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異境譚  作者: おでき
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第一章 七節

 川から引きあげた直後、ぽつぽつと雨が降ってきた。額と頬に小さな粒が落ちてくる。二人は来たときよりも速い足どりで屋敷を目指した。李彗の歩幅の広さに、佐保は急ぎ足で追いかける。

「速いか」

 振り返った李彗に、佐保は追いついて首を横に振った。彼女はしゃべる気も失せていた。乾燥した喉に冷たい空気を吸いこんでいると、痛みを覚える。李彗は佐保の様子を見ながらも、「行くぞ」と短く答えた。しかし彼は先ほどよりも歩調を落とし、雨脚が強くなっても佐保を急かすことはなかった。

 木々の合間を通りすぎては幾度も風が吹くのを肌で感じる。そのたびに佐保は身震いしそうになった。足もふらつき、体が重くてすぐにでも横になりたい。あまりの寒さに、佐保は暖をとるように両手をこすり合わせようとした。しかし右手を上げた瞬間、そばにあった枝か葉で手のひらを引っかいてしまった。

「あっ」

 鋭く痛む感触に眉を寄せる。見れば小指の下あたりに小さな傷ができていた。そこに目を落としていると、佐保の上から影がかぶさる。李彗だった。彼はおもむろに佐保の右手をつかみ、傷口を口に含んだ。手のひらを覆う雨の細やかな刺激に、彼のもたらすものがまじる。しばらくぼんやりとしていた佐保だったが、李彗の穏やかな息遣いと温かい唇に、ようやく我に返った。

「あの……離して」

 とっさに言い、佐保は彼の手を振りほどこうとした。それなのにまったく腕を払えない。彼女は李彗に腕をつかまれたまま、戸惑いと若干の嫌悪をあらわにした。

「離してください。あの、それに……人の血を舐めるのは不用意ですし」

 困惑げな佐保の口調に、李彗はただ一言「なぜ」と静かに問いかけた。そのあいだも手のひらが未だ彼の唇の感触を得ていることに、彼女はぞくりとする。

「なぜって……血液の病気があるから。感染の心配も」

「お前のいた場所は、医術の進歩したすばらしい世界なのだな」

 手のひらからそっと唇を離した李彗は、佐保を見て笑んだ。

 佐保は尋ねる。「普通は……だったらお前は病気か? ではないのですか」

 雨のなかで吐いた言葉は、白い息とともに雨音に溶けた。やけに自身の鼓動が速くなっているのを佐保は自覚していた。しかしこれはきっと風邪のせいなのだと、思考の鈍くなった頭の片隅で思っていた。

 佐保の質問に、李彗はじっと彼女を見下ろした。

「なるほど、確かに不用意かもしれぬな。お前のいた世界ではそうなのだろう」

 李彗は背を向けると、再び歩きだした。佐保もあとを追う。すでに視界の端には屋敷が入っていた。

「しかし、ここではここの医術しか受けられぬ。それはつまり、この世界よりも発達した医術やより多くの知見を異客が持っていたとしても、役に立つかは不明なわけだ。それどころか異客は己が世界との落差に悩まされるという。ここではここの作法しか通じぬのだから、早く慣れたほうがよかろう。この世界の医術と常識に慣れないと……佐保、お前が心身ともに苦労するのは目に見えている」

 佐保は首をかしげた。言われたことが理解できなかった。なぜなら慣れる必要がないからだ。佐保はここの住人ではなく、ここに住むつもりもない。そう結論づけた彼女は、李彗の横に並んだ。しかし彼女の考えは、次に発した李彗の言葉にざわついた。

「受容と迎合こそ、帰れぬ者の模索する道の一歩だろう」

 思わず佐保は彼を見上げた。

「異客は、帰れない」李彗は言った。

 雨音が大きくなっているというのに、彼の声は、言葉は、はっきりと耳に届いた。佐保は愕然とした。しかし口から出るのは否定の感情だった。

「嘘」

 ぽつりと言った。首を振る佐保に李彗は息を吐いて、彼女をただ見ている。

「嘘」佐保は再びつぶやく。

 李彗は屋敷のほうを視線でとらえ、答えた。それは別段、咎める口調というわけでもなかった。

「これが嘘なら何の益になる、佐保。お前の言った落し物、のようにな」

 言われた瞬間、なぜ嘘だとわかったのかという思いと、李彗もそうならおそらく伍祝も見抜いていたのだろうと彼女は目をしばたいた。しかし嘘を暴かれても焦る気持ちはなかった。

 二人は屋敷に戻り、傘を差して門扉で待っていた玉蘭と伍祝に出迎えられた。室内に入った佐保は、濡れそぼった髪や肩を拭くようにと渡された柔らかな肌触りの布を握ったまま、ぽつりと言葉をこぼした。

「異客は帰れないのですか」

 李彗も玉蘭も伍祝も、手を止めて彼女を見た。

「異客は、帰れないって本当ですか」佐保は尋ねた。

 李彗以外の誰かに否定してほしかった。しかし玉蘭も伍祝も答えようとしない。それどころか玉蘭は「体を温めるのを先に」と諭すように言うばかりだった。それを見ていた李彗はさえぎり、告げた。

「不可能だ。それこそ皇天と神仙に拝むか、天地でもひっくり返ればあるいは……だがな」

「嘘でしょう?」

 誰も否定しないことに佐保は声が震えた。喉につかえたものをしぼりだすように言う彼女の目はうろたえ、何かにすがる色をにじませる。

「ねえ、嘘でしょう? 誰か、言ってくれないんですか……」

 誰かに同意してほしい。ただそれだけが、彼女に口を開かせていた。しかし佐保の望むものは何一つ返ってこず、口を閉ざされたり目を伏せられたりする。途端、彼女は胸のうちで期待が瓦解するような音を聞いた気がした。

「嘘よ。これは夢よ。だって知らないもの。私、全然知らない。なんでこんなところにいるの? ねえ、教えて! お願いだから……どうして? どうして私なの? 帰して、帰してください、帰りたい!」

 紅潮した頬に涙をすべらせた佐保は、もはや自分でも何を言っているのかわからないほど混乱していた。


「嘘でも夢でもない。現実だ」李彗が淡々と告げた。

 佐保は唇を噛みしめてうつむく。頭が割れるような痛さにも襲われ、苦しくなった。

「李彗様、どうか……」

 動揺する佐保の様子に、玉蘭が口を開いた。しかし今の佐保には玉蘭の声も耳に入らない。そんなことよりも体の震えが止まらず、帰れない、帰れない……と、それだけが頭のなかでこだましていた。彼らの言葉を信じず、異世界だと認めるのは嫌だったのに、帰れないという言葉は佐保を失意の底に落とし、また彼女はそれをあっさりと信じた。

 佐保は、嘲りに似た笑みを浮かべた。今まで関係してきた世界のすべてから拒絶されたように思えてくる。大きな喪失のなかに放りこまれた佐保は、力なく笑うしかなかった。

(どうせ帰れないなら、風邪を治さなくてもいいじゃない)佐保は一人、胸のうちで納得する。

 このまま目を閉じて、消えたくなった。すると急激に足もとから浮遊感がわきあがってくる。とっくのとうに体は限界だった。なのに倒れなかったのは気を張っていたからだ。だがもうその必要はない。気を張る理由はなくなった。瞳が、かすむ。佐保は体のなすがまま力を抜いた。

「立木さん!」

 ぼやけた視界がぐらりと大きく揺れて転がる直前、佐保は名前を呼ばれた気がしたが、どうでもよかった。彼女は、床の上に倒れこんだ。

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