第六章 四節
刃物の鋭い切っ先が目の前をおびやかす。その一閃が佐保たちに描かれるより早く、犬が飛びだして男に食らいついた。しかしたちまち落とされて、犬の短い悲鳴が起こる。途端「逃げろ!」と男の声が響き渡った。それが風進のものだとはっきり理解できる前に、佐保は呆然と立ち尽くす小琴を引っ張って走りだした。
振り返るのも恐ろしくて確認しなかったが、とっさに見た限りでは急に現れた男らは三人。風進と水丹の前に二人で、残りの一人は、逃げだした佐保と小琴を追いかけてきている。背後から迫る怒号に、佐保の心臓は飛び跳ね、気はおかしくなりそうだった。
落ちている枝を踏みしめ、木々の合間を割って必死に進む。追いつかれるのは時間の問題で、隣から伝わる苦しげな呼吸に佐保は頑張ってと祈りながら、後方の荒々しい声がだんだんと近づいているのを感じとった。
そのとき「あ!」と小琴が声を出した。子供ながら懸命に駆けていた足がとうとう悲鳴をあげてもつれ、転げそうになる。佐保は小琴の手を強く握ったが、体がぐんと後ろに引かれるかたちで二人とも地面に手をついた。手のひらに、しびれるような痛みが走ったが気にする余裕はない。佐保は痛みにうめく小琴をかまわず立たせ、周囲を見やった。草がよく生い茂り、小さな体つきならば隠れられそうな場所がすぐ近くにある。
佐保は後ろを振り返る。迷っている暇はなかった。
「小琴、隠れてて」
その言葉に、あどけない少女の顔が驚愕に満ち、ついで首を横に振って拒絶を繰り返した。小琴はすがるように佐保の手をとる。しかし佐保はそれを振り払い、動こうとしない小琴を草むらへ突き飛ばした。
「出てはだめよ?」佐保は極力、安心させるような声音でつぶやいた。
注意しなければ少女の頭は見えないだろう。佐保がくるりと前を向いて走りだすと同時に男の「いた!」という声が聞こえた。小琴のいる場所から反対側へ進む彼女を、男が追いかける。
枝や小石が無数に転がる地面。足場が悪く、服の裾もはためき、佐保の走りが遅くなる。一歩また一歩と距離が縮まり――焦りを生んだ佐保に、好機は訪れなかった。
男が佐保の服をつかみ、前へ押し倒す。膝をついた佐保は必死で逃げようとした。だが肩を地面に押さえつけられ、痛みに歯を食いしばるわずかなあいだに仰向けにされてしまう。
「手間かけさせやがって」凶暴な面持ちを隠さず、男が唇をゆがめた。
佐保は、真上に覆いかぶさる男から離れようと抵抗した。吐き気をもよおすほどの臭気と、男の笑い声のせいで、つま先からじわじわと恐怖がわく。男の腕が首に伸びた瞬間、震えが心臓まで駆けのぼった。じっとりと汗はにじむのに、血の気が失せる。舌は張りついて声が出ず、全身が鉛のようになって動かない。けれど首にあった男の手が緩んだとき、佐保は殴る蹴るを繰り返して暴れた。男は少々ひるんだが、無駄なあがきと言わんばかりに佐保の髪をつかむ。頭部に引きつれる痛みが走り、頬もぶたれた。そして、耳のそばで刃物が光った。
「あ……」佐保は口を半開きにして声をもらす。
顔の横に、剣が突き立てられている。少しでも動けば命の保障などなかった。
声にならない悲鳴が体の隅々まで駆け巡る。恐怖が心臓に爪を立て、絶望が毛の先まで絡みつくようだった。
頬に細い線が生まれ、血が流れる。佐保の頭は混乱しているにもかかわらず、これから何が起こるのかを静かに理解した。下卑た男の目的に、心中で絶叫した。
いやだ助けて、こわい、血が、血が、お母さん、お母さん、助けて、助けてお母さん。
男の手が性急に動き、夜気が佐保の肌を撫でる。彼女の持っていた短剣が転がり出た。佐保は目を見開く。なぜこれを振り回さなかったのか。握っていただけでも状況は変わったはずだ。活路を見いだせたかもしれないのに、あまりの出来事のせいで棒に振ってしまった。
