第七章 四節
夕食を終え屋敷内を歩いていた佐保は、庭でひとり立つ李彗を見つけた。李彗に返すべきものがあった佐保は部屋へ取りに戻り、再び彼の前に現れ頭を下げた。
「少しだけ、お許し願えますか……?」
李彗が頷くのを見て、佐保は尋ねる。
「蓮勺で役人の方にお金を渡しておられたでしょうか?」
「そうだ。受けとったのか?」
受け渡しの経緯や途中すべて失ったことを思いだした佐保は迷うように「はい」と答えた。そして、再会後すぐに言えなかった非礼と感謝をし、先ほど部屋から持ってきたものを差しだした。短剣だ。これが、どれほど心強かったか。だからこそ、もとの持ち主に返すべきと考えた。
「ありがとうございました。お金はいつか必ずお返しいたします」
佐保の深謝を受けた李彗はしかし、彼女の手もとを見つめただけで受けとらない。
「それらはお前にやったもの。いらぬ気を回すこともない。持っていては不都合か?」
「いいえ。ただ、私がいただくべきではないと……」
佐保は小さく頭を振り、困惑を示した。そこへ、淡々とした調子で李彗が言葉をかぶせる。
「お前は変わった。よい変化も起こしたようだが、私にはそうでない変化しか見せてくれぬ。知らぬ者のようだ」
佐保は相手の身分ゆえ言い返すか迷ったが、口調を改める必要は求められていないように感じ、かしこまった態度を潜めた。
「……それは私も同じです」
李彗が笑う。「そうだな。きなさい、私もお前に用があったのだ」
「お前が置いていった手荷物を返していなかった」
彼の部屋に招かれた佐保は、勧められるまま椅子に座り、戻ってきた小さな荷物を膝の上にのせた。
「して、これからのことだが……まずは黄冊に登録したほうがよかろう。働くつもりはあるのだな」
李彗の確かめるような口ぶりに、佐保は返事をした。
「はい」
「では、市井暮らしの知己にあずけることで話をつける。仔細は飛泉に任せよう。お前のことをよく気にかけている」
「ありがとうございます」佐保は頭を下げた。
これで用件は消え、この部屋にいる理由もなくなった。けれど佐保は立ちあがろうとせず、口を開いた。どうしてもききたいことがあった。
「道中、異客が記憶をなくすという話を聞きました。ご存じでしょうか?」
唐突な話にもかかわらず、李彗はさして間をおかず答えた。
「確かに聞いたことがある……事実と断言できず、また迷信と片づけられぬほどには。私はお前以外に異客と接したことがなかったゆえ、確証も何もない。伝えなかったのはそのせいだ」
「そう、ですか」
あっけないほど簡単に得られた話を鵜呑みにしてもよいのか。知っていてわざと黙っていたのではと考えてしまう佐保にとっては、すぐには納得できないことだった。
西山の言葉も半信半疑だが、そこへ李彗の発言が加わったとて、どこまでが真実か確かめようもない。佐保は抱えこんでいた荷物を握りしめた。考えれば考えるほど無性に悔しくて悲しくなる。そのとき、ふと目の前に影が差した。李彗が正面に立っていた。
「不確かというのもあるが、ほかにも理由はあった。勝手な言い分だが、私はお前に伝えたくなかった。苦労を知らぬような手に髪、気丈に振舞う姿が哀れに見えたからかもしれない。そうかと思えば生まれ育った場所へ帰れぬことに泣き叫び、いっそう不憫を誘った。お前の穏やかな物腰を見ていれば、そこに必要以上の現実味を持たせることに少なからず抵抗があった」
誰が何を言おうと、異客の記憶に関し、解決はしない。しかし真偽が定かではないものを問うよりも、今このときだけでも知りえる他者の本心のほうが佐保の気持ちを少しばかり上向きにさせてくれた。
「私を、無知で無力なお嬢さんだと思っていらしたのでしょうか?」佐保は無理に微笑みを浮かべる。
李彗にしても苑海にしてもその傾向が強かったのだと、彼女は今になり理解できた。苑海の場合は皮肉だったが、李彗は知らず佐保をそのように見ていたのかもしれない。
「そうだったのだろう」
李彗の返事に、佐保は目を伏せた。
「……玉葉」李彗が呼ぶ。
佐保はのろのろと顔を上げた。
「本当は、玉葉と呼ぶつもりもなかった」
その言葉に佐保は何事かと彼を見る。
「お前は、自身をよそ者だと言ったが、私はそう思わない。お前がこれから玉葉として生きていくのなら、なじみやすさもあろうと、あのとき口にしてみたが……」李彗はふと口もとを緩めた。「どうも、呼ぶ私のほうがなじまぬ」
「私は……」
佐保は口を開いた。何かを告げなくてはいけない思いに駆られた。しかしそれ以上の言葉が出てこない。彼女は、李彗の穏やかな笑みを呆然と眺めていた。
「泣きやみなさい」
初めて自身が泣いていることに佐保は気がついた。
柔らかな月夜が部屋に忍びこんでいる。なんともいえない薄暗さは、胸のうちをさらけだしても一夜でわだかまりなく消し去ってくれそうに思えた。佐保は不可思議な気持ちを抱きながら唇を湿して静かに訴えた。
「教えてください」
涙はとうに乾き、目には決意が浮かぶ。彼女の知らぬことは多く、また知りたいことも多かった。無礼と咎められようが、生まれた気勢は引きようもないところまで押し寄せてきている。
黙す李彗に、佐保はもう一度「教えてください」と言い、背筋を伸ばして彼を見た。李彗は、彼女の姿をじっととらえていた。
佐保は問う。「あなたは、どなたですか」
あまりにも端的で、しかしすべての意を求めるものだった。李彗の口は未だ閉じている。その沈黙は、答えを用意していないためではなく、まるで相手の心中を見極めている時間のようであった。
「私が知っているのは、屋敷での暮らしぶりだけです。そこにあったのは、ただの一人ひとりが寄り合って生活を営む姿でした」
佐保は思い起こす。皆がそれぞれ一日を過ごすために単調ともいえる、けれど日常に不可欠な仕事をこなし、慎ましやかで温かな生活を描いていた。大きな変化のない日々は刺激的ではなかったが、自然に溶けこんでいたあそこには平穏な匂いしかなかったのだ――屋敷を出るまでは。
佐保は考えをまとめるようにゆっくりと続けた。
「あの屋敷は何だったのですか? たまたまこしらえた場所ではないはずです。きっと目的があって……それは、皇嗣様と呼ばれる方のために必要だった。違いますか?」
李彗の顔はどのような感情にも彩られていなかった。結ばれた口にも動かぬ眉にも、どこにも驚きはなかったし、けれど冷ややかというわけでもなかった。
佐保は久しぶりにつむぐ名前を胸のなかでたぐりよせ、細まる喉から押しあげる。
「李彗様なのでしょう?」
湖面に投じた小石がたいした影響をおよぼさないように、佐保の言葉もそれと似た響きを持った。しかし確かに投げかけたのだ……と彼女は、李彗のわずかに変化した表情でつかんだ。