第一章 五節
眠ったのがずいぶん早かったからか、夜明けに佐保は目を覚ました。白む風景のなか、窓から見える庭木が輪郭をあらわにしている。寝台から立ちあがった佐保は昨日教えてもらった厠へ行き、井戸にも寄った。井戸の蓋を開け、紐で吊るされた桶で水を汲む。そばの洗い場で手と顔を洗って口をゆすぎ、顔を拭くため浴衣の帯もとに忍ばせたハンカチを取りだした。
スカートのポケットに入っていたそれは母親からプレゼントされた、姉とそろいのものだ。眺めれば感傷的な気持ちになる。佐保はすぐにハンカチをしまい、この場をあとにしようとした。しかし声が聞こえ、立ち止まる。
「立木、佐保」
低く響きのよい声だった。振り向くと、青年が立っていた。茶色の目と肩に流れる同色の髪があまりに綺麗で、佐保はじっと見つめてしまう。
「違ったか?」
その言葉で、彼女はとっさに首を振った。
「玉蘭はなんと呼んでいた?」
佐保は口を開く。「名字です。立木、と」
「では、名が佐保か」
はい、と返事をする。
「ならば、佐保と呼ぼうか」
そうつぶやいた青年は、佐保に一歩近づいた。
「佐保。こんな時間にいったいどうしたのだ?」
やはり勝手に部屋を出てはまずかったかと、佐保は自身の行動に溜め息をつきたくなった。だが、あとから何を思ってもしかたない。青年はじっとこちらを見ている。彼女は答えようとしたがうまく言葉がつげず、黙っていた。
「偵察か?」
そう言って笑う青年は、しかし佐保を咎めているふうでもない。
「家人の寝静まる時間帯はいろいろと物色しやすかろう」
泥棒か何かを指すような言い方に、佐保はむっとした。
「私を牢屋に入れるのですか?」
昨日の少年――飛泉も言っていたと思い起こしながら、佐保は皮肉とも自嘲ともつかない声音で尋ねてみる。しかし青年は「その必要はない」と首を横に振った。そしてさらに一歩、佐保へ近づいた。
「ここには虎がいるからな。邪魔になればそいつに差しだすこともできよう」
「……虎?」
佐保のつぶやきに青年は頷いた。彼女は途端に思いだした。低木の茂みにいたあの生き物を。しかしきっと冗談だろう。猛獣の話で人をおどかそうとしているだけに違いない。ここの住人は突飛なことばかり言う。佐保は首をかしげて困ったように笑みを浮かべた。
青年はその様子に、ふいと後ろを向いて言う。「出てきてはどうだ? お前も気になるのだろう?」
合図のように背後で砂利を踏みしめ、草木のこすれる音がする。そこから現れたのは虎だった。もう二度と至近距離で相見えることはないと思っていたのに……と佐保は、短い悲鳴をもらしてあとずさる。
顔面蒼白の佐保をよそに、青年は虎へと語りかけた。
「……なあ栄古。お前もたまには人肉がよかろう?」
栄古。それが虎の名か。どこかで聞いたと佐保は思った。が、それよりも危険な状況のせいで足が震えて倒れそうだ。
虎へと話題を振っていた青年は、いつの間にか佐保の隣に立っていた。
「同じ餌では飽きがくる」
笑みをこぼしているのがわかるような青年の声がしたが、佐保は大きな赤褐色と黒い縞模様の姿に注意をやっていて青年の顔を見れない。猛獣はこちらに向かって緩やかに歩みを進めていた。佐保の体はまるで動かない。しかし次の瞬間、彼女は唖然とした。
「そのあたりにしておかんか、悪趣味め。おびえておるではないか……かわいそうに。安心するがよい、そなたは食わんぞ」虎はちろりと青年を見た。「……食ってかかりたい奴はここにおるのだがな」
