戦争
いつもと何も変わらない日常の空は終わり、何もかもが違う戦場の空が広がっていた。
あちこちで煙は上がり、遠くでは銃声と爆音が散発的に響き、空ではミサイルと戦闘機がじゃれあうように飛び交っている。切片霧がそこらじゅうに滞留し、妨害地波が走る電光が見える。公道はとっくに逸れて、あぜ道のような狭苦しい土を固めただけの山道を輸送車は走破する。とてもではないが快適とは言えなかった。とにかく揺れるし、コンテナではなく台車なので全面開放だ。ずらりと固定されたマギマキカと、それに乗ったままの生徒を運ぶさまは、もはやドラム缶に生徒を詰めて運ぶことと同じだった。
マギマキカの緩衝装置も、損耗を避けるために一時的に解除している。
リュウは列を成す微動だにしないマギマキカを眺めた。見ている先でシジマが暇そうに欠伸をかみ殺す。総員の何割かはすでに降りて、後方基地からこの集積地に物資を運ぶ任務についている。ロッツも同じく後方基地で、戦車やマギマキカの整備をしているはずだ。
そしてセフィリアは、この中に居ない。
校内での手伝いはしたが、前線に移動する輸送車に乗らずに別の護送車両が彼女を迎えに来たのだ。その車両に王家の紋章が小さくあしらわれていたことを、リュウは見つけている。
立場を考えれば、普段から相対的にひどい扱いを受けるセフィリアの数少ない皇族扱いであることは、誰もが知っている。口に出して悪く言う者はいなかった。だが、こういう重大なときに限って厚遇されることに、不満を覚えている生徒も少なくないこともまた、誰もが知っていた。
代わりの枠にまんまと入り込んだカバネは、弐拾参(23)と番号が振られたマギマキカに抱かれて、死んだように俯いている。
前線から一番離れた物資集積地にたどり着いて、輸送車は停止した。貨物台に乗っていた軍人がすぐさま降りて、声を上げる。
「よし、三分の一はここに残れ。物資を隠す。残りはここより前の集積地に運ぶのを手伝ってくれ」
まばらな返事をして生徒たちはめいめい取り組む。
リュウも肩と腰につけたカゴに物資をくくりつけて、振り返った。シジマの積荷を固定するワイヤをカバネが締め直していた。
息をついて、彼らを待つ。
『ごめんごめん、オッケーだよ』
「ああ。じゃあ行くか」
待たせたとばかりに手を振るシジマを確認して、リュウは前線に向けて進み出した。
山の斜面を這うように走る。空を戦闘機が編隊を組んで駆け抜けた。唾を飲もうとして失敗する。口が渇いていた。リュウは苦笑する。
こんな奥地にまで敵が入り込んでいるわけがないのに、緊張しきっている自分があまりにも滑稽だった。
まごうことなき戦場だ。
ここは間違えようもなく、生身に当たればひとたまりもない砲弾が行き交い、薄い装甲など容易く貫く銃弾が湯水のように消費され、味方を守る為に相手を殺す爆撃が応酬される、戦場なのだ。
マギマキカは胸部装甲こそ付け替える間も惜しんで合成樹脂のままだが、今回はコンパスゲージもパスマーカーも全て生きている。僚機との情報統合も設定し、レーダーの照射も探知されていない。
リュウはゆっくり走る。物資を担いだ機体は重く、一歩ごとに地面を潰し、足跡を刻む。後ろにシジマもカバネも食いつくようについてきていることを確認する。
空を駆け抜けていた戦闘機が一機、爆発四散した。編隊を組んでいた僚機が爆発を避けて散開する。
前線はまだ構築されておらず、対地航空支援と空対空戦闘と地対空兵器が三つ巴を繰り返し、地対空兵器は地上先遣部隊が突き防衛部隊が迎撃し、先遣部隊同士が交戦し、後方支援基地への航空遠距離攻撃は地上部隊の支援を受けられないため簡単に対処されて成果を挙げずに軍需物資を浪費する。
やがて本隊が到着してからは互いを磨り潰すような交戦が始まるのだろう。
銃声と砲声と爆音が響き、空を翔る轟音と空を突き破る爆音と空を走る砲声が行き交う。
流れ弾のようなミサイルが近くに着弾した。腰を殴り上げるような爆発音が聞こえる。
全く近くではなかった。土煙ひとつ見えはない。
「だあ、くそ」
リュウは悪態をついた。萎縮する心を奮い立たせようとする。
交戦地点は遠い。集積地といっても、そこからさらに進まなければ前線に遠く行きつきはしない。軍隊は突然の開戦でどこも人手が足りないところを、わざわざ安全な仕事を選んで与えてくれたのだ。この程度で怯えていては何もならない。
念じてみても、リュウは息が切れそうな速さで山道を突き進むことをやめようとはしない。まるでのんびりと歩いていたら敵に捕捉されて狙われるのではないかと思っているかのように。
そんなリュウを暫定の班長として続いているシジマも、カバネでさえその走りを咎めようとしなかった。
とにかく走る。
芝を蹴って、木を避けて、斜面を踏み潰して、前へと。
砲声のするほうへ。人が死んでいるかもしれない方角へ。
セフィリアは古く伝統ある王城を訪れていた。王城はばかにでかく豪奢で絢爛で、権威の程を嫌というほど声高に主張している。
