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異境譚  作者: おでき
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第七章 三節

 玉蘭に連れられ、佐保は一室へ案内された。食事や不足している事柄があれば用意すると言われたが首を振って断る。奥にある寝台へ吸い寄せられるように座りこんだ佐保は、玉蘭が声をかけるより早く静かに告げた。

「すみません。少し休んでもかまいませんか」

 玉蘭は何も言わず、頷くと出て行った。

 一人になった佐保は後ろに倒れ、右腕で両の目を覆う。我慢する必要もない涙は、耳のあたりを濡らして落ちた。玉葉と呼ばれただけで泣くとは情けない。何のために名をもらったのか。李彗がそう呼んだのも理解はできる。けれど受け入れられるかは別の話だった。

 横になっていると、考えることが押し寄せて余計につらくなる。数日で疲れをとったら今後のことを検討し、宿泊の恩を何らかの形で返さねばならない。手のひらで強く目もとをぬぐった佐保は、考え事を追いだして眠った。


 目が覚めると、夜も更けいっていた。佐保は再び眠るために目を閉じる。

 次に起きたのは早朝だった。寝台から降り、近くにあった桶の水で身だしなみを整えた彼女は室外へ出てみた。しかし人の気配がない。佐保は勝手に出歩くのをやめ、部屋に戻った。すると、しばらくして飛泉が顔を出した。

「辛気臭い顔だな」

 朝の挨拶もなく始まった一言に、佐保は言い返す気力もない。彼は朝食を持ってきており、寝台にそれをのせた。

「食べながらでいい。いくつか質問に答えろ」飛泉は言うなり、壁に寄りかかる。

「はい」佐保は頷いた。「ごはん、ありがとうございます。いただきます」

 彼の問いは、佐保が逃げだしてからどういう経路をたどり、どのようにここまでやってこれたか等々であった。

 佐保が食べ終わる頃にはおおかた質問は終わり、飛泉は黙りこんだままつっ立っている。まだ退出する気はなさそうだ。佐保は彼に話をふった。

「飛泉さん。私、玉葉という名前をもらったんです。これから過ごしていくために必要な、こちらの世界での名前です」

 飛泉は寝台に座る佐保へ目を向けた。「どなたがつけられた?」

 佐保は質問に口では答えず、苦々しい笑みを作る。言わずともわかったのか、飛泉が鼻で笑った。そのしぐさが憎らしくて佐保は彼をにらんだが、たいして効果はないようだ。彼女は、しかたなく話を続けた。

「玉葉と呼ばれることは平気になったつもりだったんです。でも昨日、呼ばれるとそれは違ったというか」

「李彗様か?」

「はい」

 佐保が肯定すると、再び飛泉は黙りこくる。ややして、横から「佐保」という声が聞こえた。彼女が驚きに目を見開くと、飛泉が無愛想な声音になる。

「佐保と呼んでいいと言っていただろう」

 いったいいつの話だと思えば、彼が「立木佐保」と呼んでくるので名前だけでかまわないと告げたときのことだった。この場面で引っ張ってくるのかと、佐保は嫌味たらしく返す。

