おかあさんと呼んでいいですか ~すべてはこの瞬間から始まった~
『おかあさんと呼んでいいですか ~記憶を失った少女は無自覚の絶対力で世界を守る~』
のプロローグです。
午後にはもう、何もすることがなくなった。二階の自室で窓に腰掛け、しだいに染まる空を眺めながら何度もため息をつく。
今日もいい天気だった。このところずっとそう。
目の前には一本の木があり、てっぺんがちょうど見えている。産まれたときからここにあるらしい。わたしと同じ歳の白褐色の樹木。すごく大きくなった。
葉はわずかに色づき秋が深まりつつあるのを実感する。もう八の月も最後の週になる。
明後日には、国都に行って認定を受けなければならない。
執政館までは船で一日がかり。面会の段取りも済んでいる。
面倒だが作用者としての登録認定ばかりは、この国の誰も避けては通れない。
ここで暮らすと、世の中の変化から取り残されているのではないかと思うことがある。
だけど、向こうに行けばまた従妹のペトラに会える。
常に新しい情報を仕入れている彼女は、引っ切りなしにおもしろい話をしてくれるから退屈することがない。今から楽しみ。
前庭をぐるりと見回す。
右のほうに顔を向けたとき、入り口に立っている人影が目に入り体に震えが走った。窓から落っこちそうになり慌てて手を伸ばす。
もう一度よく見ると、女の子が石壁に寄りかかり空をじっと見上げていた。
いったい誰? 何をしているの? こんなへんぴな田舎の古城の前で。
前庭の向こうを流れる川に目を向ける。
そもそも、どうやって来たの?
二つある桟橋には、うちの以外に川艇は見当たらない。車の音も聞こえなかった。
ああ、今そんなことはどうでもいい。
慌てて窓から飛び降り扉に向かって走る。
階段を勢いよく駆け下りたところで、あやうく主事のダンにぶつかりそうになった。
「シャーリンさま、お気をつけください。いつも申し上げておりますが……」
「そんなことより、外に女の子がいる」
「はい?」
「だから、女の子! 訪問者の予定、あった?」
大きなため息が聞こえた。
「姫さま、ここにお客さまはめったにいらっしゃいません。来るとしたら、リセンのモレアスかマーシャくらいで……」
「いいから、とにかく急いで、ほら、早く」
ダンを急かして走るようにホールに向かう。
「そういえば、ご当主から出立前に言いつかったことがありました。万一、女性が訪ね……」
「それだ! きっと」
「では、こちらでお待ちください。どなたなのか、うかがって参りますので」
しばらくすると、当惑顔のダンに手を引かれた女の子が現れた。
急いで近寄る。
入ってきてから、その子はただボーッと天井に目を向けていた。その姿からはまるで生気が感じられない。
彼女につられて上に目を向けるが、別におもしろいものは見えない。ただの灰色の冷たい石の天井。
そこらへんに何かあるのだろうか。視界に映るのは多くのへこみと汚れだけ。
あるいは彼女には視えるのか。そう考えたとたんにゾクッとする。
ふたりともまだひと言もしゃべっていない。まあ、彼はもともと無口だけれど。
気を取り直し、青白い顔の幼げな娘に目を向け口を開く。
「どなたですか?」
しばらく反応がなかったが、その子はゆっくりと頭を戻しこちらに顔を向けた。痩せて細くて、体に合っているとは思えない服を着た、いかにも頼りない子ども。
もう一度よく見れば、薄手の淡い緑色のドレスは大きいのではなく、単にゆったりとしているだけのよう。
もしかすると、これは外服ではなく内服なのかしら。どこかからやって来たのだから、外出着のはずだが、近くで見ればやはり屋内着にも思える。
いずれにしても、ドレスなど着用しなければならない事態はできるだけ避けてきたし、服に興味はないのでよくわからない。
彼女の表情が少し変化し、赤みが戻ってきたように見える。
よかった。何かに取り憑かれているのかと思った。とりあえずホッとする。
「カレン」
「えっ?」
それっきり、その子は口を閉じたまま。何かを探すようにこちらをじっと見つめる。
「それは名前?」
返事がない。
「カレンというのがあなたの名前なの?」
反応が返ってこない。しかも、とても眠そうだ。
そう思っていたら、いきなり女の子は目を閉じて、力が抜けたかのようにこちらに向かって倒れてきた。反射的に一歩踏み出してその体を受け止める。
いったい何なんだ……。
耳元で寝息が聞こえてきた。彼女の肩越しにダンと目を合わせる。彼は表情を変えることなくかすかに肩をすくめた。
向こうから城の家事がやって来るのが見え、助けを求める。
「ああ、アリッサ、ちょうどよかった。この娘を寝かせたいのだけど。……立ったまま眠っちゃった」
「あ、はい、シャーリンさま。それでは、客間のほうに……」
少し考えてから口にする。
「わたしの部屋の下にしてもらえる?」
「かしこまりました。すぐに、ご用意いたします」
両手で娘を抱きかかえて客間まで運ぶ。軽い。
子どもがひとりで何をしにこんなところまで来たのだろう。
アリッサがベッドを整えるのを待って、女の子をそっと降ろす。
気を失ったかのように、毛布の中で身動きもせず眠る娘をしばらく眺めた。
こりゃ、朝まで目覚めそうもないな。
「みんな、もういいよ。明日になればいやでも目を覚ますでしょ。それから素姓を尋ねるとしようか」
***
翌朝、目覚めると、いつものように窓枠に上がり腰かける。
ここは古城だから二階とはいえ、普通の建物なら優に三階を超える高さがあり、見晴らしがいい。
今日もいい天気……って、あの娘はいったいあそこで何をしているの?
