第六章 六節
久しぶりの再会だった。話をするために佐保と栄古は風進たちから離れた場所に座った。すぐ先には少女をはさんで眠ろうとする彼らが見えている。佐保は虎の大きな体躯にしっかりともたれ、毛並みを撫でながら、何から話そうと思案に入った。が、おぞましい出来事や緊張の連続のせいで心身ともに疲弊して思うように頭が働かない。栄古にしがみついていると、安堵を得てそのまま寝入ってしまいそうだった。
そこへ「嬢」と呼ぶ声が振動で伝わり、佐保は顔を上げた。
「玉葉とは、嬢のことか?」
確信した響きをにじませる栄古に、佐保は静かに頷いた。
「栄古さん。尋ねたいことが結構あるけれど……ちょっと待っていてください。混乱していて」
「おおかた李彗のことか」
「そうです。順を追って聞くには、何から教えてもらえばいいのでしょう?」
考えることが多すぎて、要点の整理が間に合わない。ならば、最初から説明をしてもらったほうが飲みこめるだろう。困惑しきりの佐保に、栄古はつぶやいた。
「仙籍について尋ねてきたことがあったろう? 李彗が明かしたと思っていたが、違ったようだ」
佐保は記憶を探るためにうつむき、地面を見つめた。わずかな動作も掘り起こす障害となりえて、微動だにできない。そうして彼女はようやくどういった状況で聞いた言葉か、一連の流れを思いだした。また仙籍の意味を尋ねていなかったことにも思いあたる。
「栄古さん。仙籍を許すってどういう意味ですか?」
佐保の質問に、栄古は簡潔に答えた。
「昇殿を許すということだ」
「昇殿?」
学校の授業で習ったが、それが李彗という人物とつながらない。
すると栄古がつけ足した。「皇宮に上がることと言えばよいか。あやつの身分は皇嗣であったからな」
考えこんでいた佐保は結論に至り、驚きのあまり目を見開いた。
「ちょっと待って」勢いよく栄古の背から離れ、顔のほうへ寄る。
なじんだ言葉で言いかえるなら、皇宮は皇居のことだ。そして栄古の言った仙籍を許すというのは、昇殿を指す。
「待って……」佐保はそれしか言えなかった。
考えはつながったが、口にする前に言葉が乱れてうまく話せない。なんとか落ち着けようと意識して、彼女はきいた。
「皇嗣とは、ここでは何の『位』を指すものですか」
予想している答えはあったが、それでも確認せずにはいられなかった。
栄古は答えた。「国主の子」
佐保はやはりという思いに包まれながらも、明言された事実に息を呑んだ。しばしのあいだ言葉を失い、やがてつぶやく。
「つまり、皇嗣って、皇太子……」
栄古が「是」と短く答えた。
佐保は呆然とするほかなかった。仙籍を許すと言っていたのは、このことだったのかと理解する。許すといっても具体的に何を許すのか意味がわからず、そのまま頭の隅に追いやって今の今まで忘れていた。
佐保は、徐々に染みこんできた事実を受け止めた。苑海が李彗の名を呼ぶなと言ったのは、おいそれと口にしてよい名前ではなかったからだ。今まで無遠慮に話しかけていた自身の姿は、苑海を含め、どのように見受けられていたのか。無礼を働いていたのではという考えに、佐保は身震いした。同時に一抹の寂しさを覚える。同じ場所に立っていたつもりで、結局は住む世界が違っていた。李彗の周囲にいた者たちはみな彼が何者であるか知っていて、佐保だけが知らなかった。みな服従していたのは屋敷の主だからではない。本当にこの国の民にとっては主になるべく生まれついた男であったからだ。
佐保の体が思わずよろめく。途端、西山の考えていた事柄が頭を駆け巡った。李彗がそのような立場なのだとしたら、彼は異客について詳しいはずである。そう、たとえば、異客が記憶を忘れていくことにも。
西山の言葉は証明できる手立てのなさから全面的に信じるのも危うい思想だったが、もし仮に記憶を失うという事実があったとしたら……李彗も知っていた可能性は高い。佐保は思い返したが、彼は異客に関してそのような話をしたことはなかった。しかし瞬く間に疑念が膨らんでいく。今まで疑いなど向けていなかった絶対の存在が、足もとから覆された心地だった。
「ああ……」顔色を失った佐保は観念したような、納得したような声音を吐く。