資産価値こそあるが、先祖代々伝わっているものを後生大事に守り通しているだけに過ぎず、現在の資財とはまるで結びつかないこけおどしであることを、セフィリアはよく知っていた。
こんなところを住処としたら、かえって神経が休まらないだろうな、と毛足の長い絨毯が引かれた廊下を一人歩いてセフィリアは思う。付き人の一人も付かないあたり、逼迫した財政が人件費を侵していることを容易くうかがわせる。
丁寧に磨かれた金細工の装飾も、美術館のように並び立てられる著名な画家の古い絵画も、鍋の底を浚うような数少ない希少価値を殊更大事に抱えている証左に過ぎなかった。
やがて歩いていたセフィリアの足が止まる。彼女を呼び寄せたものが居座る執務室だ。
セフィリアはその重厚な木の扉を眺めて、胸の上に拳を置いた。呼吸を整えるように深呼吸をする。
その拳で、扉を叩く。
「失礼します」
「入れ」
手を掛けて押しただけでは動かなかった。体重を掛けて勢いをつけて重い扉を押し開く。
落ち着いた色調の部屋は広く、大きな窓とその前のデスクが目立ち、壁際には書棚が並ぶ。そのデスクに着いている青年が、端末のキーボードを叩く手を休めた。目に掛かりそうな前髪の隙間から、怜悧な瞳がひたりとセフィリアを捉える。
「よく来たな。移動で疲れてないか」
「大丈夫です、兄上」
セフィリアは兄に答えて、デスクの前に立った。
兄と呼ばれた青年はキーボードから手を下ろし、静かに手を組んで背もたれに体を預ける。
その姿を見て、セフィリアの眉が迷いに寄った。
直通で王城に一気に移動した彼女は、まだ戦争の経緯や理由を知らされていない。その疑問は全て兄ならば知っているはずだったが、同時に、この事態の最も中心に近いところに居る兄に、組織の末端としてしか動けない自分が尋ねることは、ひどく不毛なことのように思われた。それ以上に無礼ですらあるかもしれない。
そんなわずかな逡巡の間に青年が口火を切り、疑問を尋ねる機会は永遠に失われた。
「さて、セフィリア。単刀直入に訊く。どうだ?」
問われ、セフィリアは右手をぴくりと震わせた。よぎる感情をおくびにも出さず、淡々と言葉を伝える。
「基礎的なところは、なんとか。戦闘駆動中は少々判断が遅れます」
「そうか。まあ、そんなところか」
薄く目を伏せて、青年は何事か思案する。その姿は透明な彫像を思わせ、悪意も善意もなく純化されたひとつの美術品のようですらあった。
その青年の在り方を、セフィリアは好悪を抜きにして、よく知っている。
発言という、凪いだ湖面に石を投じるかのごとき行為が躊躇われる雰囲気に構わず、セフィリアは声をかけた。
「今回、運用するおつもりですか?」
「……いや。時期尚早だろう。あれの調整も万全ではない」
目を伏せたままの青年の言葉にかすかに肩の力を抜くセフィリアは、ふと怪訝な表情をして尋ねる。
「では、なぜ私を呼び戻したのですか?」
何を言っているのか、という顔で青年は顔を上げた。セフィリアに告げる。
「皇女を前線に送り込むわけにはいかないだろう。それも指揮官ならともかく、一兵卒としてなど、王族の名が虚飾に過ぎないものになってしまう。戦争が終わるまで、ここに避難していろ」
絶句した。信じられない言葉を聞いたように、セフィリアは目を見開く。
その姿を見て意外そうな顔をしたのは青年のほうだ。
「お前は、前線に出る気だったのか?」
改めて問い返されて、セフィリアは意表を突かれたように目を惑わせた。しかし、静かにセフィリアを見据える青年の瞳を見ると、気を落ち着けてしっかりとその目を合わせ、言葉を返した。
「……軍学校の者には、その義務があります」
「王家の招集はその軍規より優先される。お前は、昔から律儀なくせに目の前しか見えず、大局的な判断を忘れる。ペンダントを預かるものとしての自覚を忘れるな」
「忘れてなどおりません」
心外だとばかりにセフィリアが語調を強めて反論した。
しかし、冷え切った氷のような冷静な瞳に捉えられて、セフィリアは息を呑んだ。緊張に締め付けられる。背後から何者かに押さえつけられているかのように、身じろぎひとつ取れなくなる。
青年は何も言わず、何の感情も窺わせず、単にセフィリアを見ている。それが何よりもセフィリアには圧迫感を感じさせた。
不意にその目の呪縛が外される。
「ならいい」
淡々と告げて、青年はセフィリアに退室の許可を言い渡した。
一礼し、デスクに背を向けて、質のいい絨毯を歩き、扉を開いて、閉じる。
息をついた。
全身が重くなったかのような疲れがどっと絡みつく。肩の荷が下りたと同時に、張っていた気がほどけてしまった。しばらくは何も考えたくない。やっと緊張から開放されたセフィリアは、無意識に胸のうえに手を置いている自分に気がついた。
唇を噛む。
「忘れてなど、おりません。……忘れられるはずがない」
しばし瞑目し、不意に顔を上げる。手を下し、胸を張って王城の廊下を歩む。
堂々としたその歩みは、確かに王家の風格を漂わせて、凛と前に向けられた表情は勇壮な印象を与える。
セフィリアは、まぎれもなく王家の一員だった。
ただ一点、その脳裏に無数の義務感がせめぎ合ったままであることを除けば。