視線の先には、前庭の木に寄り添うように立ち、両手を幹に回し顔を空に向けたカレン。
その姿にドキッとする。初めて見たにもかかわらず、彼女が何をしているのかを瞬時に悟る。きっと感知者に違いない。
優れた感知力を持つ作用者は、人に手で直接触れることで、相手を見極められるという。
わたしたち作用者の左胸にある、力の根源たる力髄のそばは、感知者にとってもう一つの手だとペトラから聞いたことがある。
しかも、普通の作用者が力を発動するのに使うこの両手よりも強い。
それを使えば、あらゆる生きものと、草木とでさえつながれるらしい。真偽のほどはわからないけれど。
それはまあいいのだが、彼女は服を着ていなかった。
つまり、手を使っているらしいのはわかるけれど、どうして?
なんで今、わたしの木と話をする必要があるの?
くるっと向きを変え窓から飛び降りると、外壁に出るための扉を開く。
これを使うところを見られると、どういうわけか誰もが危ないと怒るけれど、今は緊急事態だからかまわないよね。こっちの方が近道だし。
外壁に設置された棒に掴まりすっと滑り降りる。
前庭を走って横切り、カレンのところまで行く。
「いったいここで何をしてるの? 服はどうしたの?」
木から手を離してゆっくり振り返ったカレンはこちらを見たが無言。
「ねえ、カレンだっけ?」
目の前の女の子を指で指す。
「カ、レ、ン」
ついで自分の胸に手を当てて名乗る。
「シャーリン」
しばらくして、たどたどしい声が聞こえる。
「シャ、アー、リン?」
言いにくいのかな……。少し考えて、いつもペトラが使う呼び名に変更する。
「わたしの名前は、シャル」
「シャル?」
「そう。カレンは……ああ、カルと呼んでいい? カルは……」
「カル?」
こちらをぼんやりと見る彼女の胸の間にはペンダントが見える。
二つの白銀色のリングをひとつにつないだ変わった形状。いま身につけているのはこれだけ。下を見れば裸足だった。
彼女はこれ以外にレンダーを何もつけていないな。指にも手首にも。褐色の長い髪をまとめる留め具すらない。ペンダントだけ。
それでも感知を使っているとしたら、これがレンダーなのかな。作用者にとって力を行使するにはレンダーが不可欠だから。
一瞬、目の前の娘が作用者ではないのかもと考えたが、先ほどのあの姿と仕草、それに、父がダンに話していった内容からは、そうでもないはず。
不思議なのは、荷物も何もなく手ぶらだったこと。
「ねえ、カル、服はどうしたの?」
「ふく?」
「そう」
答えはなく、また彼女はぼんやりと空を見上げる。
こりゃ、だめだ。
カレンの手を掴み引っ張って歩く。彼女の部屋の少しだけ開いていた掃き出し窓から中に入る。
部屋を見回したが、彼女が着ていた服が見当たらない。履き物もない。どこにやったんだ?