佐保は短剣に手を伸ばした。しかし薄ら笑いを浮かべた男がすぐさま取りあげる。そしてその短剣も、佐保の体の近くに突き立てられた。佐保の頭が真っ白になる。喉は細まって息もできず、涙がこぼれた。
そのときだった。
佐保は男の背後で動く影を見た。一瞬だった。
何が起きたのかと男が佐保の体から退き、地面から剣を抜いてかまえる。その切っ先の向こうには、牙を見せ、獰猛さをしたがえた虎の姿があった。大きな体躯に鋭い爪をもつ四肢。のしかかられたなら、ひとたまりもない。剣をやみくもに振るう男に虎は襲いかかる。
佐保は信じられず目を見開いた。自分を守ってくれる虎など、彼女はただ一頭しか知らない。
猛々しさを前に事の終わりは呆気なくついた。男は腰を抜かし、尻を引きずりながらあとずさっている。佐保を力で屈した姿などどこにもない。虎が佐保に一歩踏みだした瞬間、恐れをなした男は好機とばかりに一目散に駆けていった。虎はそれを気にせず悠然と佐保に歩み寄る。佐保は土の上に寝転がったまま、近づいた虎を見上げた。腕を持ちあげれば難なく虎の顔にたどりつく。手を伸ばし、頬から首を撫でた。柔らかな毛並みと体温が心地よい。肘をついて体を起こした佐保は虎に抱きついた。土にまみれた彼女を待っていたのは牙でも爪でもない。
「嬢よ、無事か?」
その声を聞いて佐保は抱きしめる腕に力をこめた。
恐ろしい出来事の名残か、肩は震えて声も出ない。心臓がどくどくと鳴っている。佐保は虎の太い首に両手を絡みつけ、そこに顔をうずめた。いくらか安心してくると、ようやく舌振るいもおさまる。
「……栄古さん」佐保はくぐもった声で呼んだ。
「約束したであろう? また会うと」
懐かしい口ぶりに、彼女は何も言わず抱きしめた。
「さて、いかがしよう」栄古は尋ねた。「今しがたの男は放っておくか、それとも思い知らせてやるか」
不穏な言葉を受け、佐保は栄古から顔を上げて訴えた。
「待ってください。それより小琴と、二人のところに」
「向こうの草むらにいる子供か?」
栄古の質問に佐保は頷いた。はだけた服を急いで直し、短剣を手にする。
「大事な人たちなんです」佐保は横へ並んだ栄古に仰いだ。「助けてくれませんか?」
「よかろう」
二つ返事で応じた栄古と、佐保は小琴のもとまで向かった。草むらまで戻れば小琴は倒れており、佐保はその場に座りこんだ。
「案ずるな。気を失っておるだけだ」栄古が背を低くする。「背中に乗せよ」
佐保は小琴を虎の背に上げ、後ろからしっかりと抱えて乗った。馬とは違った久しぶりの感覚に、佐保は本当に会えたのだという気持ちを噛みしめる。
走っていたときよりも格段に早くあの場所へ戻り、彼女は栄古から降りた。視界の先には風進と水丹の姿がある。小琴を木にもたれさせると、佐保は鞘から抜きとった短剣を握り、栄古とともに駆け寄った。
「水丹さん! 風進さん!」
佐保の呼び声に二人は反応する。どうやら無事のようだ。が、彼らの周りには先ほどの連中がまったく見当たらない。二人の馬も逃げてしまったのか、消えていた。
風進は佐保についてきた虎を見るやいなや、水丹をかばうようにして武器をかまえる。佐保はとっさに「知り合いなの」と叫んだ。突拍子もない発言に二人は驚いていたが、虎が佐保のそばで動かないのを見て風進がゆっくりと武器を下げた。
「さっきのあれは……」
佐保の言葉をついで風進がうめく。
「賊だ。もういない。それより玉葉、怪我は? 小琴は?」
矢継ぎ早に言われ、佐保は先に小琴が安全であることを伝えた。するとほっとしたように風進が座りこむ。佐保が木のそばにいる小琴を指し示すと、水丹が抱えに向かった。
「そうか、よかった」
つぶやく彼は血だらけで、ひどいありさまだった。
「本当にその虎は大丈夫なのか? 手負いの俺ではとうてい仕留められん」
風進の言葉に佐保が答えようとすると、栄古がおもしろくなさそうな口調で割って入った。
「手負いでなくとも仕留められぬわ、青二才」
虎が鼻を鳴らしてしゃべる様子に、風進は今度こそ驚いた。