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「ありがとう。そう言ってもらえて光栄だが、月の精霊はちゃんと別にいる。ずっと昔から、俺たちに存在する力を与えてくれているんだ」
風の精霊が天井を見つめる。シエラもその視線を追うが、当然のごとくそこには天井があるだけだ。しかし風の精霊の双眸は天井を越えた向こう側――夜空に輝く月を見ているように見えた。
「月の精霊も君のような姿をしているの?」
「……わからない。残念ながら、俺は直接顔を合わせたことがないんだ。月の精霊は永いまどろみの中にあるから」
「君も会ったことがないほど、永い眠りについているの?」
「そう。人間界にたった一つの奇跡を与え、その代償に眠りについている」
まるで物語のようだとシエラは思った。物語の中になら存在してもおかしくないが、現実に目を向ければありえないと切り捨てられてしまうもの。
しかしなぜか、嘘だとは思えなかった。目の前には人間のようで人間ではない、風の精霊がいるのだから。
「――奇跡ってなに? 月の精霊は何を与えたの?」
月の精霊が永い眠りについてまで人間に与えたもの。風の精霊に奇跡と言わしめるほどのものは何なのだろう。
しかし風の精霊は問いには答えずに、困ったようにシエラを見つめた。
「お前はなぜ、俺の姿が見えるんだろうな」
首を傾げる。確かに皆が皆、精霊の姿が見えるわけではないだろう。シエラ自身、特別だという自覚はある。しかし、そんなに困ったように言うような問題だろうか。
「君のような精霊は見たことがないけど……私にとって精霊たちを見るのは珍しくない」
「お前が知っているかどうかは知らないが、精霊を見ることができる人間は他にもいる。それ自体は何の問題もない。だが……今日という日に俺が見えているのは問題だな」
自分以外にも精霊を見る者がいることにも驚いたが、考えてみれば自分という証人がいる。会ったことがないだけで、世界にはそういう人間は多いのかもしれない。
「……満月に交わされる契りを以って、精霊と精霊の愛し子は堅き絆を得るだろう」
風の精霊はふと呟いた。それは真摯な響きを持っていて、思わずシエラは聞き入った。
「精霊を見ることができる人間――稀有な者たちを俺たちは総じて精霊の愛し子と呼んでいる。稀に精霊使いと呼ぶこともあるけどな」
クマのぬいぐるみがくるくると回る。風に操られて、生きているかのように滑らかに踊る。それに視線を向けながら、疑問を口にする。
「精霊の愛し子? 私もそうだというの?」
精霊の愛し子が精霊を見ることができる人間を指すのならば、シエラにも当てはまる。しかし先ほどの言葉が気になった。なぜ今夜風の精霊を見たことが問題なのだろう。
しかしそれに対しても返答はなかった。
風の精霊はシエラの言葉など聞こえなかったように、先を続ける。
「昔は精霊の愛し子は珍しくはなかった。それでも圧倒的に常人の方が多く生まれた。そして……常人は、己と違う存在を排斥するようになった」
求める答えとは違うが、口を挟む気にはなれなかった。
これは愛し子が迫害を受けた歴史。今の時代は表立った迫害はないように思えるが、シエラも特別だ。決して無関係ではいられない。
「異能であると周囲に知られなければよかったんだろうが、異能は生まれ持ったもの。幼子には自分が異端だとわかるはずもない。よって異能を隠し通せるわけもなく、異端者は周囲に知られることになる。それが悲劇の始まりだ」
精霊の表情からは何も読み取れなかった。憤怒も悲哀もなく、淡々と事実だけを語っている。
「過去には崇められた時代もあったというのに、時代が代われば異端者だ」
シエラはその横顔を見つめた。
「……君は、私たちのことを思ってくれているんだね」