「ずいぶん前にですけど」

 佐保の言い方を気にもとめず、飛泉はつぶやいた。

「だが玉葉という名は見合わない」

「似合わないじゃなくて見合わない、ですか」

 佐保は膝に食事の椀を乗せていたのを思いだし、盆へ戻した。

「徐郡太守の奥方の名から頂戴したのだろう? 名前だけ立派だとつらいな」

 彼女の座っている場所からは、飛泉の頬が意地悪げに持ちあがっているのがよく見える。癪に障る笑みだ。しかし言い返すまえに、気になった言葉があった。佐保は尋ねた。

「太守? 曹達さんの奥さんでしょう?」

「お前は敬称というものを知らんのか」

 あきれたような口ぶりに、佐保は「曹達様」と言いかえた。

 飛泉は大仰に頷く。「そうだ、その曹達様が徐郡太守だ」

 佐保は驚いた。だが同時に納得もする。李彗のまわりが、ただの人であるわけがない。

「太守って、郡の長でしたっけ」

 確認をする佐保に、飛泉は肯定する。それを見た彼女は続けた。

「知らなかった。もしかして、ほかの人も? 苑海様も?」

「学者らしいが、昔から皇宮を出入りされていたとも聞いた」飛泉が答える。

「まさか飛泉さんもとか……」

 佐保のげんなりした声に、彼は渋い顔をつくった。

「おい、なんだその言い方は」

 佐保が答えずにいると、あきらめたように飛泉は説明をした。

「母が女官だった。李彗様にはおそれ多くも小さな頃より博朴ともども目をかけていただいていた。どうだ、すごいだろう」

「にぎやかしみたいなもの?」

「……お前、本人を前にして失礼きわまりない奴だな」

 ごまかすような笑みを浮かべた佐保に、飛泉は腕を組んで溜め息をもらす。

「おどおどしていたくせに、図太くなって。まったく腹の立つ奴だ」

「いっぱい人に迷惑をかけてきたから、少しでも成長していないと申し訳が立たないんです」

 自然と穏やかな表情になれた佐保は、今までの出来事を思い起こしていた。それからふと飛泉を見る。再会してすぐに憎まれ口をたたく彼には救われたものだ。

「飛泉さん、ありがとう」

 突然の礼に怪訝な顔をした飛泉は、そのあとそっぽを向いた。


 食器を下げるため佐保は飛泉に教えてもらった厨房へ向かった。そこには玉蘭がいた。手伝いを申し出た佐保は、作業のかたわら先ほど飛泉に問われて答えた内容を彼女にも話した。玉蘭は静かに耳を傾けて笑み、佐保を叱ることはなかった。

 手伝いを済ませた佐保は、敷地を見て回ろうと厨房をあとにした。周囲を見ながら歩いていると、向こうのほうから音が聞こえてくる。奥へと続く通路を進み、佐保は曲がり角の壁に手をあてて先をのぞいた。大きな庭が広がるそこには李彗と伍祝の二人が向き合っており、木刀を振りあげては相手の懐に挑まんとしていた。

「嬢」

 背後から急に聞こえた声に驚き、佐保は振り向く。

「栄古さん」

 呼ばれた栄古は佐保の隣に寄った。

「無事に着いたようで安心した。飛泉が迎えに行ったが、滞りなく済んだか?」

「それが、風進さんと水丹さんがいないときに話がついてしまって。小琴にあとを任せてお別れしてしまったんです」

 だんだんと声が小さくなる佐保に、栄古は尾を一振りした。

「嬢が気に病むことでもなし。どうせ飛泉がさっさと事を終わらせようと動き回った結果だ」

「はあ」と生返事をした佐保だが、栄古が庭を見やったのにつられてそちらへ注意を向けた。

 いつの間にか、佐保と栄古のいた反対側から数名の男が現れている。男たちは皆、李彗の前に平伏した。

 ただならぬ緊張が伝わるなか、そのうちの一人が李彗に告げる。

 ――杏黄(きょうこう)の御旗、調いましてございます、と。

 李彗が何かを言う瞬間、佐保は頭を完全に引っこめた。これ以上ののぞき見も、また、盗み聞くつもりもなかった。

 静かに後ろへ下がった彼女は、見透かすような目をした栄古からも背を向けて来た道を戻った。


 少しずつ玉蘭や蓉秋の手伝いを始めた佐保は、李彗が剣を振るうのを見かけるようになった。

 ここで彼女に与えられた仕事は、屋敷を出入りする見知らぬ男たちの食事を作ることだ。年齢や人相はそれぞれだが、皆一様にどこか近寄りがたい険のようなものがある。李彗の行動を含め何やら事情もあるだろうが、詮索せず佐保は自分にできることをおこなった。

 けれど家事に励めば励むほど李彗との接点は消えていく。そのかわり、飛泉はよく佐保の前へ現れていた。

 今も彼は厨房の片づけをする佐保の横で茶を飲んでいる。しかし、まったく緩まない表情では一服しているように見えない。

「……なんだか頑固そうなおじいさんみたいですね」

 佐保の言葉に、飛泉は淡々と返した。

「ご老人を希望なら、お連れするぞ」

 頭のなかに苑海の笑顔が浮かび、佐保は慌てて首を振った。

「いいえ、私は飛泉さんの無愛想がいいです」

 言い返すかと思いきや、飛泉は手にしていた湯飲みを眺めていた。常なら悪口めいたことには辛辣きわまりない口調で返してくるのだが、今回は違ったようだ。おやと感じた佐保に、少しして飛泉は口を開いた。

「このあいだから考えていたことがある。お前の名前、玉葉についてだ。そこから巡らすに、少しばかりの予感があってだな……当たるかはわからないが何にせよとんでもないことだ。もしお前がその一端に飛びこむのを恐れると、機会は再び訪れないだろう」

 抽象的な指摘を送る飛泉に佐保は首をかしげた。

「苑海様がつけてくださった名前に何かあるんですか?」

 飛泉はちらと佐保を見て、考えこむように目を閉じた。

「あの方が、徐郡太守の奥方からという理由だけでお前を同じ名にしたとは思えん。食わせ者だぞ。どうも胡散臭い」

 あまりの言いように佐保は笑ったが、対して彼のほうは真面目であった。飛泉は続ける。

「おそらく見越している気がする。その見越した事情が未来に起こりえるなら、当たるかわからないと言ったこっちの予感も大当たりだ」

「どういう意味でしょう?」

 要領を得ない佐保に、ひとり満足げに頷いた飛泉は立ちあがる。

「今のお前に敬称をつけるのは不服だ。お前なんか佐保で十分だ、阿呆」

 彼はさらに意味深な言葉を残して出て行った。

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