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異境譚  作者: おでき
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第一章 八節

 体中が熱く、火照りは不快なほど発汗を促している。佐保は思ったように呼吸できない苦しさに眉を寄せた。

「こちらはお任せを」

 佐保を寝台に運んだ李彗へ、玉蘭は一礼して告げる。未だ雨で服を濡らしたままの李彗は「頼んだ」と言うと、部屋をあとにした。

 それから佐保は寝こんだ。彼女の世話をしたのは玉蘭と、もう一人、蓉秋(ようしゅう)という名の四十近い女だった。屋敷のなかで年長の蓉秋は常に忙しく動き回っており、家事全般を行っている。屋敷内は彼女が切り盛りしていると言ってよかった。玉蘭と蓉秋は、二人がかりで佐保の着替えを済ませ、その折に見たことのない下着をはずすのに苦労し、体を拭いて寝間着を着せてやった。

 そうして最初の晩のひどい熱を乗りきり、なんとか落ち着いた。佐保はゆっくりと目を開ける。そばには玉蘭がおり、彼女の手伝いで佐保は起きあがると、深く息を吸った。鼻がつまって喉も痛く、満足に呼吸できない。

「体を起こして大丈夫ですか?」

 玉蘭の言葉に佐保は力なく頷いた。思えば彼女に「大丈夫ですか」と問われたのは何度目か。川で初めて出会ったときも、そのように声をかけられた気がする。不安げな玉蘭の視線に、佐保はいたたまれず目を伏せた。倒れる前を思い起こすと、人前で泣いて当たり散らしていたのがよみがえる。そこまで記憶を巡らせると、彼女の心は羞恥の感情とともに言いようのない悲嘆も生まれた。

「ご迷惑をおかけしてすみません。ずっと看ていてくれたんですね。ありがとうございます」

 佐保はつとめて気丈な声で、玉蘭に看病の礼を言った。

「立木さん」

 いたわしげな声で呼ばれて、戸惑う。佐保はそっと瞳を閉じて、心のなかで――大丈夫、大丈夫と唱えた。

「私は大丈夫です」

 声に出してみれば案外するりとこぼれていく。しかしにっこりと笑いたかったのに、口角は上がりきらなかった。

「大丈夫です」

 彼女はもう一度つぶやく。それは玉蘭ではなく、自らに向けたものだった。

 佐保は、倒れる前に言ったことを謝罪した。頭を下げると自然に涙腺が緩んで上を向きたくなる。それをこらえて、うつむいたまま口を開いた。

「あんなに叫んですみません。失礼をして、みっともなくて……」

 続くはずの「ごめんなさい」は言葉にならなかった。佐保は玉蘭に抱き寄せられて、嗚咽とともに言うのをやめた。


 どれくらい経ったのか、玉蘭は思案顔で「あの」と佐保に声をかけた。佐保は顔を上げて、彼女から離れた。

「李彗様にうかがいましたが、もうご存じだったのですね」

 確認をとるような玉蘭に、佐保は頷いた。そして彼女の言いたいこともわかった。なんとなく予感はしていたが、今の発言が決定的だった。

「主……とは李彗さんですね」

 佐保の言葉に玉蘭は短く「はい」と述べた。

 屋敷の主と会う約束をしていた佐保が次に会ったときに言うべきは、騒いだことへの謝罪と世話への感謝だろうか。考えこむような顔をした佐保に、玉蘭はつけ加えた。

「李彗様は言葉が辛辣にすぎるきらいがありますが、決してあなたを傷つけたいと思って告げられたのではありません。どうかご理解いただきたく……」

 どうやら彼女は、佐保が李彗によい印象を持っていないと思ったらしく、主人の人となりについて触れたようだった。

「よくも悪くも誠実なお方です」

 困ったような笑みを浮かべた玉蘭は、佐保の額にそっと手をあてた。

「熱は下がりましたね。なら、何か食べたほうがよいです。軽いものをお持ちしましょうか」

 提案する玉蘭に佐保は礼を言った。

「ありがとうございます。ところで、この服……」

 佐保は自身の着ている服を見下ろした。雨に濡れて倒れたあと高熱にうなされたのだ、汗をかいたのはわかる。しかしいつの間に着替えさせられたのかさっぱり覚えていなかった。佐保の言葉に、玉蘭は着替えをしたのと、李彗が佐保をここまで運んだのだと教えて、食事の用意のために部屋を出て行った。


 粥を食べた佐保は、玉蘭の用意した新しい寝間着に着替えた。そのとき玉蘭が佐保の下着を洗ったことと、ついでとばかりにこの世界の下着についても話したので、佐保は絶句した。それは昔の、着物を着ている女性の事情と同じであった。だから衣類の裾が長く、襦袢のようなものを着て何枚か羽織るのかと彼女は納得する。しかしこれは慣れるまで時間がかかりそうだ。案の定、佐保は寝台に座っているときも両足をぴたりと閉じたままだった。

 夕刻になると、寝たり起きたりを繰り返す佐保のもとに、とげとげしい口を利く人物が現れた。

「もう李彗様とお会いしたらしいな、お前」

 部屋の扉が勢いよく開き、声をかけられる。佐保は驚いて振り向いた。声の主は飛泉だった。幼さを残した少年の顔には険がある。しかし彼は一人ではなく、その隣に彼とそっくりな顔立ちの少年が立っていた。瓜二つだが、かたや厳しい顔つき、かたや苦笑いの二人組に佐保はたじろぐ。