風の精霊は目を瞠り、次いでふっと苦笑した。右手を出すも思いとどまったように手を引っ込め、代わりのようにクマのぬいぐるみが頭を撫ぜた。
「……聖なる存在だと崇めることはしなくても、精霊と人間の架け橋として認めてあげるだけでよかったのにな。精霊はそれを望んでいた。でも結局、その願いは叶わない」
迫害がどのようなものか、シエラは知らない。けれど人間は異端者に対して、どこまでも冷酷になれる。だからそんな過去があっても驚かない。
「人間界に干渉できぬ精霊には、ただ見ていることしかできなかった。精霊にできたのは――愛し子の嘆きや悲しみを聞き、受け入れることだけ」
クマのぬいぐるみが動きを変える。最後に何かを抱きしめるように両手を広げて包み込んだ。
「でも今の時代は大丈夫みたいだな。精霊は架空の存在、大半の人間はそう思っているはずだ。迫害があった事実さえ忘れ去られようとしている。……お前は幸せな時代に生まれたんだな」
優しげな声につられるように顔を上げ、シエラは驚いた。
なんて顔をしているのだろう。我が子の幸せを一歩離れた場所から見守り、満足して立ち去るような、そんな顔をしている。間違っても初対面の相手に向ける顔ではない。しかしそれが自分だけに向けられたものではないと気づいていた。
多分、彼は迫害された多くの精霊の愛し子を見てきたのだ。だからこそ、これからを生きる精霊の愛し子の平穏を心から喜んでいる。
動きをとめたクマのぬいぐるみが、役目を終えたとばかりに元の場所に戻る。何となくまた動き出すのではないかと目で追うが、もはやぴくりとも動かない。
「――愛し子と精霊を繋ぐものは限られている」
風の精霊が先を続けた。再び視線を向けると、真摯な表情の精霊と目が合う。
「その一つが、誓約と呼ばれるものだ。これは月の精霊が人間界にもたらした奇跡でもある」
奇跡、と呟いた。やっと先ほどの言葉と繋がる。
「……誓約って、何なの?」
次々と情報が入ってきて、脳の情報処理が追いつかない。夢の世界のように頭がぼんやりとしている。この状況が夢なのか現実なのか、境界線が曖昧になる。
「たとえば俺が愛し子の前に姿を現すとする。それだけなら、別に満月じゃなくてもできないことはない。でも代償が必要だ。やりすぎれば、俺は容易く消滅するだろう」
シエラは沈黙した。消滅は死と同義だ。いや、それよりも性質が悪い。それなのにこの精霊は、淡々とその事実を口にする。
「それを代償もなしに可能とするのが誓約だ。誓約は不可能を可能とする。満月に限り月の魔力は降り注ぎ、愛し子と視線を合わせた瞬間、望む望まぬに関わらず誓約は交わされる。愛し子は精霊を呼び出す権利を与えられ、精霊はその代わりに力を得ることができる」
嫌な予感がして、思わず顔を顰めた。シエラの考えを見透かしたように、風の精霊が苦笑する。
「誤解しないでくれ。俺は命をもらうとは言っていない。愛し子が精霊を想うほど、精霊を世界に繋ぎとめる力となるんだ。俺たちは希薄な存在だから、それは大きな意味を持つ」
シエラはほっと胸を撫で下ろした。生命力を奪うような恐ろしい精霊ならば、何が何でも部屋から追い出してやるところだ。しかし想いこそが力を与えるのなら、それは恐れることではない。
「でも今日は満月じゃない」
ここまでくれば、風の精霊が何を言いたいのかわかる。彼は本来、満月にしか見えないらしい。それなのに目の前に風の精霊がいる。この目にはしっかりと見えている。
「そう、今日は満月じゃない」
見え透いた茶番に興じるように、シエラの言葉を繰り返す。噛み締めるように呟いた彼の表情に、苦渋が浮かんだ気がした。しかし気のせいだったのかもしれない。次の瞬間にはその表情は消え、まっすぐな眼差しに射抜かれる。
「そして、俺は姿を現そうとしていない」
風の精霊は焦らすように、充分に時間を空け――。
「これは月の魔力が発動したと思うか?」
試すように、身を屈めて顔を覗きこまれた。