第七章 二節
苑海と別れたあと、敷地のなかの奥まった部屋に入った。そこで、飛泉が口を開いた。
「言い返すとは思わなかった」
彼の言葉を受けて、佐保も一息つく。
「私もあれで引いてくれるとは思わなかった」
「痛ましい姿だと思ったが、勇ましくて何よりだ」
「ありがとうございます」
頭を下げた佐保に飛泉は「ほめていない」と返した。
ややして外から足音が聞こえてきた。飛泉が扉を開けると女が慌しげに入ってくる。玉蘭だった。
佐保は頭を下げた。「お久しぶりです。このたびはお騒がせして申し訳ありませんでした」
先ほどよりもすらすらと謝罪の言葉が出てきたが、玉蘭はというと、厳しい表情を浮かべていた。
「心配しておりました。戻ったら説教の一つや二つをしようと考えていましたが、まずは無事で何よりです」
かたい声音のあと溜め息を吐いた玉蘭は、気持ちを切りかえるようにこまごまと動きだす。新しい衣服、それに湯や桶などが運ばれると、いつの間にか飛泉は消え、女ふたりだけになった。
部屋の衝立の向こうで佐保は服を脱ぐ。彼女が湯で体を清めるあいだ、玉蘭は屋敷を出てからの経緯を話してくれた。佐保が最後の到着になったこと、昨晩に栄古が現れて佐保に会ってからの説明を担ったこと、そのため飛泉が迎えにきたことなどだ。
用意された服を着た佐保が衝立から姿を現すと、玉蘭が近づいてきた。佐保はそばにあった椅子へと座らせられる。背後に立った玉蘭は佐保の髪に触れ、黙々と整え始めた。居心地が悪くなった佐保は口を開いた。
「お説教は……?」
自ら窮地を招くような言い方だが、どんなことでも会話を続けたかった。
玉蘭は手を止めずに答える。「叱らずともよいところまで叱らないために、佐保さんの言い分をお聞きしてからです」
佐保が逃げだした経緯はみな知っているはずだ。玉蘭もきっとそうに違いない。しかし勝手な行動を起こした佐保に非があるにもかかわらず、話を聞いてくれるという。佐保は目を伏せた。どうして屋敷にいた頃からもっと打ち解けなかったのか。きっと耳を傾けてくれただろう。
情けない自身を隠すように佐保はさらにうつむいた。すると玉蘭が優しく髪をといてくれる。ぎこちない空気を消そうとしているような手つきは、佐保に温かい気持ちを抱かせた。
久しぶりに髪を結われ、綺麗な服を着て、手鏡を渡される。佐保は深く息を吐いた。身奇麗になり気が引きしまる。いよいよだと彼女は思った。ゆっくりと目を閉じてこれから何をすべきか考える。
目の前に出された茶を飲んでもう一度深く呼吸をすると、蓉秋もやってきた。佐保は立ちあがり挨拶と謝罪を繰り返す。それが済むと、玉蘭は静かに告げた。
「お連れいたします」
廊下を歩くと、またほかの庭が見えた。屋敷に入ってすぐのものとは違うおもむきがあった。佐保がそれをぼんやり眺めながら玉蘭について行くと、奥の扉の前で立つ伍祝と博朴に気がつく。帯刀し、身なりを整えた彼らは武人のようだった。二人は佐保に向かって丁寧に頭を下げる。口の利けない雰囲気に戸惑うも、彼女は開いた扉の先へ一人で入った。背後で扉が閉まり、室内に目を向ける。
窓際に立つ人の姿は逆光で輪郭の陰影を作っており、佐保はまぶしげに目を細めた。衣擦れの音がし、男の茶色の髪が日の光を受ける。ようやくという気持ちと同時に、佐保はおそれを抱いた。
「久しく見えるな」
先に口を開いたのは李彗だった。
佐保は声を出すことができず、代わりにお辞儀をする。
「頬に傷まで作って。栄古が言っていた。野を駆け山を駆け、それは男勝りになったと」
少しばかりの苦笑を浮かべる彼に、それは誇張にすぎやしないかと思ったが、佐保は未だ何も言えずにいた。
「こちらにきて、顔を見せなさい」
穏やかな声音につられて佐保は部屋の真ん中まで歩いた。そうして今しか言いだす機会がないとばかりに、緊張をもって口を開く。
