じゃあまた、桜が咲いたら
僕は、街の郊外にあるめったに人の来ない桜並木の遊歩道にやってきた。
「おはよう、海鈴」
「おはよう、ゆうくん」
僕達はまるで昨日も一昨日も学校で会ったみたいな雰囲気で、軽く挨拶を交わした。実際には、彼女と会うのは一年ぶりだというのに。まあ、この時期になると毎年会っているから、そういう意味では慣れっこなのだけど。
それから、ゆうくんというのは愛称で、僕の本名は『悠太郎』と言う。
僕が挨拶した女の子は海鈴。肩に落ちるくらいの長さの、黒く艶のある髪を持った笑顔が可愛い女の子だ。彼女はいつもと変わらない制服姿で、ベンチにピシッといい姿勢で座っていた。遊歩道のすぐ側にある川、その上に浮かぶ花筏を優しい顔で眺めている。
そんな彼女の足元は薄っすらと透けている。そう、彼女は幽霊。
桜が満開になる一、二週間の間だけ、姿を表す幽霊なのだ。たぶん、僕以外には見えていない。
「僕、大学生になっちゃった。最近は一人暮らしも始めて新生活が忙しくてさ。日常が目まぐるしく回っていくよ」
「……そっか、もうそんなに経つんだ。大変だね。大学生活、頑張って」
彼女は少し寂しそうに俯いた。
「だから、海鈴の制服見てるとちょっと懐かしくなる」
「えへへ、そうなんだ。ちょっとうれしいかも、それで色んなこと思い出してくれるなら」
それから、海鈴は僕の方を向いて笑った。少し気を遣っているのに、楽しそう。そんな彼女の笑顔が、僕は好きだった。ずっとそれが僕の救いだったし、今でもそうだ。
毎年桜が咲くこの時期に君に会えるから僕はまだ生きていられるし、年に一度でも君に会えるから、僕はまだ頑張れる。
「うん、思い出すよ。海鈴が生きていた頃のこととか、色々」
「生きていた頃……かぁ。最近は私のほうが思い出せなくなっちゃったな。思い出させるついでに、今度聞かせてね」
「……もちろん」
僕は自分の手を強く握りしめて、小さく返した。僕にとって今でも色褪せない大事な記憶だったあの日々は、きっと彼女にとっては些細な日常だったのだろう。彼女の心の支えにならないくらいの、どうでもいい些末なワンシーンでしかなかった。
そうでなければ、彼女は自殺なんてしなかっただろうし。
結局、僕は彼女にとって何者でもないのだ。最後まで好きだって言えなかったし、今も言えていない。彼女にとっての『何者か』になろうともしなかった僕がこんなことを言うのはおこがましいのは分かっている。でも、僕は彼女にとっての何者かになってみたかったんだ。
人から求められてみたかった。求めてみたかった。
でも結局、彼女はもう触れられない存在になってしまった。だから、何もかも遅いのだ。
今の僕には、こうして贖罪とも言い難い意味のない会話を繰り広げることくらいしかできない。
「あのさ」
「なぁに」
彼女は優しげな表情で笑って聞いた。
今、好きだって言ったら何かが変わるのかな、と一瞬思った。
「……この間、友達と遊びに行った時にさ」
でも、僕はそれを言わなかった。
今更そんなことに、意味はないから。
いや、それはちょっと嘘だ。
本当の理由は――もしそれを言ってしまったら、この魔法が解けてしまうような気がしたから。
◇
「おはよう、海鈴」
「ゆうくん、おはよう」
次の日、僕はまた彼女と会った。この前と同じように隣に座って、同じように水面を覆う花筏を眺める。
「……海鈴ってさ、自分がどうして成仏しないのか、分かってたりするの?」
今日は、少し勇気を出して踏み込んでみることにした。去年も一昨年も、こんな質問はしなかったから、今日初めて聞くことになる。
「んー……詳しくは分かんないけど、やっぱり、未練があるからなんじゃない?」
彼女は少し冗談っぽく言った。
そりゃ、そうだ。高校生で自殺なんて選択をとるような人間に、未練がないわけない。きっと、もっと普通の人みたいに生きてみたかったと思うし、もっと幸せになりたかったと思うし、もっと生きていたかったのだと思う。
でも、その未練が具体的に何なのかまでは僕には分からない。
