第一章 四節
日の傾きかけた頃、佐保はまた違う部屋に移動した。廊下を歩きながら井戸や厠の場所を説明され、別の平屋の一室に入る。飛泉なる少年の言葉のおかげで牢屋に放りこまれるかと佐保は不安だったが、杞憂に終わった。玉蘭に案内された一室は寝台に机、椅子のある一般的な部屋だった。どうやら牢屋行きの待遇は受けずに済みそうだと佐保は安堵し、玉蘭に勧められるまま椅子に腰かけた。
「立木さん。先ほどの、飛泉の言葉はお気になさらず。少しばかり気が立っていたのです。ここに見知らぬ人間を上げたのが珍しくて」玉蘭は言った。「とにかく今日はもうお休みになって、明日ゆっくりと話の続きをしましょう。着替えと湯桶を持って参りますね」
うまく言いくるめられたようで、佐保は納得しがたい気持ちを抱いた。ここが異世界なのか、それとも誘拐されて知らない場所にいるのか、判断がつかないままなのである。玉蘭の提案は問題が先延ばしにされただけに思えた。しかし体を休めたいのは事実だ。
「いいんですか? あの、食事もいただいたうえにお部屋も使わせてもらって……」
「かまいません。私の一存でお招きしましたから、たいしたもてなしはできませんが」
佐保は頭を下げた。「ありがとうございます。お言葉に甘えて、休ませてもらいます」
首を一度だけ振った玉蘭はそのまま部屋を出て行き、帰ってくるときには大きな桶と、折りたたんだ布を数枚持ちこんでいた。桶からは湯気が立っている。手際よく準備する玉蘭を、佐保は近くで眺めた。どうやら風呂ではなく、桶の湯で体を拭くようだ。できればシャワーを浴びたいが泊めてもらえるだけありがたく、これ以上の要求は無作法だし、ここにシャワーがあるとも思えなかった。
そんなことを考えていると、玉蘭は一枚の布を湯桶に浸した。
「桶の布をお使いくださいませ。それから着ていらっしゃるものを洗いますので、お着替えも。着方はわかりますか?」
玉蘭が、机の上に置いていた服を佐保に渡した。佐保は目の前で広げてみる。袂の部分はなかったが、まるで浴衣のようだ。机の上を見れば帯らしき長い布もあった。
佐保は曖昧に頷いた。「私の知っている着方で合っているのなら……」
「ではのちほど参りますね」玉蘭は部屋を出て行った。
見送った佐保は、腕時計をはずしながら桶に視線を移した。桶に入れた布は温かな湯に触れて広がっている。彼女は制服を脱ぎ、しぼった布で体を拭いた。渡された服に着替えたが、体を拭いただけでは芯まで温まらず、寒さで肩が震える。
自身の姿を見下ろした佐保は、それにしても不恰好だと苦笑した。浴衣姿に足もとがローファーである。続いて湯桶の隣に置いた制服を眺めた。臙脂色のネクタイに白いブラウス、紺地のブレザーとスカート。
ここは知らない場所なのだ。自らの所在を証明するすべのない今、目の前の着なれた制服は佐保の心に重いあとを残した。
椅子に座っていると、軽く扉を叩く音が聞こえた。佐保が「はい」と返事をすると、玉蘭が入ってきた。
「似合っていらっしゃいますね」
玉蘭の弾んだ声音で、着方は合っていたようだとわかった。立ちあがった佐保に、玉蘭は近寄る。
「私、失念しておりました。これをお履きください」
そう言って彼女は履物を差しだす。足の甲を半分は覆う、飾り気のないぺたりとした靴底のものだった。履いてみれば裾からつま先がのぞくだけだ。靴を履いた佐保の隣で桶や布の整理を始めた玉蘭は、佐保の制服に目をやり言った。
「失礼を承知でお尋ねしますが、立木さんの世界では足を見せる衣類は普通なのですか?」
その言葉に、佐保はまた「世界」かと気持ちが沈んだ。しかし顔には出さずに説明する。
「普通です。私のいたところでは」
玉蘭は佐保を異世界から来た者……異客であると信じて疑わないようである。だから佐保は、あえて「私のいたところ」と答えた。
「そうですか」玉蘭はさして表情を変えずに言った。
「あの……玉蘭さん」
玉蘭は片づけの手を止めて佐保を見る。
「私の服ですが、その、このまま私が持っておきます。洗ってくださるとおっしゃってくれましたが、明日着る分に困るので……」
佐保がそう言うと、思案げな顔で玉蘭は口を開いた。
「明日、主に会っていただきます。その際、立木さんのお召し物ではいささかの懸念がありますので、こちらでご用意いたします。私どもの世界では衣類の裾は長いものなのです。どうぞご理解いただきたく……」
頭を下げる玉蘭に佐保は慌てた。伍祝も主の判断を仰ぐと言っていたが、明日、その主に会うことになるのだろう。
佐保は頷いた。「じゃあ、明日の服をお願いします。私の服は自分で洗いますから、洗濯する場所と洗濯に必要なものをお貸しいただけないでしょうか?」
湯桶や布をまとめて持った玉蘭は、佐保を見て穏やかに言った。「では、それも明日いたしましょう。とにかく今日はお休みくださいませ」
机に制服だけを置いて、玉蘭は出て行った。佐保は部屋の隅にある寝台に向かう。靴を脱ぎ落とし、そろえることもしないまま、布団をめくって潜りこんだ。とにかく疲れている体のせいで、横になるとすぐに眠気に誘われた。
(お母さんとお姉ちゃんが、せっかく早く帰ってくるって言っていたのに)
温かい布団にくるまった彼女はふとそう思い、眠りのふちに沈んでいった。