「ご無沙汰しております。あの……今まで働いてきた無礼の数々、どうかお許しください。また、軽はずみな行動で皆さんにご迷惑をおかけしたこと、謝罪のしようがありません。いただいたご厚意を無下にしてしまい、申し訳ございませんでした」
佐保が深く頭を下げると、しばらくして李彗が問うた。
「なぜ、あのようなことをした?」
佐保は答える。「ひとえに私の考え足らずと、逃げだすことが稚拙な行動だと理解していなかったからです」
「これからどうするつもりだ」
彼の言葉に佐保の心臓は跳ねあがったが、心のうちで用意していた文言を口にする。
「厚かましいお願いだと重々承知しておりますが……もし目をかけてくださる余地があるならば、私が自らの力で暮らしていくために必要な処置を今ひとたび手ほどきしてもらうことはかなうでしょうか」
李彗は黙った。佐保にはその沈黙が恐ろしかった。虫のいい話だ、じつに身勝手きわまりないことを要求しているのだから。逃げだして戻ってきたかと思えば援助を願いでている。おまけに相手の身分を知ったうえで恩情に訴えているのだ。足もとが震えた佐保はぎゅっと目をつぶったが、意を決して李彗に向き直った。
彼は佐保を見ていた。
「ならば、語る必要がある。消え去った原因はなんだ? そこまで駆り立てた理由があるはずだろう」
追求された佐保は口ごもった。しかし納得のいく説明をする必要がある。
「駄々をこねていた自分に向き合う機会がきて……」佐保は一度句切ると、続けた。「不安や不満を解消する努力を忘れて、人にかまわれ守られて、ずっと与えられる存在であり続けるために誰かに引っついていたかったのです。けれどそれはもとより無理な話で、あのときちょうどそこに綻びが生まれて……私は、自身を直視できずに逃げだしました」
単純な話だ。溜まった不満や緊張感をつつかれて自暴自棄を迎えただけだった。佐保は、恥ずべき行動と思慮の浅さを披露するのがとても情けないことだと話しながら感じた。しかしその情けなさすら受け止められないほど幼いままでもなかった。
佐保の話に李彗は考えこみ、やがて彼女に問いかける。
「そう考えるに至るには時間がいる。降り積もったからこそ行き着く悩みとすると、お前にとって屋敷での生活はつらいものだったろうか」
「いいえ!」佐保はすぐに否定した。「それは決してありません。よそ者の異客にもよくしていただいて感謝しております。助けてくれたのが、皆さんで本当によかった」
安心するような笑みを浮かべた彼女だが、李彗はいい顔をしなかった。
「よそ者か。ただの一度として、そのような目で見たことはなかった」
佐保は言葉につまって何も言えなくなる。やはり優しい人に世話になっていたのだ。その優しさが異客という姿をうつして成立する情けであったとしても、佐保には心が震える言葉だった。目頭が熱くなり涙がこぼれる。彼女はうつむいた。すると、顔の下に見なれたものが差しだされた。逃げだす前まで持っていたハンカチだった。
「お前に返そう」
李彗は、ハンカチを佐保の手にそっとのせた。
佐保は、目を伏せたまま答えた。「持っていてくださって、ありがとうございました」
離れていく手の名残惜しさに佐保が戻ってきたハンカチを握りしめれば、上から声が落ちる。
「お前の願いを聞き入れよう。私がしてやれる程度となるが」
無事に援助の話は取りつけられそうだ。しかし、本音は別にあった。自分も皆と一緒にいられないかと尋ねたい。だが逃げだした手前、言いだせない。自身のあり方を変えたいと決意しても、これ以上あきれられることを口にはできなかった。
「しばらくはここで暮らすとよい」
李彗の提案を聞いて、彼女は迷いがちに顔を上げる。
「疲れたであろう。話はまたのちほどしよう。部屋に案内させるから休みなさい、玉葉」
佐保は目を見開いた。彼がもう、目の前にいる自分を「玉葉」としている事実に動揺する。佐保は心臓が止まってしまいそうな錯覚に襲われた。
「ありがとうございます」
かろうじてつむいだ言葉だったが、声は震えていた。薄ら寒い場所に落ちた気分だった。