「未練、って例えば?」
「そこまでは分かんないなぁ――でも、一回くらいは、好きな人とお団子食べながらお花見、してみたかったかも」
僕の方を向いて、彼女は微笑んだ。その微笑の奥に、寂しさが滲んでいた。僕は彼女のそんなところが好きだった。本当はたくさんの辛さを抱えているのに、それを誰にも見せないように一人で大切に抱えながら、笑顔で生きているその姿がどうしようもなく愛おしかった。
「そっか、もう食べ物とか食べられないもんね」
僕はベンチに乗せられた彼女の小さな手を握ろうとして、失敗した。すぅっとすり抜けてしまい、うまく掴めない。やっぱり、彼女は幽霊のままだ。
そんな僕の様子を見て、彼女は少し困ったように笑った。それから、僕の手の上にもう一度手を重ねるようにして置いた。結局、僕らの手が触れ合うことなんて無いのだけど。
「……僕が何かしてあげられてたら、海鈴が死ぬこともなかったのかな」
それは僕の罪悪感から生まれた言葉だった。
彼女は桜が咲き誇る春の美しい日に、この場所で自殺した。川に身をなげうって、いとも簡単に。死んでから聞いた話によると、親との関係があまり良好じゃなかったらしい。学校での居心地も悪かったし、どこにも居場所がないような気がして衝動的にひょい、っと。
海鈴が死んで、僕は悲しかった。だから、僕が海鈴の支えになっていれば、あるいは海鈴にとっての居場所になれていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。そう思わずにはいられないのだ。
そんな風に思ったところで、今更どうしようもないのに。
「それは――そうなのかも。私が死なないで済んだか、あとはもしかしたら一緒に死ぬことになってたかもね」
彼女がどんな想像をしたのかは分からなかったけれど、とにかく彼女はそう言ってくすくすと笑った。木漏れ日に照らされたその笑顔がとても綺麗だった。
◇
「おはよう」
「おはよう、ゆうくん。元気だった?」
彼女は僕にそう聞いた。
「うん、変わらずだよ。ありがとう」
僕はそう言って、彼女の隣に座った。僕がどんな話をしようか考えを巡らせていると、今日は珍しく彼女のほうから話を振ってきた。
「昨日さ、ゆうくんは自分が何かしてたら私が死ななかったのか、って聞いたじゃん」
「うん。僕にできることがあるなら、やりたかったから」
「でも、考えてみたらやっぱり違うなって思ったの。結局、問題は私の中にあったから」
彼女は何か吹っ切れたような表情で、そう言った。
「……問題って、どんなの?」
「私さ、もし先生のこと好きになれてたら、もっと違ったのかな、ってよく思うんだよね」
確かに、彼女はあまり先生のことが好きそうには見えなかった。担任の先生の愚痴はいつも言っていたし、他の先生だって特筆して『この先生が好き』ということは聞いたことがない。
そこはまあ、僕も同じではあるんだけど。
「大人ってみんな上から目線で嫌い。いつも軽蔑する目で見ちゃう」
「……うん、分かるよ」
僕は静かに頷いた。
「部活だって、自分の限界を把握してるから頑張りすぎないようにしてるのに、何かあったら『お前はもっとできるはずだ』みたいな意味分かんないこと言ってくるし」
「そうだよね。海鈴は、普段の自分で精一杯なのに」
「……うん、そう。だからね、そういうのでいちいち傷つくような弱さがない自分だったら、こんな風にならないで済んだのかなって思う」
彼女はひどく寂しそうな顔をしていた。その顔を見ると僕まで悲しくなってきて、でもそんな風にたくさん考えて世を憂うような表情をできる彼女のことが、どこか愛おしいと思う自分がいることも分かっていた。
つくづく、僕は海鈴のことが好きなんだと思う。
だから、僕は今の海鈴のことを、否定したくはなかった。
「そんなことないよ。そんなの、先生が悪いだけだ。僕は海鈴のそういう弱いところもすごく素敵だなっていつも思ってた。だからこそそういう大人をぶっ飛ばしてやりたかったし、海鈴を救ってやりたかった」
