第一章 三節
佐保は、彼女自身が思っていたよりもひどい空腹にあった。匙を手に取ってから、気がつけば最後まで食べきっていた。佐保が黙々と食事をしているあいだ、女も男も何も言わなかった。空になった椀を前に、ようやく彼女は脇目も振らず人前で食べていたことを恥じてうつむいた。
「すみません……」
小声で謝った彼女に、女は首を振って優しい笑みを浮かべてみせた。
「昨日から何も口にされていなかったのでしょう? さ、遠慮せずにこちらもどうぞ」
女が勧めた果物をおずおずと口にした佐保は、ようやく自身の腹が満たされていき、過敏になっていた感情も少しだけ治まったような気がした。
「……まずはお名前をうかがってもよろしいですか」
食器を脇によけ、尋ねてきた女に佐保は名乗った。
「立木佐保です」
「たちき、さほ、さん?」
はい、と返事をする。
「どうお呼びしたらよいですか」
「え? あの、立木でかまいません」
どこか変なきき方だ。佐保は、女の質問を不思議に思いながら答えた。
「では立木さん。可能な範囲で、あなたのお聞きしたいことにお答えします」女は言った。
佐保は頷き、考えをまとめてから口を開いた。
「……まず、ここはどこですか」
彼女は何よりも自分がどこにいるのか尋ねたかった。しかし返ってきた答えは聞いたことのないものだった。
「亢県です」
「こうけん?」
眉をしかめた瞬間、彼女の頭に「亢県」という漢字がわいた。なぜ知りもしない地名が浮かんだのか気味悪くなったが、それよりも話を進める。
「それはどちらですか? 私は**県に住んでいます。ここからどのくらい距離があるか、ご存じですか」
女は首を振った。さらに佐保はいくつか質問していく。が、後ろに立っていた男が急に口をはさんだ。
「ええい、らちが明かんぞ、玉蘭。かわいそうだが、さっさと教えるのがいいんじゃないか?」男は頭をかいて、うなっている。
「でも……伍祝」ためらいがちに、女は男を見た。
佐保は二人の態度に困惑した。玉蘭と呼ばれた女と伍祝と呼ばれた男。これも、どのような字を使うか尋ねていないのに漢字がまた頭に浮かんだ。
「この子、異客だろう? 身なりと名前、それに言葉は通じても亢県……地名をわかっていないじゃないか」伍祝がつぶやいた。彼は机の近くまでやってきてさらに言う。「お嬢さん、ええとだな、玉蘭から事情をちょいと聞いたが、起きたらここに……知らない場所にいた、というのは本当かい?」
「はい」
頷いた佐保は自宅の住所や近隣地域、都市名をいくつか挙げてみた。そして昨日からの出来事を説明した。川辺で玉蘭に説明したときよりもずいぶんと冷静に話すことができた。話し終えた彼女は、黙って耳を傾けていた男女を見つめる。彼女の目の前にいた二人は互いに顔を見合わせており、やがて伍祝のほうが口を開いた。
「本当に、ここがどこだかわからない? 亢県、いや、東青国は知っているかい?」
すぐさま首を振った佐保に、伍祝はゆっくりと息を吐いて続けた。
「そうか。お嬢さん、酷なことを言うようで悪いが、おそらく俺が今から言うのは事実だし現実だ」
慎重な様子の伍祝に、佐保はじっと彼を見ながら一言も聞きもらすまいとした。しかし待っていた答えは、夢のような嘘のような、にわかには信じがたい事実だった。
「お嬢さんがいたのはこことは違う、まったく別の世界だ。君はここに、いや、この世界に迷いこんだようだな……君のいた世界から」
佐保は思わず眉を下げて口の端を緩めた。目の前の男は何を言っているのか。こちらは途方に暮れているというのに、たちが悪い。冗談も嘘も、言ってよいときと悪いときがある。
「ええ、と。あの、意味が……」
面食らった佐保だが、彼が続けようとしたので口を閉じた。
「君は異客だ。わかるかい?」
言われた瞬間に漢字を理解した。異客――確かに頭のなかにはそう出たのだ。先ほどから気味悪いほどに、知らない言葉の漢字が浮かんでくる。しかし意味は不明だった。
「異客?」
伍祝の言った言葉を口にしてみる。語尾を上げた彼女に、彼は肯定した。
「異なるところから来るから……異客、だ。昔は旅人やら何やらもひっくるめて言われていたが、今じゃもっぱら異世界から来る者を指している言葉だな」
「異客……異世界」
事態についていけない。伍祝の言っていることが本当なのかというのと、もしかして夢を見ているだけではという考えが渦巻いて、何が正しいのか混乱する。佐保は伍祝を見た。彼はいたって真面目な顔をしていた。
