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異境譚  作者: おでき
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第一章 六節

 日の光が窓辺から燦燦(さんさん)と降り注いではいるが、いささか早い時分に、玉蘭は佐保の部屋を訪れた。彼女の手には佐保のための服があった。受けとった佐保は服を広げてみたが着方がわからない。すると玉蘭が手を貸してくれ、佐保は着せかえ人形のように身を任せた。重ね着をした最後に帯を胸下で結ばれる。玉蘭は「できましたよ」と佐保に声をかけ、満足そうに頷いていた。佐保は机の上に立てた大きな鏡を眺めた。そこには玉蘭と似た格好の自分がいて、着たことのない衣装に包まれた彼女の心は少しばかり弾んだ。

 着替えのあと、玉蘭は食事を運んだ。机に並んだのはご飯や汁物に山菜の煮つけだった。佐保は食べながら、そばに控えたままの玉蘭にいくつか質問をする。それはこの世界のことだ。異世界であるかどうかの前に、ただ興味があった。玉蘭は答えていった。まず、ここが佐保の住む世界とは異なる世界であり、四つの大国とそのほか十数の小国が存在すること。そして四大国の一つ――東青国は亢県がこの場所だということ。異客の出現は数年に両手の指で数えて足りるくらいで、異客は難民の扱いとなり、国の保護下に置かれる場合が多いということ。

 話を聞いていくうちに佐保の食事の手は止まった。尋ねた側にもかかわらず、会話を広げる気も起きなかった。

「お口にあいませんでしたか?」

 佐保の様子を見て心配そうに尋ねた玉蘭に、佐保は置いていた箸の進みを再開しながら思った。

(なるほど、私はここでは難民か)

 つまりは、どこにも行くあてのない人間なのだろう。

 佐保の食欲は急激に失せ、咀嚼にも時間がかかり飲みこむのもしんどくなった。それでも食事を残すのは申し訳なく、ゆっくりと平らげる。

「昨日お約束しました、洗濯をいたしましょうか」

 佐保が「ごちそうさまです」と口にしたあと、玉蘭は提案した。佐保は、こくりと頷いた。


 手際がよいのか、ある意味せっかちなのか、機敏に動く玉蘭を眺めながら佐保は内心お姉ちゃんみたいだ……と、ひとりごちた。玉蘭は井戸から汲んだ水をたらいに注いでいる。

 制服のブラウスとスカート、それから靴下とハンカチを胸に抱えていた佐保は、玉蘭にならって洗濯を始めた。ブレザーと下着も洗いたいが、ブレザーは生地を傷めて型崩れしそうだし、下着を人前で洗うのは女性の前でも恥ずかしく、また乾くまで着けられないのも困るため断念した。下着ならば体を拭くときに一緒に洗えるので、佐保は気を取り直して洗濯にかかった。

 井戸の近くにたらいを置き、衣服を洗濯板にこすりつける。初めての体験に、佐保の手つきはなんとも不慣れな感が漂う。玉蘭は苦笑しつつも、佐保に洗い方を教えた。そうこうするうちに、佐保はものの数分でかがんだ体勢に疲れを感じ始めた。おまけにたらいの中の両手が冷えてきている。衣服の含んだ水分をしぼれば水滴が腕に流れ、鳥肌が立った。いろいろな出来事が立て続けに起きていて気にする暇もなかったが、佐保は自身が風邪気味であったことを思いだす。その後、洗濯物を庭の物干し竿にかける頃には、彼女は不快な寒気に全身を包まれていた。


 二人は洗濯を終え、佐保に宛がわれた部屋へ戻った。玉蘭がお茶の用意をしてくれたので、佐保は湯飲みを両手で抱える。しかし飲んでいるあいだも寒さのせいで温まらない。そのまま何をするわけでもなく、一人になった佐保は部屋でぼうっとしながら、あまり働かない頭を使って考えていた。

 電気、ガス、水道の設備も見当たらないここ。洗濯の際にたらいと洗濯板を見ても、さして驚かなかった。なんとなく、ここにはないような気がしたのだ。当たり前に使っていた物の数々が。

 佐保は机の上に伏した。頬に触れる温度がひんやりとしてたまらない。目を閉じれば思考がささやいてくる。認めてしまえばいい、ここが異世界だ、と。少しでも肯定に傾けば、一瞬にしてその考えに包まれる。