一呼吸置いて、続ける。
「だから、今の海鈴を許さないようなやつがいるなら――」
僕がそれを許さない。
そう言おうとして、僕は口を噤んだ。だって、それを『許した』、あるいは『見過ごした』からこそ、彼女は死んでしまったのだから。今更何を言ったって、口先だけの言葉にしかならない。
「……ありがとう。やっぱりゆうくんは優しいね」
彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべてから、優しく微笑んだ。
今は、その優しさがちくちくと僕の心臓を突き刺すようだった。
「そんなことないよ。だってもう、何もかも遅いんだから」
僕の言葉に、彼女は一瞬口を開こうとして、でも何も言わなかった。
「……ごめん」
僕はただ、謝ることしか出来なかった。
◇
僕は次の日も、またその次の日も、その次の次の日も、彼女のもとへ会いに行った。桜が満開になると、桜が散り始めるその日まで、毎日僕は欠かさず彼女に会いに行く。僕にも『現実の生活』があるから、一日の間ずっとここで過ごすわけにはいかないけれど、それでもなるべく長い時間をともに過ごすようにしていた。
それから、一週間と少しが経ったある日、僕はその日も桜の花が舞い散る遊歩道を歩いていた。
しばらくすると、ベンチが見えてきて、そこに座る海鈴の姿も見えてくる。海鈴がこちらに気づいた辺りで『おはよう』と挨拶を交わし、隣に座る。
僕がしばらく黙って周りの桜を見つめていると、彼女がこう言った。
「たぶん、今日が最後だと思う」
「そっか。教えてくれてありがとう」
僕はそう言って、改めて天を仰いだ。
今日が最後か。また寂しくなるな。
「桜が綺麗だね」
「そうだね」
僕が言うと、彼女は僕と同じ方を見つめてそう頷いた。
横目に、花びらが彼女の体をすぅっと通り抜けていくのが見えた。
「僕が、君の好きな人だったら良かったのにな」
僕はぽつり、と言った。
「……どうして?」
彼女は聞いた。
「そうしたら、君のやりたかったことをひとつ、叶えてあげられたから」
「……好きな人とお花見?」
「そう。生きている時に、団子を食べながら、一緒に」
舞い散る桜を見つめ、僕は静かに言った。
「そうだったら、よかったなぁ」
彼女は、寂しげに笑った。
その横顔を見て、僕は言おうとした。
でも、僕はずっと君のことが好きだったよ、って。
けど、言えなかった。
言ったら、やっぱり彼女がどこかに行ってしまうような気がして。今のこの状況が、変わってしまうような気がして。
そうやって惰性でこの関係を続けることが、僕にとって良くないことだなんてとっくに分かってる。
でも今海鈴を失ったら、今度は僕のほうが死んでしまうかもしれない。そう思って、踏み出せなかった。
結局、僕は彼女といる時間以外で何かが満たされたことなんてなかったんだ。まるで、底の抜けたコップに水が注がれるみたいな感じで、誰と話していようがどこか孤独を感じてしまう。だから、僕は今でも毎年海鈴に会いに行くし、執着している。
これじゃあまるで、僕のほうが海鈴への地縛霊みたいじゃないか。少し、自嘲するような笑みがこぼれる。
それから、僕達二人は、その日別れるまでの間ずっと二人して桜を眺めていた。
たまに綺麗だね、って言い合ったりしながら。
そのうち、僕は家に帰らなきゃいけない時間になってきた。最寄りのバス停の最後のバスがやってくる時間だ。
「そろそろ、帰らなきゃいけない時間かも」
僕は言った。
「そっ、か。分かった」
彼女はそう言って笑った。少し、寂しそうだった。
僕も、同じ気持ちだった。
「うん、それじゃあね。今日はありがとう」
「全然、気を付けて帰ってね」
彼女は笑った。
それから、僕は立ち上がってこう言った。
「じゃあまた、桜が咲いたら」
好き、って言葉も、また桜が咲いたら。
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