まあ、いいか。
アリッサに新しい内服を用意してもらおう。
そうだ、ついでに湯浴みをしちゃおう。昨日はいきなり寝てしまったから。
あんなところで眠ってしまうとは、きっと長旅で疲れたに違いない。
振り返って話しかける。
「服を着る前に、湯浴みにしよう」
「ゆあみ?」
「入浴。髪と体をきれいにするの。わかった?」
反応はない。しょうがない。再び彼女の手を引き廊下に出て、本棟に向かう。
この城の作りは迷路のような複雑怪奇のへんてこりんだ。しかも、こちらの棟に浴室はない。その代わりに本棟にはだだっ広い湯処がいくつもある。
ピタピタと素足で石畳を歩む彼女を従えて、ずんずんと歩いて行く。
途中で抑えた悲鳴が耳に届いた。
横を向くとひとりの家事が口を押さえてこちらを凝視している。
そりゃ、素っ裸でホールをうろついていたら仰天するか……。
談話室から出てきたダンにばったり会う。
その彼は立ち止まるなり硬直する。ビクッとしたあと慌てたように後ろを向いた。
いやはや、えらいことになった。
そこに助け船がやってきた。
「ああ、フェリ、助かったよ。うん、ちょうどよかった。アリッサを見なかった?」
「おはようございます、シャーリンさま。アリッサなら向こうにいましたけど……って、カ、カレンさんはいったいどうされたのですか!?」
素っ頓狂な声が響き渡った。
手が引っ張られると思ったら、カレンが違うほうに行こうとしていた。
腕に力を入れて引き戻しながら説明する。
「ああ、服と履き物をなくしたらしい……」
「ご、ご自分の部屋でですか?」
あきれ顔のフェリシアに向かって肩をすくめた。
今になって考えれば、前庭のどこかに落ちているような気がする。ちゃんと探せばよかったかな。ちょっぴり後悔する。
「仕方ないから、着替えついでに湯浴みをしてもらおうかと。そうだ、内服と内履きが必要なの。わたしのでいいから……」
「あたしが取ってきます。とにかく、シャーリンさまはカレンさんを早く湯処に……」
見回せば、向こうでは、さらに人が増えて皆こちらをポカンと見ている。
これはまずい。
わたしがカレンの服を剥いで引き回している変態に思えてきた。
「わ、わかった。お願い」
***
結局、カレンはただボーッとしているだけなので、アリッサとふたりがかりで髪と体を洗うことになる。
どういうわけか、自分まで一緒に朝っぱらから湯浴みをするはめになった。ふたり並んでたっぷりの湯が張られた大きな浴槽に体を沈め、そっとため息をつく。
となりでぼんやりしたままのカレンをちらちらと見ながら考える。
早く彼女の素姓を知りたいところだが、今までの経緯からして、まともに会話が成立しそうもないな。
いつまででもお湯につかっていそうなので、浴槽から引っ張り出すことにする。
突然、もの悲しげな鳴き声が長々と響き渡った。
カレンが不思議そうな顔をして辺りを見回す。
あのう、音の出どころはあなたのおなかですけれど……。
アリッサに体を拭いてもらっているカレンを眺めながら考える。
庭での様子を思い起こす。こんなだったっけ?
昨日は、痩せ細って羽のように軽い彼女のことを子どもだと思ったが間違いだった。
自分の体を見下ろした。あらためて服を着せてもらっているカレンに視線を向ける。着痩せするたちなのかな。それとも……。
歳はわたしとそれほど変わらないような気がしてきた。
十分に食事を摂っていなくて、ガリガリに痩せ細っているだけかも。
***
カレンを食卓の前に座らせたものの、目の前に並べられた朝食を不思議そうに見ているだけ。
まさか、食べるという行為を知らないってことはないよね?
いきなり彼女の手が伸ばされ、その指がスープに突っ込まれる。
いったい何をしているの?