 飛泉ではないほうの少年が口を開いた。「でも不可抗力じゃない」

「当たり前だ、それ以外なら許さない。素性の不明な人間を、検分せず主に突きだせると思うか」

 飛泉は不満だと言わんばかりの表情で、寝台に座る佐保へ近づいた。遅れてそのあとを追った飛泉にそっくりの少年は「お邪魔します」と言って肩をすくめている。

「ねえ、飛泉。女性の部屋に我がもの顔で入る人間も、どうかと思うけど」

 その言葉に飛泉は、むうと口をとがらせた。佐保はわけがわからず、二人のやりとりを傍観している。すると飛泉の横を通り抜けた少年は、彼女の前で一礼した。

「無礼をいたしました。お初にお目にかかります。博朴(はくぼく)と申します。どうぞそのままお呼びください」

 微笑んだ博朴は飛泉へ振り返り、また佐保に視線を戻して続ける。

「ご存じかと思いますが、あれは飛泉といいます。名に高飛車の『飛』を使うだけあってさすがというか……まったくしかたがないほど字面に似合った、双子の兄です」

 よどみない口調でからかう博朴に、飛泉は顔をしかめて腕を組んだ。

「双子……」

 つぶやいた佐保に、博朴は「残念なことに」と笑顔で頷く。佐保は二人を見比べた。外見はそっくりだが、中身はそうでもなさそうだ。気さくな様子の博朴に、初対面から攻撃的だった飛泉。佐保にしてみればよい印象を持てない飛泉だが、彼についてはほかにもあった。態度こそ変わっていないものの、口調がまったく違っている。

 双子を前にして困惑しきりの佐保に、飛泉が口を開いた。

「おい。李彗様に礼は言ったのか」

 しかしすかさず合いの手が入る。

「口の悪いところ控えたら?」

「お前は性格が悪い」

 弟へ嫌味を返した飛泉は、佐保を見て言った。

「李彗様のご恩情だ。……立木佐保、お前をここに置いてくださるそうだ」

 佐保は驚きのままどう返事すべきかわからず、ただ目の前の同じ顔をした二人を眺めていた。


 まるで嵐のようだった。部屋を去った飛泉と博朴を見送り、佐保は寝台に伏した。先ほど言われたことをゆっくりと思いだす。飛泉の言葉を、あとから博朴が丁寧に説明してくれたが、ようはここで新しい生活を始める、という宣告であった。

 部屋は落日のため全体をほの暗い色に染めあげている。佐保は、寝返りをうっては深い息をもらした。胸はざわつき、今にもはち切れそうな何かを抱えている。しかし佐保自身、その正体がよくわからなかった。あえて名をつけるなら、孤独感か。だが頭を振って、すぐさま否定した。そして、胸のうちに起こるものをやり過ごそうとする。佐保は唇を噛んだ。

 帰るという選択肢は選べないのか。本当に帰り方はないのだろうか。

 佐保は涙をこぼし、その日の夜を越した。


 朝、佐保は体の節々に走る鈍痛に眉をしかめた。肩は寒いのに足は熱く、汗でべったりと背中に張りつく寝間着が気持ち悪い。

 窓から入る日の光とともに鳥の鳴き声がした。扉を隔てた向こう側からは、人の足音も聞こえてくる。電気がないからか、ここの住人は朝が早い。そう思っていると、扉を叩く軽やかな音がした。寝台から体を起きあげて「はい」と返事をすると、玉蘭と蓉秋が現れた。

「佐保ちゃん、おはよう」

 先に声をかけたのは蓉秋だった。看病されてからというもの「佐保ちゃん」と呼ばれるようになり、いつしか玉蘭も「佐保さん」に変わっていた。

「おはようございます」

 挨拶した佐保に、玉蘭は尋ねた。

「よく眠れました?」

「わりと」

 笑みを曖昧に浮かべ、佐保は寝台から足を下ろした。

「まだ寝ていてもいいんだけど。ちょっと様子はどうだかと思ってのぞいただけだから、気にしないで」

 蓉秋の言葉に、佐保は問題ないというように首を振って、彼女らのもとに近づいた。

「じゃあ、何か食べてから体を拭いて着替えて、もうひと寝入りするといいよ」

 蓉秋と玉蘭は食事と薬、それから湯気の立った桶と新しい寝間着を持ってきた。佐保はありがたく甘え、食後の煎薬まで飲むと、寝間着を脱いで体を拭いた。寝台の近くでこそこそと行う彼女に、蓉秋は「女しかいないよ」と笑ったが、それでも佐保には抵抗があった。玉蘭は食器を下げて部屋を出て行くが、蓉秋は残った。

「それは着れるようだね」

 用意された寝間着に身を包んだ佐保に、蓉秋が声をかける。

「ちょっとしたことでも、わからなかったら聞きなさい」

 振り向いた佐保は頷き、礼を言った。すると蓉秋は、先ほどまで佐保が着ていた寝間着を彼女から取りあげた。

「まずは体がよくなったら服の着方だ。ほら、もう少し寝ていなさいな」

 蓉秋の話を聞きながら、佐保は寂しさを感じた。わからなければ聞くというのは、帰れない佐保をここに迎える準備をしてくれるためだ。

 保護を求める気持ちは、身の安全を確保したい人間の最低限の欲求で、それが満たされるのは喜ぶべきことなのだろう。だが彼女はその幸運に素直な感謝を示せなかった。行くあてのない自分を助けてくれたことはありがたいが、胸が痛かった。

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