20
気配を感じて壁に視線を向ける。何の変哲もない壁から壁から二本の腕が突き出した。少しずつ範囲は増え、次第に身体が現れる。瞬きする合間に、部屋に水の精霊が姿を現していた。
何も知らない人間が見たら恐怖に慄きそうな光景だ。しかしシエラは精霊の本質を理解しているからこそ、驚かずに済んでいる。ソルディも物理的な問題など関係ないように、色々なところをすり抜けていた。
「やあシエラ、待たせてしまったか?」
「ううん。ありがとう、私の我侭を聞いてくれて」
「あれはリフェの我侭だったのだろう? 私はお前の我侭を聞いてやったつもりはない」
リフェルダの頼みだから聞いてやったのだと言われて沈黙する。しかしイザルネの言葉は偽りざる本心だともわかっていた。
「……それでも、ありがとう。君は来てくれたから」
真摯に言えただろうか。自分は感情を表に出すことが下手なので心配になる。イザルネの様子を窺うと、満更でもない様子でふふふと笑った。それに一安心する。
「その割には嬉しそうではないな。――思いつめた顔をしている」
最後だけ秘密を暴くように声を潜められる。シエラははっとして頬に触れた。
「奴が答えないことを私に訊くのは、賢明な判断といえなくもない」
いきなり核心に触れるイザルネに、否応にも心臓が高鳴る。
「そんな顔をするな。私も精霊の端くれ。精霊に関する事柄なら多少は詳しい」
すべてお見通しなのだ。ソルディも、イザルネも。
落胆すべきなのか喜ぶべきなのか悩む。知っているからといって正直に答えてくれる保証はない。現に風の精霊は頑なに口を噤んでいる。
「しかし――私は奴ほど優しくないぞ?」
この上もなく優しく囁かれた。聖母のような慈しみの表情を浮かべているのに、それは悪魔の囁きのように聞こえた。
「お前が私に訊きたいことはなんだ? 欺くことなく、ただ真実のみを伝えると約束しよう」
「……何でも?」
「ああ、何でも」
なんて力強い言葉だろう。水の精霊の言葉にはソルディとは別種の安心感がある。どんな真実が隠されていても、きっと水の精霊は言うのを躊躇わない。優しさではなく、無関心ゆえに。
「……私がこんな身体に生まれたのと精霊は、何か関係があるの? 時々、心配になるの。人間よりも精霊のほうが近く感じるときがある」
「曖昧な言葉で誤魔化すのはやめろ。それとも……怖気づいたのか? 私がその問いに答えるのを躊躇わないと知り」
覚悟を試すかのように、厳しい言葉が投げかけられる。ある意味、図星だった。他にどうとでも言い方はできた。わざと曖昧な表現を使ったのは、どこかで恐れていたからだ。
何も言わずに俯くと、わざとらしい溜息が聞こえてきた。
「お前が何を指してそう言うのかによって、私の答えは異なる。私の言葉が欲しいのなら、それなりの質問をすることだ」
彼女の言葉は容赦がない。口を開きかけて躊躇した。一体何を言うつもりなのだろう。
「くだらない。そんなことを訊くために私を呼び出したのか?」
「違う。私は」
この精霊に弁解の言葉は必要ない。悪戯に言葉を重ねても、苛立たせるだけだ。水の精霊をこれ以上失望させれば、早々にシエラを見切って立ち去るのだろう。
数秒後には跡形もなく消え去って、二度と問いに答えることもない。
(――それは嫌)
覚悟なら、リフェルダに頼んだときにしたはずだ。今さら迷うなど、あってはならないこと。
「ねえ、私は本当に『精霊の愛し子』なの?」
躊躇った末に、ようやく口を開いた。ずっと感じていた違和感の正体。月夜に現れたソルディと、与えられた選択肢。深く考えたら駄目だと、自分を律していた。
「あいつは何と言ったんだ?」
「……私が精霊の愛し子であるかは、特に触れなかった。私はただ、誓約が交わされたか否かの判断を任されただけ」
差し伸べられた手を取ったのはシエラだ。誓約を交わせるのが『精霊の愛し子』だけだったから、彼の手を取ることでそれを肯定した。