、本当の意味での自由を手にしている。

「寝ぼけているのか? 俺のことも、交わした誓約のことも忘れたか?」

 身動きしないシエラを心配してか、ソルディは困惑顔で覗き込む。それで呪縛から解放されたように、再び時間が動き出す。

「ソルディ……風の、精霊」

「ちゃんと覚えているじゃないか」

「昨日のことは本気なの?」

「俺が目の前にいる。それが何よりの証拠だ。それでもまだ信じられないか?」

「そうじゃないけど……」

 ソルディが精霊なのは疑いようがない。彼は特別な存在だと、他ならぬ精霊たちが教えてくれる。

「いいさ。困惑するのは当然だ。かつての誓約者も、最初はお前のように疑って――いや、恐れていた」

 誓約者の話をする度、彼は遠い目をする。失った過去に想いを馳せるように。

「誰もがなんらかの傷を持つ愛し子は、滅多に気を許したりしない。もし信じて裏切られたら立ち直れないからだ。だからこそ、ぽっと出の精霊に心を預けることを恐れていた」

「――それに気を許しても、君はいなくなってしまうのでしょう?」

 それは誓約者の言葉を代弁しているようで、シエラの言葉でもあった。

 〝絶対の存在〟は愛し子にとって救いであるともに、身の破滅を齎すものでもある。彼らを心の底から受け入れてしまったら、別れは耐え難いものになる。いつか置いていかれる日を恐れるようになる。

 それを聞き、ソルディは寂しそうに、けれどとても魅力的に微笑んだ。沈黙がそのまま答えとなる。

 人間界にも緑の瞳を持つ人間はいる。シエラもその一人だ。それでも――ソルディの双眸は魅力的だった。硝子のように澄んだ瞳。その瞳は人を惑わせる。

「……君は私に望みがあるか訊いたけど、その願いがどんなものでも叶えてくれるの?」

 人間界には様々な想いが溢れている。善なるものも、悪なるものも。

「過去の誓約者たちは、君に何を願ったの?」

「――色々なことを」

 しみじみと彼は呟いた。その一言にどのような想いが込められているかは、本人しかわからない。

「その中に、叶えてはならない願い事はなかったの?」

「ないよ。個人的になら叶えたくない願いもあったが――誓約者の願いはどれもみな、慎ましやかなものだった。彼らはよくわかっていた。精霊が万能ではないことを」

 精霊に何が出来て、何が出来ないのかをシエラは知らない。しかし願えば何でも叶うとは思わないし、彼もそれを否定していた。

「俺たちは確かに力を持っている。だが何の代償もなしに干渉することは許されていない」

 代償とは存在そのものの消失だと、昨晩聞かされた。精霊はそれほどに希薄な存在だと彼は言う。

「それに――たとえ代償を払ったとしても、精霊にできることは限られている。月の女王であれ、すこぶる有能だが万能ではないんだ」

 雰囲気が変わる。口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。

「人は時に過ちを犯す――それが聖人君子だとしても」

 次の瞬間、すべての音が遮断された気がした。

 声がどこか遠くに聞こえる。シエラはただ困惑していた。ソルディの豹変に戸惑う。どこか温度差を感じていた。陽気な仮面の下で、無表情な彼がいる。

 ぼんやりとその顔を見つめる。この場に流れる微妙な雰囲気に気づいたのか、彼は苦笑した。

「すまない、余計なことを言ったな」

 先ほどまでの雰囲気はすでになく、普段通りのソルディがそこにはいた。真意を尋ねてみたい気もしたが、どうにも憚られて曖昧に頷き返す。

「多分、訊きたいことはたくさんあるだろうけど、俺はそのすべてに答えることはできない。だけど答えられる範囲でなら答える。……まあ、気分次第といえなくもないが」

「気分次第なの?」

 答えられることと答えられないことがあるのは仕方がない。シエラにだって訊かれたくないことはあるのだから。だけど気分次第というのはいただけない。

「精霊は気分屋だ。それに、訊かれたことに対して何でも答えるのは面白くない」

 ソルディはあっけらかんと言う。確かに精霊は気分屋――自由というイメージはあるが、自らそのイメージに当てはまろうとしなくてもいいはずだ。何だかソルディに振り回されている気がして憮然とする。

「――私は君の誓約者なのに」

「俺はお前の誓約者である前に、精霊だ」

 精霊は気まぐれで悪戯好きなことを忘れていた。誓約者になったからといって、その性質が変わることはないらしい。

「あれから一夜。お前の望みは決まったか?」

 明日の天気を尋ねるような、そんな言い方。ソルディは飄々と返答を待っている。

 シエラは深々と溜息をついた。日常における望みは数多にあるが、肝心な時は何一つ思い浮かばない。何て役に立たないのだろう。これは一生に一度の好機なのに。でも仕方ない、何も思い浮かばないのだから。……何もないのなら、感情の赴くままに。現在、打算もなしに望むこと。もう少し、この精霊と過ごしてみたいと思う。

「私の傍にいて、ソルディ」

「――了解、シエラ」

 ――そうして、不思議で愛おしい時間が流れだす。



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