第七章 五節
李彗は、椅子に座る佐保へ背を向けると、差しこむ月光を仰ぎ見るため窓へ近寄った。そして、語った。
「少し、話をしてもよいか。兄弟の話だ、年の近い二人の。兄は凡庸で弟は才を得た。これが普通の生まれならいざ知らず、その差は問題を起こした。兄弟の父が君主であったからだ。
年を重ねるごとに弟は華を好み、贅を味わう悦楽に身を浸すようになった。父である君主はその頃より不調のため御身ままならぬ状態。腑抜けの兄は弟を咎めもせず……そこで事態は一変した。一部の官吏が処分された。弟の恨みを買ったのだ。彼らは弟の実情を君主に上奏するため動いていた。しかし実を結ぶことなく不名誉をかぶり誅殺された。
いっぽう、先を制せた立場の兄は、その官吏らを扇動し謀反を企てたという大罪で地に落ちた。あわせて君主が病で床に伏せると、あとの道筋はじつにわかりやすく……皇宮の奥で静養されるという名目であったが、ありていに言えば幽閉だ。父は追いやられたのだ。そして弟は、奸臣も交えたなかで弱る君主を嘆き、代わって執政の座についてまもなく、兄を山奥へと命じた。憐憫をもって命を奪わぬ処断を下したのだ。その姿がなんと情け深く、また立派であろうか。まさに、君臨ふさわしき器。これでめでたく、新たな世が訪れた。はたから見れば民を思い、憂い、君主の位をあずかる美しい話になっていた。幻のように失せるまでは。
……義をもって座を治め、正しきを常にかえりみるならば、世はまこと安らかとなったであろう。しかしそうはならなかった。いつしか美しい話は消え悪声だけがつきまとうようになれば、策にたやすくはまった愚かな兄すら民草には一縷の希望に変わる。国の血肉となり、民の益となる、その名のとおりの働きに」
「いったい……」何のことかと続く言葉は佐保の口のなかで消えてしまう。
窓辺から振り向いた彼は静かに言った。「利を遂げよ――すなわち利遂と」
佐保は目を見開いた。
「私の本当の名だ」
佐保は驚いていた。言葉少なに話す男がいつになく多弁となって明かした内容が、現実として飲みこめなかった。
「李彗とは号だ。以前、話したのを覚えているか」
佐保は頷いた。栄古も交えて号と字の話をずいぶん前にしていたのを思い起こした。
「失脚した折、自ら改めた。屋敷は、私がはるか高みにいた頃、何をするでもなく悠々としていた無能の結果だ。屋敷での暮らしは、まれに苑海が訪れる以外は静かと言えた。だが屈辱でもあったな。お前が現れたのは、汚名にまみれ余生をぶざまに過ごすも一興かという矢先のこと。次には苑海と曹達か。転がるように動きだした」
他人事といったふうに笑う李彗に、佐保は何も言えなかった。
「この先どうなるかわからぬ。お前の面倒はなるべく見てやりたいが、そうもいかぬだろう」
李彗からは悲観的な雰囲気が感じとれた。まるで初めて吐かれた本音に聞こえたのは、好いた相手だからだろうか。そうあってほしいと同時に、違っていてほしいと彼女は矛盾した気持ちを抱いた。
「そんなふうにおっしゃらないでください」佐保の声音はしぼむ。
「愚行を重ねるのを止めもしないのは、与するのと同じこと。道を正せる立場であったのに、私はそれをしなかった。ようやくその機会を多くの者たちのおかげで手にできる」
李彗は佐保の目の前に立った。座っていた彼女は力なく彼を見上げた。
「いま聞いたことは忘れなさい。何も知らぬほうがよかったのにこうして聞かせたのは私のわがままだ。口を閉ざし生きていく苦労をかけさせるが、耐えてほしい」
李彗が佐保の頬に手を伸ばす。理由もなく――少なくとも彼女がそう感じた接触は初めてだった。うっすらと傷のついた箇所を撫でられると、心の奥底が柔らかく波打ったような感触を覚える。
「格好のつかぬ男で悪かったな」
李彗のこぼした言葉に、佐保は首を振って否定した。