(おかしい。……おかしい)佐保は、膝の上に置いてある両手に目を落とす。
交わす言葉が見つからず、三人とも無言になった。しかし、誰も口を利かなくなりどれほど経ったのか、佐保はようやく顔を上げた。
(ああ、まだ確認していないじゃない)
そう思った彼女は、伍祝と玉蘭を見つめて言った。
「あの、地図はお持ちですか」
「地図?」玉蘭が言葉を返す。
伍祝は合点がいったのか「持ってくる」と言って部屋を出た。それから両手に地図数枚を抱えて戻ってくる。
「確認してくれ。ただ、この地図を信用するならという話だが。まあ、地図まで偽装するのは人さらいにしては手がこんでいると思うぞ、お嬢さん」
地図を机に広げながら伍祝は穏やかに笑った。
「すみません」佐保は一言謝った。
それが地図の用意への礼なのか、伍祝らの発言を疑っていることへの謝罪なのか、彼女自身もよくわからず口にしていた。佐保は伍祝を見る。皮肉ともとれる返事をした彼だったが、そのつもりで言ったわけではなさそうだと佐保はぼんやり考え、地図に意識を向けた。
ここが異世界という確証はない。ただ二人の男女が言っているだけである。そんなことで信じるのは無理だ。人のよさそうな男女だが、会って間もない人物に信用は置けない。だまされているとしか思えないし、もしかしたらこの二人が……と勘繰ってしまう。だが、犯人とは思いたくなかった。それこそ会って間もないというのに、疑うのがためらわれた。だから地図を確認して、ここがどこなのか、本当に知っている地名すらないのか、実際に見てみたかったのである。
佐保は期待していた。しかし、地図に描かれていた地形の違いに驚いた。よく知った日本地図や世界地図ではない。大きな四大陸があり、そのほかに大小さまざまな島国らしき陸地が点在している。さらに彼女は目を通す。日本の山奥だろうが地方だろうが、少しくらいは知っている地名があるだろうと思った。なのにどの地図も、いっこうに知っている地名に当たらない。それどころか書かれた字が読みとれないものもあった。判読できるのは漢字に近い字だけで、読めないものはまるで中国語のように見えた。
(そういえば、この二人も服装がそんな雰囲気……)
もし佐保をだますための嘘なら、服装、地図と念の入ったことである。彼女は思う。やはりここは異世界なのだろうか。だが信じたくないのが心情だ。この地図を信用するということは、そのまま彼らの言への信用度合いとなる。異世界、この一言を佐保は直視したくなかった。しかし目の前に広がる地図は彼女を不安にさせるだけだった。
「あの、本当に、ここは……」
もはや何をどうしてよいのかわからず、自信がなくなっていく。佐保の声は自然と小さくなった。そのとき、部屋の入り口から声が聞こえた。
「異客とはまことですか」
凛とした声だった。佐保が顔を上げた先には、黒髪を後ろにくくった少年がいた。服装はやはり伍祝や玉蘭と似ており、年は佐保と同じか少し下くらいだろうか、幼い顔とあまりたくましいとは言えない体のつくりが、まず佐保の目に入った。
玉蘭が椅子から立ちあがる。「そのようです」
彼女にならって伍祝も部屋の入り口に立っている少年へ視線を向けた。
二人を気にしたふうもなく少年は佐保を見つめて言った。
「川沿いで栄古殿が見つけたようですが。異客と騙り、わざわざここに足を運んだという判断をお二人はなさらないのですか?」
少年は、佐保から伍祝、玉蘭へと目を向けて不機嫌そうに息を吐いた。
反論しない二人に、少年がぼそりとつぶやく。「道理のわからぬふりをして、その実、懐に何やら隠し持っていてもおかしくない」
佐保は少年が何を言わんとしているのか理解した。招かれざる客だと言いたいのだ。ひるむ佐保に、少年はさらに言葉を重ねる。
「所持品を確認次第、叩きだすか、閉じこめておくのが無難だと思います」
絶句する佐保をよそに、ようやく玉蘭が反応した。
「つまりは牢にでもつなげ、と……」
伍祝が溜め息を吐き、あいだに入った。「待った。相手は女の子だぞ、もうちょっと優しく言えんのか。それからお嬢さんを連れてきたことだが、玉蘭の判断に異論はない。責があるなら俺も一緒だ。で、問題はお嬢さんの処遇だが、それは俺たちがとやかく言うものではないな。主の判断を仰げばお前も文句ないはずだ、飛泉」
飛泉と呼ばれた少年は、苦い表情で頷いた。