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異境譚  作者: おでき
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第七章 六節

 あまり日も経たず、佐保は出立の知らせを受けた。李彗らを見送ったのち、彼女は働き口へおもむくことになる。

 李彗は佐保を市井の知己にあずけるとしていたが、もう一つの案を佐保へ示し、彼女はそれを選んだ。

 曹達の私邸の侍女になること――それが李彗の伝えた案だった。

 ことによっては李彗に助勢した曹達は誅殺の対象だ。もしもの場合はどうなるのか。だが佐保は話を聞いて決心した。選択肢を用意してくれた意味を考えれば、迷う余地はなかった。

 彼と同じように生きていきたい。どこか一片だけでよいからつながっていたい。

 佐保はそう思った。そしてそれは間違いではないと、確信した。

 出立の日、人払いをした李彗は、部屋に残る佐保へ近づいて言ったのだ。

「約束をいたそう。必ず待て」

 佐保は目を見開き、やがて力強く頷く。「はい」

 武運や無事を祈る言葉は言えなかった。

 部屋を出て行く彼を佐保は見送った。しかし、しばらくして追いかけるように外へ出る。彼女は物陰で立ち止まり、ひっそりと両手の指を組んで下を向いた。消沈ではなく、辛苦の先の未来に焦がれる面持ちだった。

 彼女の足もとより向こうの庭には大勢の人間が立っている。呼びかけが聞こえ、それに応える多くの声。戦意への高揚は叫ぶうちに、よりいっそうの熱を生んでいく。この瞬間から始まる道行きは、多くの者が指折り数えていたはずだ。雲間からのぞく日の光は勇ましさのもとに降り立ち、天下を統べる約束が鼓舞を呼ぶ。まぎれもなくその中心にいるのは皇嗣様と呼ばれる男だった。


 目指すは国の都、青郡の張県。徐郡に属する兵は李彗が束ね、軍旗の色は杏黄とした。杏黄は天子の定めた後継を指す。それを使えぬ身である李彗が使用することはまぎれもなく実弟――天位への侮辱である。しかしいっぽうでは今上を否定する姿として映り、士気を高めるにはこれ以上ない印でもあった。

 攻略にあたり、徐郡と隣接する他郡の境目に抑えを配置した。敵陣に向かう徐郡亢県の兵は二千。征途にて徴集した兵や民を加えると一万を超えた。軍勢がいよいよ青郡へ入る頃には、さらに数が膨れあがっていた。

 そこから数日の膠着を招いたのち、投降兵や青郡の民も含んだ大軍が張県の境を突破する。しかし、同数かそれ以上を誇る敵相手では戦局も有利には至らず疲弊していく。被害は甚大で、死傷者も日に日に増えていた。

都尉(とい)、ここへ」

 李彗は、男を役職の名で呼んだ。徐郡の軍事を長年にわたり司る、年を重ねた寡黙な男だった。

「盾の撃破が急務だな」

 李彗が言えば、男は「はい」と口を開いた。

 敵軍は、重装備の兵士たちの間隔をつめて強固な盾を作っていた。機動性はないが頑丈な壁のようなもので、早急につぶす必要がある。

 都尉と話をつけると、李彗はさっそく自軍の俊敏な驃騎兵を迂回させ、歩兵とのはさみ撃ちで敵の一部を中央から分断し足止めを図った。すると相手は兵力の逐次投入に踏みだした。張県の民、そして刑罰の軽減を餌にして罪人に武器を持たせたのである。しかし罪人の多くは、度を越えた搾取のおかげで納めるべきを満たせず罰を受けた者たちだ。そのため武器を持ったまま逃げるのも生まれ、策は早計に失した。

 日ごと徐郡に向けられる、天子に仇なし不忠を働いたという罵りは小さくなっていく。だが何にしても、徐郡が攻め入られ落城となる前に決着をつけねばならない。たとえ政を恨んでいても民は李彗側につく義務はなく、兵糧が減れば勝ち目なしと逃げだす者も増える。そのため農作物の収穫期を考慮し、進軍先で兵糧の補充を行う算段をしていた。だが現状そううまくもいかず、昨晩のこと、張県は農作物のある一帯をいくつか燃やしたのだ。食料の備蓄が残された時間であるのは明白。しかしこの首の絞まる行為を好機と化すため李彗は猛攻をかけた。

