第六章 五節
「人ならぬものとて言語を解す。慣れろ」
栄古の言葉に風進は疑り深い目を向けるも、傷口の具合を確認するのが先とばかりに何も返さなかった。
佐保も自身の頬に手をあてる。すると、ぬるりとした感触を得た。頬に触れた指を見る。男の持っていた剣でできた傷だった。彼女は自分の手荷物を探した。使っていた筒に水が入っていたはずである。しかし見つからない。硬貨や西山からもらった餞別の品も入っていたというのに、荷物ごと奪われたようであった。
落胆していると、近くの木のそばで筒を発見する。だが外側だけがむなしく残され、中身はひと掬いにも満たなかった。布切れを湿らせ、頬を拭くことしかできない。
佐保がそれを拾うと、栄古が風進に声をかけていた。
「青二才よ。貴様の分をのぞき、手当てに使える水はあるか?」
風進は虎が話すことに慣れない様子で、自身の傷口と、ときおり栄古を見ながら答えた。
「水は馬に持たせていたから、手持ちは残りわずかだ。もったいなくて使えん」
「夜が明ければ水場に案内してやろう。使ってしまえ」言って栄古は佐保に目を転じる。「嬢は我慢できるか?」
「はい」佐保は頷く。
水の余りがないので傷の洗い流しが不十分かもしれないが、土や汚れがつかないよう気をつけていれば大丈夫だろう。問題なのは風進だ。平気そうに話しているが、傷を見れば芳しくない。
風進は疲れた様子で栄古に言葉を返した。
「そりゃ、ありがたい。しかし馬もねぇから、このざまであんまり遠くはさ、よしてくれよ」
そもそも彼らは白水に行くわけではなかった。それを考えると佐保は申し訳なさでいっぱいになった。
小琴を抱え戻ってきた水丹を見て、風進が提案をする。
「移動しないか? 血のにおいに釣られて話のわからねぇ厄介な生き物を招いちまいそうだ」
「我がいるうちは近づいてはこぬよ」
「なら、見張りを頼みたいね」
栄古が了承したのを聞きながら、佐保は水丹と一緒になって残っていた荷から布を用意した。二人で布を手当て用に切り裂いていると、ふと栄古が佐保の手もとを見てしゃべる。
「その短剣はどこぞの阿呆がよこした物であろう? 見覚えがある。今後の足代によいぞ」
佐保は栄古の考えに至り、思わず作業の手を止めた。この一件を気にするのなら、おわびとして風進らに短剣を渡すのも一つの方法だということだ。しかし佐保からすれば、意中の相手からもらった品を手放すことなどしたくない。
佐保は大事そうに短剣を持つ。栄古がくつくつと笑い、困り果てた佐保の様子に作業を終えた水丹も笑いながら、目を覚まさない小琴の隣に腰を下ろして体を休めた。
そこへ突然、風進の声がかかった。
「……それ、玉葉のものか?」
慎重かつゆっくりとした口調で尋ねられ、佐保は問いかけを前に反応が遅れた。
「はい」
短く答えれば、風進が手を出してきた。
「本当に? よく見せてくれないか?」
不思議に思いながらも短剣を渡す。検分している風進の前に栄古もやってきて様子をうかがいだした。いったい急にどうしたというのか、風進の言動にしたがった佐保は、彼が短剣を両手で持って眺めているあいだ口をはさまず待っていた。
「これは……」しばらくすると風進はつぶやき、佐保に目を向けた。「なぜこれを持っている?」
「お世話になっていた方に、渡されました」
「しかし、この品は」
風進が短剣を握ったまま言いよどむ。事態が飲みこめない不安によって、佐保は落ち着かない気分になった。
「覚えがあるようだが、いかがした」栄古が風進に尋ねた。
風進は、獰猛な体躯にふさわしい双眸のすごみを真っ向から受けたが、ひるまなかった。しかしどこか不自然な様子だ。逡巡しているのか、もの言いたげにしつつも口を開かない。彼は、再び栄古が問いかけるまで黙っていた。
