第七章 七節
雲間から日の傾きが見える。押し寄せる紅霞の空は、気味の悪いほど風が凪いでいる。夕闇が迫っていた。
敵兵を始末し進んだところで最奥が見えた。李彗は連れてきた兵のほとんどを外に残し、ひときわ豪奢な扉を開ける。室内の兵士を切り捨て、ともに入った驃騎兵を隅に配すと、部屋の奥に潜む人影へ近寄った。
寝台で目をつぶる痩せこけた老体の横に、きらびやかな衣に身を包んだふくよかな若い男が座っている。久しぶりに見る二人の姿だが、自身の父と弟だと間違いようもなかった。
李彗が、立ちあがって壁に背をはりつける弟へ剣を向ける。この部屋にはもう弟を守る兵はいない。李彗が一歩また一歩と距離を縮めるたび、権力をものにしたはずの男は小さな悲鳴を震える唇からもらしていた。威容を誇る姿はどこにもない。ただのおびえる、太りきった男がいるだけだ。
「民の本懐だ。心せよ」
死んでいった者たちを含めた多くの犠牲により、自身と弟は成り立っていた――それが胸によぎり、李彗の剣を握る手が力む。長らく放りだした責を民につぐなうため、なめらかに体は前へ動いた。だが最後の一歩はどこか重いような気がした。
重心が変わる。感触が変わる。体がこわばる。彼の前に差しだされたすべてが変容をきたす。
李彗は弟の胸に剣を突き刺した。
たった一瞬のことがずいぶん長く感じられる。李彗の先には、目を見開いて苦悶と驚きに満ちた表情があるだけ。
切っ先は、贅沢に刺繍のほどこされた厚い服を貫いて皮と肉を通り越し、深い手ごたえを得る。美しい金糸が濃厚に赤色をはらみ、染められていく。やがて床にくず折れた男は、うめき声をだした。太い腹のうちからしぼるように幾度か繰り返される。怨嗟も吐いていたが、もはや命は消え入る寸前だった。
李彗は剣を引き抜き、床に捨て置いた。そして今まさに息絶えた弟の懐から印を取りだす。四角いそれは龍が絡みあった姿の玉璽で、天下を統べる証だった。
手にしていると、近くから細い声があがる。寝台で、しわが寄り頬のこけた彼の父が身じろぎをした。室内に漂う臭気に不釣合いなほど寝台の主は穏やかに目を開き、しばしののち言葉をつむぐ。
「……久しい顔ぞ」
李彗は膝をつき、頭を垂れた。「御前を汚した無礼、深謝申しあげます。馳せ参じるのが遅くなりました」
「よい」男が尋ねた。「事の次第は」
「玉璽を我が手中に」
「そうか。大儀であった」
李彗の説明や部屋の状況をつかまずとも、男は何もかも理解しているのが多分に見てとれた。
「呼び戻すのにいささか遅くなったのは否めぬ。よくも閉じこめおってからに。ずいぶんとのさばらせていたのだろう」
「民には長かったことでしょう」
「おかげで夢を見ていた」男は突然、不思議な話をしだした。「存外心地よいものでな、叶えたかった願望よ」
「いかな夢でありましょう」李彗は静かに尋ねた。
「お前が戻り、世を立て直し、栄華を極める……この身の代わりに」
要点をかいつまんだ話しぶりに、李彗は目を細めた。
「苑海あたりが枕もとで耳打ちしたのでは」
男も笑みを浮かべる。「まあ待て、ほかにもあるのだ」
臣の姿勢を崩さぬ李彗に、男は近くに座るよう言いつけた。李彗が椅子に腰かけたところで、再び話が戻る。
「女が現れた。その者はお前の隣におった。神仙のたぐいかと思えば、異客だと天がお教えくださる。なるほどと夢を堪能しておったら栄古までもお前のそばに寄っていたのだ。そして天に告げられ、確信を得た。我が前に必ずや戻る、と」
「それが夢でありますれば、叶えるための現実はまこと心地のよい世界となりましょう」李彗は言う。
辺りは徐々に暗がりが広がっていた。今からやるべきことは多い。明かりを絶やさずにして一両日中に片づけなければいけないこともある。
李彗に対し、男は頷き……口調を変えた。
「指揮をとれ。ふさわしくあらずと言う輩がおれば、助力しようぞ」
李彗は立ちあがる。部屋に栄古だけを残すよう言われ、一礼した彼は兵とともに外へ出た。
「のう、ずいぶん豪華な牢と思わんか」
人払いを済ませた部屋で、男が笑った。
「悪趣味ではあるな」
栄古はそう答え、床に転がる死体をよけて男に寄る。
「あるときから姿を見せなんだと思うていたが、利遂についておったか。我が子は二人ぞ」
寝台から最も近い死体は男の血を分けた存在だ。苦笑に見え隠れするその心痛を栄古は汲みとる気もなく、男の話したいままに任せた。男は、ぼんやりと笑みを浮かべて続ける。
「あれが生まれたときに現じたのはそのためか。あれの治世にこそ、見いだしたと。答えてくれぬか、栄古……いや、白澤よ」
白澤――それは天の領域に住まう伝説上の生き物と伝えられていた。白澤は優れた施政者の前に顕現し、よき治世を約束するという。男は栄古をそう呼んだ。
「答えとしては不十分だ」
栄古の言葉に、男は「ほう」と声をあげる。
「その先、と言っておこうか。だが李彗とて才腕を振るう。のちに生まれるあれの子には敵わぬが」
「なるほど、利遂のみならず異客の娘をかまったらしいのはそのためか」
「さよう。面倒を見たのは、異客ゆえに本質がこちらの者でないのもあった」
男は目をつぶり、考える。自らの即位に瑞兆はなかった。しかし亡き后の生んだ子の一人には早くからそれが現れた。虎の姿をした稀なる存在だ。白澤と呼ばれるそれは人語をあやつり、栄古と名乗った。その後も栄古は放逐された李彗から離れることはせず、ここに至るまで守護を司っている。
権力の争いであるにもかかわらず、李彗は生き残った。不自然なほど無事に。
運ではない。まさしくこれは、決まった道だった。何よりの証拠は栄古が異客の女を助け、李彗と引き合わせたことだ。李彗の子を産む女がこちらの人ではないからこそ干渉され、大きな力が働いた。天の配剤はそれだけに終わらない。先ほどの言葉は、次代においても白澤の守護を約束させる、絶対の予言である。
男は安堵した。余命からして心より満足を得る瞬間には立ち会えないが、希望を抱いて死ねる幸福があった。
「白澤よ。お前は、いくら先までこの国を目にうつしておる」
男の問いに、栄古は答えた。
「美しい渓流が消えるそのときまで」
男は何も言わず、ただ満足げに笑った。
翌、薄がすむ山の端に日の光がかかり、きらめく輪郭が現れる。夜のなごりは曙に消えて、無窮の天に歓声が起こった。荒野の果てまで響くようなざわめきに風が吹き抜け、地平に広がる杏黄の旗がいたるところで揺れる。ひときわ大きな軍旗がひるがえり、兵を率いた男が現れると、土や血にまみれた人々はひれ伏した。新たな時代の幕開けだった。