26
待ち望んだ自分の理解者。漂っては去り行く精霊ではなく、姿かたちを持つ精霊。ようやく手に入れた存在を、早くも失おうとしている。
「リフェルダもいなくなっちゃった」
「知っている」
賑やかな日々。ソルディが現れる前――そこまで昔の話でもないのに、過去は色褪せている。
「でも約束してくれた。必ず会いに来てくれるって」
そうか、と彼は呟く。どうにか引きとめようと言葉を重ねるが、会話はすぐに途切れてしまう。
「もう二度と会えないの?」
結局、自分から核心に触れることを言ってしまった。しかし予想に反して、彼は否定の言葉を紡ぐ。
「俺はまだこの街に留まる。交わされた約束を果たす義務が、俺にはあるからな」
「……約束」
ソルディの横顔はいつか見たものと一緒だった。遠い昔を懐かしむような顔だ。
約束を交わした相手はおそらく『精霊の愛し子』で、もしかしたら本当の誓約者なのかもしれない。
「そう。俺はまた、お前に決断を迫らなければならない」
「……それはなに?」
否応なく、声が震えた。このタイミングで与えられる決断が、心揺さぶられぬものであるはずがない。緊張に、手足が冷たくなった。
「お前は人間と精霊の間に生まれし稀有な娘」
――精霊にも人間にもなりきれない哀れで愛し子。
どこからか声が聞こえた気がした。それ故に、選ぶ権利がある。選ばなければならないと急かす声。
「特別なお前に、今後の生き方を示そう」
ああ、嫌な予感は当たるのだ。忌まわしくも特別な我が身が、それを伝えてくれる。真実を求めることが、こんなにも犠牲を孕むものだったなんて知るはずもなく。もう誰にも、この流れはとめられない。
「選択権はお前にある。我が同胞となり永遠にも近い時を生きるか、人間として限りある生を歩むか。どちらが幸せなのか、俺にはわからない。だからお前が決めるんだ」
可能性を彼は示した。考えもしなかった未知数の選択。ソルディと共に歩める可能性。
「お前はもう俺の誓約者ではない。当然、俺を呼び出す権利も失った。呼び声に応える義務もない。だがもう一度だけお前に呼び出されてやろう」
最後に彼とまみえるときには、決断を迫られるのだろう。先延ばしにできるのならば、先延ばしにしてしまいたい。しかしそれをすれば『人間』を選んだと思われることだろう。
この後の人生さえも変えかねない分岐点を前に、壊れた機械のように何も考えられない。
「……どうして」
自然と言葉は滑り出ていた。声の頼りなさに驚くが、考えてみれば己は何の力もない無力な娘でしかない。特別な出生だが、ただそれだけの身体の弱い人間だ。
「どうして君は選択肢を与えるの?」
選択肢など用意されなければ、諦めることができる。どちらを選び、どちらを捨てるかで悩む必要もなくなるのに。不思議に思う。なぜそこまで気にかけてくれるのか。
「それが俺の義務であり、お前の権利だからだ。精霊たちから彼女の近状を聞いて驚いたよ」
ぐっと顔を近づけて、内緒話をするように小さな声で打ち明ける。
それ以上、聞きたくない。不意にそんな思いが胸を過ぎった。答えはすぐそこにある気がする。きっと冷静に考えたら、答えは簡単だったのにとあとで後悔するのだ。ソルディがついた嘘は多くない。もしかしたら、たった一つだけ。選択肢を与えたことだけが。
「彼女……そう、お前の母親であるディディシアは、俺の誓約者だった。愛すべき精霊の愛し子……」
間近にあるソルディの美しい双眸が目を細めた。口元には笑みが浮かび――そして。
「すべて承知の上でお前が知ることを望むなら、俺の名を伝えればいい。ディディシアがどう判断するかはわからないが、少なくともきっかけの一つにはなるだろう」
そう言って、風の精霊は跡形もなく姿を消した。
ソルディが去った途端、生彩が欠けたように寂れた空間へと様変わりしていた。
ベッドに腰かけ、ぼんやりと無音の空間に身を置いていると、すべてが白昼夢ではないかと思えてくる。しかし精霊はシエラの日常に大きく関わっていた。窓を開け、手を伸ばせば風の精霊が集まってくるほどに、親しみを持っていた。
今さらあれが白昼夢だとは思えない。精霊たちと戯れれば、芋づる式に思い出してしまう。
「――まさか、母がソルディの誓約者だったなんて……」
すべてが合致する。ソルディが現れたのは、特別とか興味があったもあるのだろうけど――多分、一番の理由は。シエラが過去の誓約者の娘だったからではないか。不確かな絆などではなく、確かな絆があった誓約者に会おうとしたから。その途中に見つけた毛色の違う娘、しかも母の子どもだと一目でわかったから、ソルディは寄り道をしたのだ。
「だからこそ、君は私の前に現れたんだね……」
永遠に失われた存在、手を伸ばしても届かない。彼は特別な精霊で、そんな彼の誓約者となれる人間はとても限られているから。
もう戻れなくなると警告してくれたのに。警告を無視したのは自分だ。失うものがあっても、手に入れたいと願ったから。秘められた真実に、碌なものなどありはしないのに。
後悔しても遅い。この日、シエラは真実の欠片を手に入れて――風の精霊を永遠に失ったのだ。頬を伝う一筋の涙に気づいた者は、誰一人としていなかった。