佐保は驚愕し、つぶやく。「虎が、しゃべった……」
青年と、栄古と呼ばれた虎は、微動だにしない佐保の様子を気にするふうもなく互いに言葉を交わしていた。それを聞いて、佐保はまた呆然とする。虎が言葉を解し、あまつさえ会話を成立させている。
佐保の目の前に迫った虎は、彼女に口を利いた。
「我を覚えておるか? 昨日、川の近くで会った」
話を振られて驚くも、佐保は頭を切り替える。「会った」という表現が適切かさておき、彼女は頷いた。
「あのとき声をかけてもよかったが、これ以上おびえさせるのも哀れに思うてな、玉蘭を呼びに行ったというわけだ」
どうやら、今ここにいる虎と茂みで遭遇した虎は同じであったようだ。野生の、獰猛な生き物が襲いかからなかったのは、こういうことかと合点がいく。しかし虎がしゃべるのはおかしい。着ぐるみだろうかと佐保は虎をじっと見つめた。
その様子に、青年が虎の頭に手を伸ばし撫でる。「不可思議だろう? 虎がしゃべるとは」
「本当に虎ですか……」
疑わしげな視線のなかに好奇心をにじませた佐保の声音を聞いて、青年は柔らかに笑った。
「栄古という名の本物の虎だ。佐保」
青年は撫でていた手を止めて、彼女の片手をつかんだ。
「撫でてみるといい」
佐保は恐る恐る栄古に触れた。思ったより柔らかい毛に指先がなじむ。幾度も撫でていると、佐保の表情はいつの間にか綻んでいた。
「気に入ったか?」
栄古に尋ねられ、彼女は手を引っこめる。
「ごめんなさい、つい」
謝ると、栄古は頭を寄せて佐保の腕に触れた。その姿は猫がじゃれつくようだ。しかし猫にしては大きく凶暴な体躯をしている。そう思うとおかしくて、佐保は笑みをこぼした。
「……かわいい」
つぶやいた彼女の言葉に栄古はぴくっと体を震わせ、青年は短く笑った。栄古はすかさず青年をひとにらみし、佐保を見上げて言う。
「嬢よ、体が冷えてしまう。部屋に戻りなさい」
途端、佐保は寒さの感覚を取り戻し、肩を縮こめた。栄古の言葉に頷いた彼女は頭を下げ、立ち去ろうとする。だがふと疑問がわいて、佐保は青年のほうへ向いた。
「あの、お名前……教えていただけませんか」
青年は茶色の瞳を細めた。「李彗」
「李彗さん……」
昨日から経験しているとおり、頭のなかに漢字が浮かんでくる。佐保は再び頭を下げて「部屋に戻ります」と言った。
奇妙なことだらけだ。通学途中に気を失い、起きたら知らない場所にいた。出会った人物は服装がおかしく、聞いたことのない言葉が頭に浮かび、おまけにここは異世界で、自分が「異客」なる者だという。それから人と会話できる虎がいたのも驚いた。
部屋に戻った佐保は自らに起きた変化を思い起こしながら、机の上に置いていた腕時計を持って見つめた。秒針が止まった時計。これを確認したのは川を目の当たりにしてからだ。あの大きな川を思いだしてみる。あれだけの大きさだ、冷静になって考えれば地図に載るほど有名なはずである。大河であるのを踏まえ、さらに出会った人たちの服装からして中国だろうかと佐保は考えを巡らせた。そうすると長江、黄河が思い浮かぶ。しかしそのとおりであったとしても、ほかに説明のつかないことが多々あった。
佐保はゆっくりと椅子に座り、目を伏せた。そして大きく息を吐いて眉根を寄せる。これは事実なのかと疑いつつも、思考は一点を狙い定めるように佐保を刺激する。その一点は認めたくない現実だった。彼女は溜め息とともに腕時計を握りしめてうなる。ここは異世界なのだろうか……そんな考えが頭をもたげてきた。