びっくりしたように手を振り上げた彼女の顔を見る。
こりゃ、だめだ。
急いで立ち上がるとカレンのそばに行き、上げたままの手を引き下げて指を手巾でぬぐう。それから彼女の手にスプーンを握らせて、一緒に動かしながらスープの飲み方を教える。
飲み終わるまでは孤軍奮闘した。
アリッサが食後の飲み物を持って現れる。こちらを向いて少し驚いた表情を見せた彼女は、立ち所にどういう状況かを理解したようだ。
「あとは、わたしがお手伝いしますので、シャーリンさまは食事をなさってください」
「いやあ、助かった。悪いね、えらく面倒なことになって」
「いえ、何の問題もありません」
アリッサはこの城の筆頭家事で、フェリシアの母親のお気に入り。とても有能で気が利くアリッサには、城の誰もが全幅の信頼を置いている。
「そのう……カレンさまは……何もかもお忘れになったのでしょうか」
「忘れる?」
「はい。入浴の仕方も知らないようですし、服のことも、食事も。ああ、おそらく言葉もではないかと……記憶喪失でしょうか」
「記憶を失うと、しゃべることもなく、ひとりでは何もできなくなるの?」
「さあ、わたしにはわかりません。内事さまなら……」
そうだね。こんなときに、ドニが留守だったのは非常に痛い。彼女は今夜には戻ってくるのだっけ。フェリシアの弟ウィルも母親と一緒。
まあ、彼がカレンのあられもない姿を目にすることがなくてよかったけれど。
たまに、こちらに向ける髪と同じく濃い瞳には、何とも言いがたい表情が映し出される。そう、何か懐かしいものでも見るような。
まあ、確かにものめずらしいよね。こんな田舎の変な古城に住む国子などいないからね。
わたしの身分ならば、国都の執政館の居住棟で暮らすことはできる。
ペトラをはじめ大勢に何度も誘われているけれど、わたしはこのお城がお気に入りだから、引っ越すつもりはない。
***
こちらは食べ終わり、カレンの食事がだいぶ進んだところで、フェリシアとダンが現れた。
何が行われているかをしばらく眺めていたダンは、やおらこちらに目を向けた。
「後ほど、明日からの旅の件で、おうかがいしたいことがありますので……」
そう言われて思いだした。明日は国都に向けて船で出かけなければならなかった。さて、どうしようか。
もう一度、アリッサに食べさせてもらっているカレンを見る。
いや、こりゃ無理でしょ。
「ダン、国都に行くのは中止にする」
「えっ? しかし、認定は……」
「別に今でなくてもいい」
「しかし……」
「成人してから十六になるまでに受けなければならないという決まりはない。最近は前線のほうも問題ないようだから、すぐに力軍での仕事があるわけでもない」
「それでも……」
手を振ってダンの言葉を遮り続ける。
「ほら、作用の初動の時期が遅ければ、十七になる直前に認定を受ける人もいるらしいよ。だから大丈夫。そう考えれば、もう一年あるしね。カレンをこのままにしてはおけないから」
「しかし、姫さまは国子です。国子が認定を遅らせるなど、ご当主が戻られたら、どう……」
「いつ帰るかわからないでしょ? 父のことだから。これまでだってそうだから……。いい? これはもう決定事項。権威ある者にそう連絡してもらえる? 直前に申し訳ないと、お詫びもしておいてね」
早口でまくし立てたあと、ひと息ついて宣言する。
「今から、わたしがカレンの面倒をみる」
顔を上げて口を開きかけたアリッサを目にし、慌てて言い換える。
「いや、わたしたちが面倒をみる、だね。アリッサとフェリも手伝ってほしい。わたしひとりではとても無理」
「はい、かしこまりました。それでは、朝食が終わったら、まず、お城の中のご案内から始めることにしましょう。迷われると大変ですから」
「あたしもご一緒します。なんか、楽しそうだわ」
真剣な表情を崩さないアリッサと本当にわくわくしているらしいフェリシア。
「ああ、なるほど、それはいい。ものの名前を一つひとつ教えるところから始めないとだめだよね。うん、なんかこっちも楽しくなってきた」
「おふたりとも、これが楽しい……のですか?」
「うん、アリッサ、ほら、ずっと退屈で死にそうだったから……」
「あたしは違うけどね。することがいっぱいあるから」
先ほどからダンが首を何度も振っていた。
「姫さま、あまり変なことをなさらないように、くれぐれも……」
いや、誰が見ても、変なことをするのは、わたしではなく、目の前の女性のほうでしょうに。
満足そうな顔でもぐもぐと口を動かしているカレンを見ながら肩をすくめた。
それでもここは、おとなしく同意しておく。
「わかってる。カレンは、ああ……妹みたいなもんだよね。うん、そうだ、わたしには母はいないけれど新しい家族ができた。そう考えると、がぜん、やる気が湧いてくる」
「はあ、よくわかりませんが、ほどほどにお願いします。本当に……」
最後のほうは聞き取れなかったが、彼はフェリシアを見て付け加えた。
「姫さまのご負担にならないように、しっかり手伝うように。カレンさまは人なのだからね。機械ではないことを肝に……」
「あのね、父さん、あたしだってそれくらいわかるよ。子どもじゃないんだからね。もう十八だよ」
「子どもではないのなら、少しは母さんの言うことを……」
カレンの後ろで言い合うフェリシアとダンを見て思う。
おそらく、技師であるフェリシアはカレンを研究対象と見なしている。可能なら、彼女を分解して調べたいと思っているに違いない。
かいがいしいアリッサに目を向けて、ひとつうなずく。
なんか、すごくいい。なんたって、これが家族というものだよね。
どういうわけか、自然と頬が緩むのを感じた。
◇ お読みいただきありがとうございました ◇
本編
『おかあさんと呼んでいいですか ~記憶を失った少女は無自覚の絶対力で世界を守る~』
の第1部・第1章に続きます。
◇ 引き続きこちらもご覧いただければ幸いです ◇