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高積雲が時計塔の天上にかかっていた。白雲は明暗で立体感を出しながら、空を彩っている。
時計塔は街の中心にある広場に、堂々とその姿を晒していた。決して豪華な造りではないものの、街の雰囲気に合う温かみのある時計塔だ。文字盤は四方に取り付けられ、どの方角からも臨める造りとなっている。
何十年とそこにある時計塔に、ただ一つ異変があるとすれば、尖塔という居るはずのない場所に人影があることだろう。手を滑らせれば命の保障すらないというのに、尖塔に添えられた腕だけで身体を支え、悠々と眼下を見下ろしている。
そもそもどうやって登ったのだろう。内部の螺旋階段は常に施錠されており、簡単に侵入できる場所ではない。また鍵を抉じ開けるにしても、何せ人通りの多い広場である。人気がない深夜ならできなくもないが、時刻はお昼を過ぎた頃合である。
それならばどうやってと青年に尋ねるのは愚問だった。
彼は確かに尖塔に立ち、見つかったら大変な騒ぎになるだろうに、杞憂だと笑い飛ばすような大胆不敵さで街を眺めている。
時折吹く風に足元を掬われることもなく、気持ち良さそうに目を細める。そして不意に尖塔から手を離した。青年はバランスを崩して落下し、その姿をみた人々は悲鳴を上げる――とはならなかった。地面が徐々に近づいても、誰一人騒ぎ出す者はいない。
青年は笑みを浮かべ、地面に激突するはずだった身体は風に乗り、宙を舞う。
そして人々は今日も日常を迎える。
太陽は沈み、月が輝きを増す時間――街は夜が支配する時間となっていた。すでに消灯した家が多く、人気がない路地は昼間とは違う顔を見せている。
人為的な光に影響されない夜空には、無数に輝く星が夜空に君臨する月を惹きたてていた。その光景を、青年は屋根の上から見上げていた。
身体からは満月と同じ淡い光が発せされ、青年が人外のものだということを知らしめている。
「美しい月の御方。我らに永劫なる月の恩恵を」
感情が抜け落ちたような抑揚のない声色。月光に照らされた彼は端整な目鼻立ちをしていた。
若葉色の髪は、角度によっては色を変える。その中でも印象的なのは、オッドアイの双眸。右目はかんらん石色。そして左目は翡翠色。緑の虹彩などありふれているのに、与える印象はまるで異なる。
青年は視線を地上へ戻すと、右手を胸の前に出した。じっとそれを見つめると、ふわりと前髪が揺らめく。
いつの間にか、どこからともなく生まれた風が右手に集まっていた。
「――教えてくれ。彼女はこの街にいるのか?」
ひっそりと呟くと、それに答える声があった。
『うん、いる。あっち』
『こっち、こっち』
周囲に人影はないはずなのに、好き勝手答える声はすぐ近くから聞こえる。青年はただ、右手を見ていた。何もないはずの右手。けれど見る者が見れば、見えるはずのないものが見えただろう。
青年は軽く頷き、屋根を蹴って滑空する。沈黙する街を横目に一軒の家の前で足を止めた。多くの家が消灯している中、その一軒だけ明かりが灯っていた。
暗闇に身を置いている青年には、その室内がよく見える。
愛らしいぬいぐるみが何体も並べられた室内。こちらに背を向けてベッドに座る少女の存在。
くせ毛の白い髪が柔らかく背中にかかっている。青年は思案するようにその後姿を見つめた。どれだけそうしていたのか。青年は覚悟を決めたように、気配を消して壁を通り抜ける。
一連の動作はあくまで自然だった。少女はまだ気付かない。そもそも、物音一つさせずに侵入を果たした青年の存在に気付けというのは酷な話だろう。
少女は読書の最中のようだった。まだ十かそこらだろうに、分厚い本に目を通している。
青年がベッドにあったぬいぐるみを両手で包み込むと、そこに一陣の風が生まれた。
満足そうに微笑み、人差し指をくいっと上げる。その動きに合わせ、クマのぬいぐるみが浮き上がった。それを器用に操りながら、少女の肩を悪戯にたたく。
不意の出来事にも関わらず、少女はふっと顔を上げた。肩越しに振り返り、己の肩をたたいたと思われるもの――茶色の毛むくじゃらな手を視界に入れる。
悲鳴を上げることもなく、クマのぬいぐるみを凝視している少女に、青年はまたしてもクマのぬいぐるみを操って手を上げさせ、「よっ!」と挨拶をしているように見える形に操る。
目の前でクマのぬいぐるみが動く。しかも挨拶して見せたのだ。少女は興味深そうに瞳を瞬かせた。そして何かに気づいたかのように視線が動き、様子を見ていた青年の姿を捉える。
誰にも見えなかった青年の姿が、この少女には見えていた。
「俺の姿が見えるのか?」
不慮の事態に驚かなかったのは、青年も同じだった。双方、この状況下で違和感があるほどに落ち着いている。
確認するかのような問いに、少女は淡々と答えた。
「――見える。君は幽霊なの?」
青年はふっと笑った。
「違うよ。だけど近いものではあるのかもな。俺は精霊だ。風の眷属にして風の精霊」
即座に笑い飛ばされることも覚悟していたが、少女は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「本当に風の精霊? ……私が知る精霊たちは、君のような姿はしていない」
当然のように精霊を肯定し、尚且つ日常的に姿が見えていることを示す発言に、風の精霊はわずかに瞠目する。
この世に存在する人間の大多数は、精霊を信じない。目に見えぬ存在を信じぬのも理に適っている。けれど一部の例外として、精霊の姿を捉えることのできる人間がいることを彼は知っていた。
「俺は彼らとは違う。俺は精霊の中でも特別な存在だ」
「特別……?」
真意を探ろうとするかのように、少女は反芻した。
精霊が見える。その点において少女も特別だ。しかし彼女だけが特別なのではない。世も末――精霊という存在こそ忘れられつつあるが、世の中には精霊の愛し子、又は精霊使いと呼ばれる人間がいる。
異能に差こそあれど、彼らは精霊を見ることができるのだ。
「俺が人間と同じような姿をしているから驚いたか?」
多くの精霊は明確な形を持たない。精霊とは世界中に満ち溢れている生命の息吹そのものだ。中には人間と同じような姿を持つ精霊もいるが、それは特別な精霊と呼ばれる存在だけ。
「うん。その姿も大きさも、まるで人間のよう。でも淡い光をまとった姿は人間には見えない。月の精霊のように美しい」
子どもならではの素直な賛辞に、風の精霊は微笑んだ。
夜空に浮かぶ月。それには格別の意味がある。精霊に存在する力を与え、精霊王とは別の意味で頂点に君臨する。その月にたとえられるのは恐れ多くもあるが、名誉なことでもある。