「二つとなきこれに見覚えがあるのだろう? それとも持ち主のほうにか?」
風進が目を見開き「では……」と言った。そこには確証を得たような響きが含まれていた。
短剣を持っていた風進はそれを眺めたのち、佐保へ静かに問いかけた。
「玉葉、お前……いや、あなたは何者だ」
風で緑が揺れている。葉がこすれ、ざわざわと音を立てているのに、声はよく冴え渡っていた。
佐保は自身の両手を握りこんだ。くだけた様子を見せていた風進が真面目な顔をしている。けおされた佐保は言い知れぬ不安を前に黙した。彼が口にした「何者」という問いにも「異客」と答えるべきか判断つかない。今や伝えることに抵抗はなかったが、風進の求める答えは違うように思えた。もっとほかの――たとえば短剣を通して見えてくる、持ち主と佐保の関係に疑いを持っている。佐保はそう感じた。しかしその場合でも答えようがない。
そのうちに、風進のほうがしびれを切らした。
「この短剣は、別のお方が持っておられた」
「ええ、そうです」佐保はおずおずと口を開いた。「その方が、私がお世話になっていた方かと」
風進の視線に、佐保は糾弾されているような気がして、変に口の中がかわき、居心地が悪くなる。
「ではなぜ、あなたが持っている?」
先ほども問われた事柄が、今度は相手の出方を探り見定めるような口調に変化する。
「渡されたんです」佐保はつけ加えた。「これから暮らしていくために」
「奪ったものではない、と」
佐保は途端に不満げな表情を示した。盗みを疑われている。そこへ栄古が割って入った。
「下賜にあらず、窃盗の品と?」
「それは……」途中、思い直したように風進は小さく言葉をもらす。「いや、まことか?」
栄古が一歩前へと踏みでた。「身分を明かせ。そして知り得ることを偽りなく答えよ」
どれくらいの時間が経ったのか、風進は長く佐保を見ていた。そして膝をついた丁寧な仕草で彼女に短剣を返すと、観念したように告げた。
「私は師君につきしたがい、短剣の造作に携わりました者にございます。そちらの短剣は世に一つ。ですから間違えるはずもありません。そちらは……皇嗣様に献上いたしました」
聞きなれぬ名に、李彗ではないのかと尋ねたかったが、佐保は苑海と交わした名を言わぬ約束のため、こらえた。
「いかがした? 想像したとおりの人物であっているぞ」
黙っている佐保に栄古は声をかけると、風進を見て言った。
「今では誰もあれをそう呼ぶまい」
「いかような苦境にあられても、私にとっては、いつまでもお慕い申しあげるべきお方なのです」
風進は静かに語りだすが、目は期待に満ちて熱がこもっていた。李彗に対して快い感情を抱いているのは佐保にもわかった。だが風進の話は聞けば聞くほど混乱する。ずいぶん前に目通りがかない、短剣献上の際に皇嗣様よりお声をかけていただいたと、彼は李彗をとりまく話をして皇嗣様なる姿を話のなかで形作っていった。佐保は聞きもらすまいとするだけで精一杯である。大仰に聞こえる風進の丁寧な言葉遣いは、李彗が目上の人だということを教えてくれるだけで、肝心なところは何一つつかめなかった。
そうこうする間に、栄古が話をしめくくる。
「こちらの女人に関し、他言は控えよ」
自分を指した発言だったことに、佐保は栄古を見た。
「承知いたした」風進が佐保に体を向ける。「玉葉殿、今までの無礼をお許し願いたい」
ついで風進は傷の具合からして佐保より必要な様子であるのに、残り少ない水を差しだした。
佐保の身分をはかりかねるような口調になった風進に、彼女は居心地の悪さを覚える。けれど水を不要だと断っているうちに、風進は明らかに一線を引いた様子で接し始めていた。