『記憶マーケット』
亮は毎晩、同じ悪夢にうなされていた。
中学時代の教室。クラス全員の視線と嘲笑。机に刻まれた落書き。
その記憶は、十年以上たった今も消えず、仕事や人間関係でつまずくたびに脳裏に蘇り、胸を締め付けた。
心療内科では「時間が解決する」と言われた。睡眠薬でも酒でも慰めにはならない。
「もし消せるなら、あんな記憶全部消してしまいたい」
そう思った夜、スマホに“記憶マーケット”の広告が流れてきた。
――「辛い記憶を売りませんか?」
まるで救済の声だった。亮は震える指で画面をタップした。
契約はあっけなかった。
白い無機質な部屋で椅子に座り、端末に額を当てるだけ。
脳がしびれる感覚のあと、長年まとわりついていた「教室の笑い声」がすっと消えた。
「あれ…俺、なんで悩んでたんだっけ?」
驚くほど心は軽く、視界は明るかった。
その夜、亮は十年ぶりにぐっすり眠れた。
――もっと早くやればよかった。
味をしめた亮は次々と売った。
失恋の記憶。就職での失敗。父親に殴られた記憶。
消すたびに心は軽くなり、笑顔が増えた。
会社の同僚にも「最近明るくなったな」と言われ、昇進もした。
だがいつからか、“辛い”だけでなく、“少し嫌だった記憶”までも気になり始めた。
些細な挫折、友人との喧嘩、恥ずかしい失敗。
「どうせなら全部、いらないだろ」
そうして記憶マーケットに通う日々が続いた。
半年が経った。
亮は確かに“幸せな記憶”だけを残していた。
だが――奇妙な感覚があった。
恋人との初デートの記憶。旅行で見た絶景の記憶。
それらは確かに美しいはずなのに、どこか色あせていた。
「どうして俺は、これを幸せだと感じていたんだろう?」
比較する“痛み”がなければ、“喜び”の輪郭も見えないのだと気づいたのはその時だった。
それでも亮は止まれなかった。
「幸せに意味がないなら、いっそ全部消せばいい」
亮は最後に残った“幸せな記憶”さえも、マーケットに差し出した。
処置が終わったとき、亮の瞳は虚ろだった。
彼は椅子に座ったまま、子供のように涎を垂らし、虚空を見つめていた。
マーケットの職員は淡々と端末に入力する。
「また一人、廃人化ですね。買い手はつきましたか?」
「はい。記憶はすべて高値で落札済みです」
亮はもう“亮”ではなかった。
自分が誰で、何を愛し、何を恐れてきたのか、その一切を思い出すことはできない。
ただ、空っぽの笑みを浮かべるだけ。
部屋の隅に並ぶ無数の椅子には、同じように“全てを売り払った者たち”が並んでいた。
虚ろな目で、静かに呼吸をしている。
記憶マーケットの扉の外には、今日も「辛い記憶に悩む人々」の列ができていた。
――「辛い記憶を売りませんか?」
看板の文字が、街のネオンにまぎれて光っていた。
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