 認めようか。

 その一言が彼女を楽にした。開き直りと言ったほうが適切かもしれない。しかし開き直ったのは、彼女がただ一点を除いてほかを考えたくなくなったからだ。ここがどこなのか考えるのも面倒。自分がどうやってここに来たのか考えるのも面倒。今から考えるのはただ一つだけ。帰り方だ。これを見つけないと家族に会えない。友人に会えない。学校に行けない。自分の生活に戻れない。安心できない。安堵できない。自分の世界が何一つ取り戻せない。

 佐保は机から頭を離し、立ちあがった。


「……伍祝さん」

 部屋を出て間もなく、佐保は知った顔を見つけて声をかけた。

 彼女に呼ばれた伍祝は笑顔を浮かべた。「お嬢さん、どうした」

「あの、少しだけ外に出たいのですけれど、いいですか?」

 佐保が尋ねると、伍祝は両脇の薪を抱え直して思案げな顔をする。

「聞いているだろうけど、あとで主に会ってもらうことになってるんだよ、お嬢さん。出かけるのはいいが、誰かと一緒じゃないと帰りに迷わないか?」

 大柄で人のよい顔つきだが、彼の頭の回転のよさは佐保にもわかる。おそらく勝手に出て行かないように誰かをつけておきたいのだろうと、彼女は思った。

「少し歩きたいんです。それから、ここに来る途中で自分の持ち物を落としたようなので、それも探せたらと思って」

 落し物などない。しかしこれくらい言わないと外に出られないような気がして、彼女は嘘をついた。

 伍祝は佐保を見下ろすと、笑みをこぼす。「お嬢さん。一人で散策したいだろうけど、我慢してくれな。だから、薪を置いたら俺も一緒に行っていいかな?」

 有無を言わせぬ伍祝の態度に、佐保は思わず頷いてしまった。だが急に伍祝は片眉を上げて「あ」と口を開く。佐保は彼の視線の先を追い、振り返った。すると今朝会った青年、李彗がいた。

「伍祝、代わろうか」李彗は言った。

「薪ですかい」そう冗談めかして言いつつも、伍祝は佐保を見て「……だ、そうだ、お嬢さん」と続けた。

 頷いた佐保が、李彗と栄古に朝方会ったことを伍祝に話してみると、彼はにやりと笑って言った。

「旦那を使ってお嬢さんをおどかすとは、なんとも意地の悪い」

 伍祝の言った「旦那」とは誰なのか、佐保が首をかしげると伍祝は「虎の旦那」と教えてくれた。

「栄古さん」

 佐保がつぶやいて納得していると、李彗が言う。

「行かないのか?」

「行きます」

 とっさに答えた佐保は、歩きだした李彗を追いつつ、一度だけ振り返って伍祝に頭を下げた。

「いってらっしゃい」

 その声に見送られて、彼女は李彗と散策に出た。


 佐保が外に出たがったのは、ひとえに帰るためである。帰り方を探るにも見当がつかないが、一つだけ思いあたったのが目の覚めた場所に行ってみるという方法だった。佐保は屋敷から出られたことに、とりあえずほっと息を吐いたが、自身の隣に並ぶ存在に気が緩むわけもなかった。

「で、どこへ向かう?」李彗が尋ねる。

 佐保はちらりと横を向いた。しかし頭一つ分以上は高い彼の表情からは何も読みとれず、彼女はおもむろに口を開く。

「川へ、行きたいのですが……」

 李彗は頷いた。どうやら了承してくれたようで、佐保は彼に小さく頭を下げた。しかしながら並んで歩くだけなのに、佐保はそわそわして奇妙な心地を抱く。

 互いに何も話さずにいると、水の流れる音が耳に届いた。佐保は気が急いているのを表すように少しばかり歩みに力を入れる。李彗はただ黙って、彼女についていった。ほどなくして木々の隙間から川がのぞいた。

「崩れるな」

 つぶやかれたその声に、佐保は李彗へ振り向く。

 彼は答えた。「天候だ。雨が降る」

 佐保は空を見た。曇り空だ。言われてみれば確かに雨の降るまえ特有のにおいがしないでもない。

 屋敷に戻ったほうがいいのだろうか。佐保は思案したが、視線は川の上流を追ってその先を眺めていた。彼女としては来た道をたどりたい。川の下流に向かって歩いてきたのだから、上流に進まなくては目の覚めた場所に戻れない。しかし李彗もいるし、天気も気がかりだ。

 悩む佐保に、李彗は提案した。「少ししたら戻ったほうがよい」

 佐保は彼の言葉を聞きながら、川の上流をゆっくりと視界からはずした。どうやら今日は、目の覚めた場所に行ってみるのは無理なようだ。後日に改めるしかないと佐保は肩を落とし、彼へと頷いた。

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