婚約破棄された令嬢は何も言わず去った〜しかし彼女に依存していた王太子は判断できなくなり、国ごと崩れ始めてしまう〜
王宮の大広間は、まるで舞台のようだった。
磨き上げられた床、豪奢なシャンデリア、そして周囲を囲む貴族たち。
すべてが整い、あとは“見世物”が始まるのを待っている。
「セレフィーナ・アルヴェイン」
その名を呼ぶ声は、どこか誇らしげだった。
王太子エドヴァルド・ルクレイン。
かつて私の婚約者だった人。
「お前との婚約を破棄する」
――やはり来たか。
私はゆっくりと顔を上げた。
「理由をお聞きしても?」
「決まっているだろう。お前は冷酷で、他者を顧みない。王妃にふさわしくない」
その言葉に、周囲の貴族たちは頷く。
まるで最初からそう決まっていたかのように。
「そして――」
彼は隣に立つ少女の肩を抱いた。
「私は真に優しく、民を想う女性を選ぶ」
柔らかな笑みを浮かべる少女。
名をミレイユ。
最近になって頭角を現した“聖女”。
「セレフィーナ様は……少し怖くて……」
震える声。潤んだ瞳。
見事な演技だった。
私は何も言わなかった。
言い返すことは簡単だ。
だが、それに意味はない。
なぜなら――
この男は、もう手遅れだから。
「……承知いたしました」
静かに頭を下げる。
ざわめきが広がる。
反論すると思っていたのだろう。
泣き叫ぶか、怒るか、縋るか。
だが私は何もしない。
ただ受け入れる。
それだけだ。
「随分とあっさりだな」
エドヴァルドは不満げに眉をひそめた。
期待していた反応が得られなかったのだろう。
「では、本日をもって婚約は破棄とする。セレフィーナは王都から退去せよ」
「はい」
それだけ答え、私は踵を返した。
背後で何かが崩れ始めていることを知りながら。
私は決して“優しい”人間ではない。
だが、冷酷でもない。
ただ――よく観察するだけだ。
エドヴァルドは、自分では何も決められない人間だった。
表向きは聡明で、堂々としている。
だが実際には、常に誰かに判断を委ねていた。
幼い頃は教育係に。
少し成長してからは側近に。
そして――婚約してからは、私に。
「セレフィーナ、これはどう思う?」
「この政策、進めるべきか?」
「貴族たちの意見が割れている。どうまとめる?」
最初は助言だった。
やがてそれは依存へと変わっていった。
彼は“考える”ことをやめた。
私が答えを出してくれるから。
私が正解を示してくれるから。
だから彼は安心して“王太子”でいられた。
だが――
その自覚は、彼にはなかった。
王都を出て、数日。
私は静かな屋敷に身を置いていた。
アルヴェイン家の別邸。
人の出入りも少なく、落ち着いた場所だ。
「お嬢様、本当にこれでよろしかったのですか?」
侍女のカレンが不安げに問う。
「何が?」
「婚約破棄を……あそこまであっさりと……」
「ええ」
私は微笑んだ。
「問題ないわ」
むしろ、あれでよかった。
あの場で何かを言っても意味はない。
彼は聞かない。
理解しない。
自分で考えられないのだから。
だから私は、何も言わなかった。
――失ってからでなければ、理解できない人間には。
それが一番効く。
一週間後。
最初の報せが届いた。
「王宮で混乱が起きているようです」
カレンが手紙を差し出す。
内容を読む。
思わず小さく息を吐いた。
予想より早い。
「政策会議がまとまらない……か」
当然だ。
これまで私が裏で整理していたのだから。
意見の対立を調整し、落としどころを作り、最終的な判断材料を提示する。
それがなくなれば、ただの言い争いになる。
「王太子殿下は?」
「……判断を下せず、会議が中断されたと」
「そう」
目に浮かぶようだった。
沈黙する会議室。
視線を集められながら、何も言えない彼の姿が。
二週間後。
さらに報せが増えた。
・貴族同士の対立激化
・地方領主の不満増大
・税制改革の停滞
どれも小さな問題だ。
だが積み重なれば、国を揺るがす。
「聖女様はどうしているのですか?」
「……祈りを捧げているそうよ」
私は少しだけ苦笑した。
ミレイユは“象徴”としては優秀だ。
だが、政治はできない。
そもそも求められている役割が違う。
それに――
エドヴァルドが彼女を選んだ理由は単純だ。
“楽だから”。
何も求められない。
何も指摘されない。
ただ褒めてくれる。
だから選んだ。