どうにも考えることが多すぎだ。あまりの衝撃に質問も吹き飛んでしまい、虚脱感に見舞われる。だが妙な神経の昂りが残り火のように彼女のなかで消えずにいて、そこでようやく佐保は気を張っていたのだと自身の状態を知った。とても疲れた。それ以外に何も言えなかった。栄古が現れたおかげで、安心して休めるところを心身ともに得た今は、何を考えなくても許されるように思えてくる。
「ゆっくり寝るがよい」
なぐさめるような声を耳にしながら瞳をむりやり閉じて、佐保は栄古に寄りそった。
目覚めた佐保へ、赤褐色の体表が飛びこんでくる。手で触れて温みを実感していると、振動が伝わった。
「……起きたか」栄古が言う。「嬢、さっそくだが水場に移動する」
体を起こした佐保に続き、栄古も立ちあがった。周囲を見渡した佐保は、風進ら三人がすでに起きていることを知り、彼らのもとへ栄古と近寄った。
「おはようございます」佐保が三人に声をかけた。
先に寄ってきたのは小琴だった。彼女は心配そうな顔をして佐保を見上げてくる。
「玉葉! 大丈夫か?」
昨夜の出来事から互いに話す機会がなかった二人は無事を確かめあった。
「大丈夫よ。それより小琴は怪我していない?」
突き飛ばしてしまったことを気にした佐保に、小琴は首を横に振る。
「平気だ。けど玉葉……痛くないか?」
小琴は、細い線が浮かぶ佐保の頬に手を伸ばそうとした。
しかしその行為を風進が見咎めた。
「小琴、失礼は控えろ」
途端、小琴は手を止めて彼を見やり、いぶかしげに尋ね返す。
「失礼?」
佐保は、自身に届く途中で止まった小さな手を握り、風進のほうへ目を向けてお願いした。
「あの、今までどおりでいてください」
風進は考えこむように黙ったが、気まずそうな顔をしつつも了承した。
「なんだあれ」
背中を向け、水丹とともに出発の準備をする風進に小琴が不思議がったが、佐保は何も言わなかった。
「しゃべる虎なんて、すごいな」
栄古の案内で水場に向かう途中、小琴は栄古に関心を示し、横を歩いていた。もの珍しいのか、水場まで隣を譲りそうもない勢いである。小琴をはさんで歩く栄古と佐保の後ろからは風進と水丹、犬二匹がついてきていた。
「栄古はこいつらとも話ができるか?」小琴は後ろにいる犬をちらと見た。
「何を考えているかは理解できる」
少女の相手をするため得意げに答えた虎に、小琴は目を輝かせ、弾んだ声で要求した。
「じゃあ、今は何を考えてるんだ? 教えてくれ」
栄古は背後の犬を見ることなく、緩やかな山道に落ちた枝を踏みながら答えた。
「自分たちの主人がかわいげないと悩み、真剣に語り合っておる」
「なんだと。失礼だな」むっとした小琴は栄古をにらみ、ついで犬たちに目をやった。
犬を見ても答えの得られない少女をおいて、栄古は前を進む。からかわれたことに気づかぬ少女が納得しかねる表情でいると、虎は愉快さを残した口調で水場が近いことを知らせ、さっさと話を変えてしまった。
朝もやも解け、視界は良好だった。日が昇り始めて、朝の冴え冴えとした空気にも陽気が溶けこみ、心地よいものに変わっていく。傾斜の少ない坂道でも、歩いていれば自然と息はあがった。少しすると栄古の言うとおり、水のわきだす場所が見え、小川が現れた。
水場の前で腰を下ろした風進は、水丹が彼の傷を豪快に洗い流そうとするのを慌てて制し、自身で丁寧に拭き始めた。そこから聞こえる二人のやりとりに小琴と笑いながら佐保も顔や傷口を洗っていると、犬が急に駆けだした。何事かと目を配らせれば、犬が何かを連れて戻ってくる。途端、いななきが聞こえた。
「帰ってきたか」
栄古の言葉と同時に、犬の背後から二頭の馬が現れた。昨夜いなくなってしまった馬だった。おまけに、馬に引っかけていた荷物もいくらか無事に戻ってきた。風進と水丹はあまりのことに声をなくす。馬二頭は彼らをしりめに水を飲みだし、拍子抜けするほど大人しくしていた。やがて手当てを終えた風進は馬を撫でながら、驚きようを口にする。
「奇跡だ。天が味方しているとしか思えん」
出血のわりに軽傷で、逃げた馬は荷を携え元気な姿で戻ってくる。考えられないことが起こる連続に、風進はそうつぶやかずにはいられなかったようだ。
「よかったではないか」栄古が言う。
その言葉に風進は栄古を凝視した。
当惑と、含みを持った彼の視線に栄古は「なんだ?」と促す。
「いえ、何も……」
歯切れ悪く答えた風進であったが、未だ栄古を見つめている。しかし考えるのをやめたように彼は首を振って苦笑してみせた。