 戦車と多くの歩兵が敵の隊列に突撃し、道を切り開く。城門を破城槌(はじょうつい)で突破し、飛び盛る弓のなか大挙して前進する。やがて皇宮に迫り、壁面にはしごをかけて押し入った。内側からの開門に成功すると、血走った目と互いに退路のない緊張感で両軍は入り乱れた。弓が舞い、槍が踊り、刃が突きだされ、武具もろとも肉体がそれらを吸収して、ひしゃげる。皮膚が裂けて血が飛び散り、怒号がこだまして獣と違わぬ咆哮があがった。

 しかして相手を劣勢へ追いやる頃には数箇所で燃えていた火も徐々に消え、皇宮の外周は無残な姿が積み重なっていた。折れた弓が体のいたるところに食いこみ、あらぬ方向に四肢が曲がっている死体ばかりだ。山と積まれたそれらの向こうには、負傷していたり力尽きたりして立ちあがるのも困難な面々がそこらじゅうに倒れている。余力のある者は敵兵を捕縛し、一箇所に追いやっていた。

 李彗は馬をあやつり駆ける。都尉を呼んだ。

「あとを任せる」

 肝心な場所は未だ押さえていない。制止を求めてきた都尉にこの場をあずけると、李彗は驃騎兵を回収して密やかな敷地に足を踏み入れた。

 李彗はいらだちに顔をゆがませる。傷口が動作のたびに鋭い痛みを訴えている。へばりついた血の上からは汗がにじみ、頭はしびれを起こしていた。だが不思議と焦りはなかった。

 進むごとに待ち受ける数が少なくなり、容易に中へ進んでいく。罠かと懸念するがここまでくれば前を行くしか道はなく、建物を越え、楼閣のある門を開けた。そこでようやく人の悲鳴が聞こえた。回廊で区切られた美しく整う庭園を横目に進むと、敷石をつめた大きな広場にあたる。その奥には幾人が並んでも足りぬほど幅のある階段がそびえている。見渡しのよい場所に踏みこみ緊張が走るも、とらえた光景に李彗らは目を見張った。広場に転がるのは息絶えた者たちばかりであった。駆けていた駿馬の足が、手綱を引かれて次々に止まる。

「どうしたことか」

 思わずこぼした李彗の言葉に、随従していた兵の一人が馬上から声をかける。

「この先は寝殿でありましょう」

 李彗は頷き、向こうの階段を見据えた。隣にいる兵士の言うとおり、階段を上って通じるのは人を寄せつけぬ至高なる場所。しかしこれはどうだ……と李彗は冷や汗をたらす。表は兵があふれ返っていた。奥へ向かうごとに減ってはいたが、この状況はおかしい。守るべきにつながる道が、信じがたい現実を横たわらせている。

「我らのうちより斥候を」

 驃騎兵の提案を退け、李彗は馬を促した。

「かまうな、行くぞ」

 辺りに散らばる死体は、傷口が深く鋭い。どれも一撃で命を奪われたように見てとれた。このような殺傷が誰に可能なのか、そしてなぜこうした事態になっているのか、困惑を通り越して皆一様に不気味さを味わっている。けれど李彗には予感があった。不審さを前にして警戒という意識も腹のうちからせり上がってきたが、予知めいた感覚のほうを選択すべきだという声が聞こえてくるのだ。それが天啓なのか幻聴なのか、それとも鈍った頭が考えだした愚かしい判断なのかは、もはや見当がつかなかった。

 李彗らは階段を上り、先を進んだ。すると先ほどのありさまが嘘のように兵がまばらに現れる。切りかかってくるのをものともせず、建物の絢爛な扉を開けて部屋を一つ一つ確認すれば、美しい女人の逃げ惑う姿と金切り声が多く聞こえた。

 道を開けるために刃が交わり、足止めに一人また一人と味方が減っていく。けたたましい声で凶害ありと叫ぶ者を突き刺して進む。調度品がそこかしこに設置され、壁面すら装飾に彩られた辺りはずいぶんと豪華だった。しかし美しさよりも贅をこらした造りは、今や惨憺たるものに成り果てている。悲鳴と臭気が蔓延していた。

 李彗は角を曲がった。すると影が躍り出た。大きな赤褐色が視界に飛びこんでくる。

「栄古……」李彗は口を開いた。

 さして驚いた様子もなく下馬した彼を前に、栄古はおもしろみのない口調で言った。

「道中、楽であったろう?」

 丸みのある双眸が尋ねてくる。あふれる獰猛さは野性的でありながら、一種の超越を宿していた。

「やはりお前か。なぜここに」李彗は一瞬沈黙し、話を変える。「愚問か。まあよい、手を貸せ」

「つきあえと」

 李彗が虎を見る。「兵力をそいでおいて何を言う」

「使ったのは足だ」

 栄古の言葉を聞いて、李彗は苦笑した。

「なら、ご足労願いたい」

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