だが、それでは国は回らない。
一ヶ月後。
ついに決定的な報せが届いた。
「……外交交渉、失敗」
私は手紙を閉じた。
隣国との重要な協定。
本来なら慎重に調整すべき案件。
だが、彼は判断を誤った。
いや――判断できなかったのだ。
結果、交渉は決裂。
関係は悪化。
「これは……致命的ですね」
「ええ」
ここから先は早い。
外交が崩れれば、経済も揺らぐ。
そして不満は一気に噴き出す。
――崩壊の始まりだ。
二ヶ月後。
王都から使者が来た。
「セレフィーナ様にお会いしたいと」
予想通りだった。
「通して」
応接室に現れたのは、見慣れた顔だった。
エドヴァルド。
だが、その姿は以前とはまるで違っていた。
顔色は悪く、目の下には隈。
かつての自信は見る影もない。
「……久しぶりだな」
「ええ、殿下」
私は静かに礼をした。
「今日はどのようなご用件で?」
分かっている。
だが、あえて聞く。
彼自身の口で言わせるために。
「……戻ってきてほしい」
かすれた声だった。
私は何も言わず、ただ見つめる。
「国が……うまく回らない」
「そうですか」
「お前がいなくなってから……すべてが狂った」
その言葉に、私はほんのわずかに首を傾げた。
「それは、私のせいでしょうか?」
「違う!」
即座に否定する。
だが、その声には確信がない。
「……いや、違わないのかもしれない」
彼は顔を覆った。
「分からないんだ。何をどうすればいいのか」
――やはり。
何も変わっていない。
「私はずっと、お前に頼っていたのか?」
「はい」
私はあっさりと答えた。
彼は言葉を失う。
「会議の整理も、政策の判断も、貴族の調整も」
一つずつ、淡々と並べる。
「すべて、私が行っていました」
「そんな……」
「殿下はそれを“自分がやっている”と思っていただけです」
静かな事実。
それは刃のように彼を切り裂いた。
「……では、私は何をしていた?」
「王太子でいらっしゃいました」
それだけだ。
彼は椅子に崩れ落ちた。
「……戻ってくれ」
再び、懇願。
「お前がいないと、私は――」
「生きられませんか?」
言葉を遮る。
彼は息を呑んだ。
図星だったのだろう。
私は静かに立ち上がる。
「殿下」
まっすぐに見つめる。
「それが分かっていながら、なぜ婚約を破棄されたのですか?」
「それは……」
答えられない。
理由は単純だ。
考えていなかったから。
「私は殿下の補佐でした」
「支えでした」
「ですが、それは“必要だから”であって、“当然ではない”のです」
一歩、距離を取る。
「失ってから気づいても、遅いのです」
「……頼む」
彼は頭を下げた。
王太子が、私に。
「戻ってきてくれ」
その姿を見ても、何も感じなかった。
同情も、怒りも。
ただ――
空虚だ。
「お断りします」
はっきりと告げる。
「……なぜだ」
「もう必要ありませんので」
「必要だ!」
「いいえ」
私は首を振る。
「殿下に必要なのは、私ではありません」
彼は顔を上げる。
「“自分で考える力”です」
沈黙。
「それを持たない限り、誰が隣にいても同じです」
彼は何も言えなかった。
私は一礼する。
「どうか、ご自分でお考えください」
それだけ言って、部屋を後にした。
その後、王国はさらに混乱を深めた。
エドヴァルドは必死に立て直そうとした。
だが、急に変われるほど甘くはない。
判断は遅れ、誤り、周囲の信頼も失っていく。
やがて――
彼は王太子の座を降りることになる。
数ヶ月後。
私は静かな庭で紅茶を飲んでいた。
「王都は……落ち着きを取り戻しつつあるようです」
カレンが報告する。
「新しい王太子が立ったの」
「はい。補佐役をしっかり置いているとか」
「そう」
私は小さく頷いた。
今度は、同じ過ちは繰り返さないだろう。
少なくとも、少しは学んだはずだ。
「エドヴァルド様は……」
「聞かなくていいわ」
私は静かに微笑む。
彼がどうなったか。
興味はなかった。
もう、関係のない人だから。
人は、失ってから気づく。
だが――
気づいたところで、戻らないものもある。
私はカップを置き、空を見上げた。
青く澄んだ空。
何も変わらない景色。
ただ一つ違うのは――
隣に、彼がいないこと。
それだけだ。
そして、それで十分だった。
婚約破棄は、彼にとっての終わりであり。
私にとっては、ただの通過点に過ぎなかった。
それだけの話だ。




