表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

甘美な遭難

作者: 有栖川 幽蘭

書斎に籠っていると、外の世界の季節の移ろいさえも、壁一枚を隔てた他人事のように思えてくる。言葉が枯れ、思考が澱む。そんな日は決まって、私は逃げ出すように街を彷徨う。私のこの、えたいの知れない憂鬱の塊は、歩くことによってしか、その形を僅かに変えてはくれないのだ。


足は、知らず知らずのうちに、川沿いの桜並木へと向いていた。満開の盛りはとうに過ぎ、今はもう、葉桜になりかけている。人々は、この桜の木の下に屍体が埋まっていると聞いたら、どんな顔をするだろうか。この世のものとは思えぬほどの美しい花の色は、その根が吸い上げた、腐乱した肉や血から生まれるのだと。そんな想像をして初めて、私はこの狂おしいほどの美しさと正気で向き合うことができる。 美の絶頂には、常に腐敗の幻影が寄り添っていなければならないのだ。


その時だった。


川面から、一陣の強い風が吹き上がってきた。それまで枝に辛うじて留まっていた無数の花びらが、一斉に、堰を切ったように空へと舞い上がった。


それは、花吹雪だった。


始めは、ぱらぱらと、淡い色の雪が舞うようだった。しかし風は一瞬にしてその勢いを増し、空は、視界は、瞬く間に、薄紅色の無数の粒子によって埋め尽くされた。


これは、吹雪だ。甘美な遭難だ。


前後左右の感覚が、急速に失われてゆく。世界から、輪郭というものが消え失せた。見えるのは、ただ乱れ舞う花びらの狂乱。聞こえるのは、風の唸りと、衣を打つ花びらの、かすかな、しかし無数の音だけ。それはまるで、世界から音が奪われ、その代わりに、この果てしない薄紅色の運動だけが、唯一の現実となったかのようだった。


私は、その嵐の中心で立ち尽くした。息をしようと口を開けば、花びらが飛び込んでくる。目を開けていれば、その乱舞が眼球を直接撫で、視界を眩ませる。私は、甘い香りのする、柔らかなものに、ゆっくりと生き埋めにされてゆくような、奇妙な陶酔と恐怖に襲われた。


なぜ、人はこれをただ、美しいなどと言えるのだろう。これは暴力だ。美しさという名を借りた、圧倒的な暴力だ。それは思考を停止させ、個を融解させ、有無を言わさずその奔流の中へと飲み込んでしまう。


花びら一枚一枚が、屍体から生まれた美しい嘘の断片のように見えた。 その嘘が無数に集まって、私を包み込み、窒息させようとしている。私は、この圧倒的な美の前に、為す術もなく、ただ翻弄されるだけのちっぽけな存在だった。しかし不思議と、その無力さが、私の心を奇妙に昂らせた。書斎で感じていた、あの鉛のような憂鬱が、この花びらの嵐によって、粉々に砕かれてゆくような感覚。



どれほどの時間が経っただろうか。永遠のようにも、一瞬のようにも思えた。


風が、来た時と同じように、ふっと、凪いだ。


すると、あれほど狂おしく舞っていた花びらたちは、まるで力尽きたかのように、はらはらと、静かに地上へと舞い降りてきた。視界が、ゆっくりと開けてゆく。


気がつけば、世界は一面、薄紅色の絨毯で覆い尽くされていた。地面も、草も、川面に浮かぶ小舟も。すべてが、死んだ花びらによって、美しく、そして静かに、埋葬されていた。


まるで、壮大な何かが終わった後のような、しんとした静寂が、あたりを支配していた。私は、呆然とその景色の中に佇んでいた。呼吸は浅く、速い。全身に、花びらが雪のように降り積もっている。


私は、自分の頬に張り付いた一枚の花びらを、そっと指で剥がした。それは、人の肌のように、ひやりと、そして湿っていた。


あの狂乱は、幻だったのだろうか。いや、違う。この地面を覆う(おびただ)しい数の死骸が、それが現実であったことを、何よりも雄弁に物語っていた。


私は、その薄紅色の静かな墓場に背を向け、ゆっくりと歩き出した。心は、空っぽだった。しかしそれは、書斎で感じていたあの空虚さとは、どこか質が違っていた。激しい嵐がすべてを洗い流していった後のような、澄み切った、そして少しだけ物悲しい、空虚さだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