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水の精霊がシエラのもとを訪れた数分後、リフェルダの傍らには風の精霊の姿があった。
「お前に呼び出されるとは思わなかったな」
静かな声が鼓膜を震わせた。驚かさないように配慮してくれたのだろう。精霊たちの囁きで、その来訪には気づいていたが、先に声をかけてくれたのは有難かった。
「それで、わざわざあいつの留守を狙って、俺に何の用だ?」
不思議そうに首を傾げている姿が思い浮かぶ。疑問に思いつつも律儀に応じてくれるあたり、優しい精霊なのだろう。
正直、来てくれるかは賭けだった。来てくれなかったとしても、文句を言える立場にはない。リフェルダは精霊の愛し子ではあるが、風の愛し子ではないのだから。
「僕の呼び声に応えてくれてありがとう。用事は……言葉通りだよ。君と話してみたかったんだ。他の特別な精霊と話をする機会は滅多にないから」
「……まあ、話をする機会がないというのは確かだな。そもそも特別な精霊の数自体少ない」
特別な精霊は片手の指の数よりも少ない。それを思えば、イザルネと出会えたのは奇跡なのだろう。実際にその存在を知ったのは誓約を交わした後だった。
「そうだね。だから、君が来てくれて本当に嬉しい」
「今回は特別だ。お前はイザルネの誓約者だからな」
「余計なことをしたって、怒ってる?」
「まさか。俺は誰の行動も制限しない。俺が何も語りたがらないからといって、他者にまでそれを押し付ける気はない」
口調はあくまでも穏やかだった。シエラが置かれている状況を理解した上での発言。手を差し伸べることはしなくとも、他者の言動を抑制しない。文字通り、見守っているのだ。
「それで何が訊きたい? 俺のことなら、すでにあいつから聞いていると思うが」
「……うん。彼女は起こった出来事を端的に話してくれる」
風の精霊とその誓約者を巡る悲劇と惨劇。それをイザルネは朗々と話して聞かせた。
語られたのはその結果だ。彼らがどのような思いを抱いて、そのような結末を迎えるに至ったのか。それは当事者に訊かなければわからないだろう。しかし尋ねようとは思わなかった。
「だけど、それが聞きたくて君を呼び出したんじゃない。気にならないと言ったら嘘になるけど、これは僕が訊いていいことじゃないと思うから。……それに、僕は確定された過去よりも、今のことが気になる」
へえ、と面白がるような声が聞こえてくる。
「誰しも秘められたものほど暴きたくなるものだ。その欲求を抑えることは難しい」
それがシエラのことを言っているのだと、聞かずともわかった。生きていく上で必ずしも必要ではないもの――むしろ知らないほうが幸せであることさえ、人は探求せずにはいられない。
「しかし、さすがはイザルネの選んだ愛し子、それは賢明な判断だ。人間は過去なんかよりも未来を追い求めるべきだ。……俺たちと違って未来があるのだから」
あっけらかんと未来を否定した風の精霊が、もう一人の特別な精霊の姿と重なる。
思い出される過去の出来事。遠くない昔、リフェルダは両目の視力を失った。当時、すでに誓約を交わしていたイザルネは、自分のことのように激昂していた。
どこを見渡しても暗闇しかない世界を、どんなに不安に思ったことか。次々と離れていく人間たちとは違い、彼女は傍にいてくれた。握り締めてくれた手がどれだけ心強かったことか。
『……いいさ。お前は前だけを見つめていろ。その代わり私が奴らを許さないでいる』
聞こえてきた寂しそうな声。それは彼女らしからぬ声で、驚いたのを覚えている。
『僕は君が誰かを憎む姿なんて見たくない。それに……彼らだってあんなことになるとは思っていなかったと思う。あれは不幸な事故だよ』
『それでも、お前が傷つくきっかけを作ったのは、到底許せることじゃない。――お前を傷つけてもいいのは、私だけだ』
静かに名を呼ぶと、イザルネは沈黙した。吐息さえも聞こえそうな静けさの中で、自分が世界に取り残されてしまったような気がする。握られていた手だけがそれを否定していた。
『前には進めない。私は――私たち特別な精霊は、ずっと前に死んだ人間なのだから』
長い沈黙を経て、イザルネが重い口を開く。最初はその意味がわからなかった。ただ背筋がすうと冷たくなる。だが何も言わずに身を寄せ合う。普段の姿からは想像もできないが、彼女も癒えることのない孤独を抱えているのかもしれない。
長い孤独と過去を見据えた日々に疲れ果てたような、そんな物悲しさを感じる声だった。いつも横柄で自分勝手な精霊が、初めて見せた弱さだった。それは印象深くこの胸に残った。
「君たちは生きてここにいる。僕たちと歩む時間こそ違うかもしれないけど、時間は等しく流れている。だから未来がないような言い方はしないでほしい」
風の精霊にそう言われると、イザルネに言われているかと錯覚する。以前、似たようなことを聞いたからこそ、ぎゅっと胸が締め付けられた。