彼がこれから何をなすのかわかった。奔流へ抗う生き方は義務ゆえか、それとも多くの希望ゆえか。おそらくどちらも背負っている彼に対して、佐保は、それだけが彼のすべてではないと思った。なぜなら……と彼女は心のうちでつぶやく。うぬぼれていると言われたってかまわない。今まさに自分の前にいるのは、ただの男だったからだ。
頬から得る近しい体温が苦しくて、佐保はうつむいた。それでも離れることのない手に、胸がつまりそうになる。じわりと染みこむような熱は、佐保のなかへすべり落ちていき、降り積もった。それを機に、彼女の内面は心地よい崩壊を迎えた。
「忘れません」佐保は意を決する。「何もかも忘れたくありません」
言い聞かせるような口調は、自らの不安を指しているのかもしれないと彼女は思った。だが立木佐保であっても玉葉であっても、ふたつの過程で生まれた記憶はとても大切なもので忘れたくないし、そこに加わった目の前の男の独白にも同じ理由を持つことができた。
沈黙する李彗の手を、彼女は自身の頬からはずした。
「お願いがあります」
「申してみよ」
「おそばに置いてください」
李彗は驚きを示したがそれを消して、表情をやわらげる。
「何かと思えば」
「ともにありたいのです。誰かにお仕えし、あるいは普通の生活をとおっしゃるなら従います。ですが、私は……」
佐保はそこでつまった。
一緒にいたいのは庇護されたいからではない。守ってもらいたいからではない。どこであっても、彼と、彼らがいる場所ならそれでよい。今度こそ自分で立つと決めたのだ。ならば自分の立つ場所は自分で決めなければ意味がない。佐保の心はもう揺らぐことのない気持ちであふれていた。
彼女は懇願する。「どうかお願いです、どんな勤めでもかまいません。私にお与えください」
その場かぎりの戯れ言ではないと伝えたかった。それは李彗にも届いた。
緊迫した気配が満ち満ちて、探り合うように互いをうかがう。
そうして、相対する様子に珍しく困惑をにじませたのは李彗のほうだった。口を閉じ、眉根を寄せている。
「……敗すれば、今度こそ私は逆賊だ。無力となればお前一人でもかばいきれぬ。たかだか一人の人間であってもだ」
佐保は何も言わず、じっと続きを待った。室内は静かで、互いの呼吸どころか心音すら聞こえてきそうだった。
ふいに衣擦れの音がする。佐保は確かな眼差しを彼に向け、彼の言葉を聞いた。
「そのたかだか一人であるお前を、私は自らより遠ざけておきたい。わかるか?」李彗は言う。「私の、特別にすぎるからだ」
以前より長くなった男の茶色い髪が迫る。佐保はその色と同じ彼の目がひどく美しいものに思えた。なぜそうなのか。どうしてそう思ったのか。答えは明瞭だった。しかし佐保は何も言えない。いや言いたいことはあるのだと口を開こうとする。けれど、今このときにおいて一度で告げられる簡単なものなどなかった。もし表せるとしても浮かぶ言葉は未熟でかわいらしく、ありきたりなものしか持ち合わせていない。これから彼が迎えるであろう局面においては、滑稽なほど軽々しくなるような気がした。
佐保が羞恥に目を伏せる。李彗は彼女の腕をつかみ、椅子から立ちあがらせた。膝にのせた佐保の荷物は落ち、重みを失った椅子がきしんだ音を鳴らす。佐保は顔を上に向けようとした。そのとたん目の前が暗くなった。
抱きしめられた佐保は、彼の胸に耳をあてた。温かな鼓動に、不思議と涙が出そうになる。これが止まってしまったらどうしようと嫌な想像をしてしまう。悪寒めいたものに震えた彼女はしかし緩やかに息を吐いて、小さく、そして心をこめてつぶやいた。
この瞬間が最後であってはならぬのだという意思をのせて。
「……李彗様」
男の名を呼ぶ。それから続く彼女のささやきは、吐息に溶けるようにして彼の耳へ届いた。彼だけが聞いていた。
宵の空には月明かりがある。わずかな光源だった。
二人は分かちがたく結びついた。