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異境譚  作者: おでき
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第六章 三節

「喧嘩したんだって?」

 川から一人で帰ってきた真っ赤な目の佐保を見るなり、水丹はおかしそうな表情で言った。

 佐保は小さく頷いて、周囲を見た。先に戻ったはずの小琴がいない。すると水丹があっけらかんとして教えてくれた。

「難しそうな顔して風進の背中に引っついてた。そのまま二人してどっか行っちまったよ」

「そうですか」佐保はそれだけ言うと口を閉じる。

 小琴を理不尽に怒鳴りつけたのは佐保だが、そのせいで旅路に悪影響をおよぼさないか心配だった。佐保が自身の卑しさを感じていると、水丹が話を続けた。

「あの子、大人のなかで育ったから……玉葉、あんたはちょうどいい喧嘩相手さ」

 水丹は、言い争いの内容を聞いたのだろうか。今の言い方だけでは、異客であると知られたか見当もつかない。それに、大事な妹を傷つけたと、なじらないのだろうか。

「怒らないんですか?」

 佐保は尋ねたが、予想した反応は返ってこなかった。

「二人の問題だ。何を怒るのさ?」

 目を丸くし簡潔に答えた水丹に、佐保は苦い笑みを浮かべた。


 夕暮れが訪れるより前に、小琴は風進の後ろを歩いて帰ってきた。

 気まずそうな小琴に、むしろその態度を取るべきは自分だと佐保は思っていた。

 食べているあいだも必要な会話だけで、謝るきっかけもない。小琴は元気なく犬に埋もれるように座っていたし、その様子を風進らはおもしろそうに見ていた。

 幌を広げて寝床を確保するときに佐保は小琴に近づいたが、小琴はすぐ横になってしまう。困った佐保に、見ていた風進が笑った。

「初めてでどうしていいか戸惑ってるだけだろ。放っておきゃ、なんとかなるんじゃないか?」

 楽天的なもの言いに、佐保は小さく声を出した。

「私、言いすぎたから……謝らないと」

 小琴は背中を向けているが、眠っていないのは明らかだ。犬たちが彼女の顔をのぞきこみ、尻尾を振っている。

 水丹は口もとに手をあててよそを向いた。風進も笑いをこらえ、告げる。

「ま、今夜はもう寝ちまえ。明日は早く出発だ。山を越えるぞ」

 佐保は頷いて、小琴のそばで横になった。案の定、犬たちが囲むその小さな体は寝息を装うどころか息を潜めているようで、身動きせず音を立てない。佐保は、一心に寝たふりをする小琴の意を酌んで声をかけず眠ることにした。


 山越えを始めて二日目、思ったほど苦ではない道のりが続いた。心配していた凶暴な野生動物や盗賊に出くわすこともなく順調だった。

 小琴との仲は相変わらずぎこちない距離を保っている。佐保は水丹らの手前もあり、早くわだかまりをなくしたかったが、謝る気持ちはあれど自省の心境には至らない。自身の一番みっともない部分を受け入れるのは、難しかった。

 夕刻、佐保が寝床を作っていると、彼女の背中に声がかかった。振り向くと小琴がいた。

「どうしたの?」

 尋ねた佐保に、小琴は決まり悪そうに言った。

「ちょっと話したい」

 佐保は了承し、小琴のそばまで行った。小琴は犬を一匹したがえ、先に歩きだす。どうやら姉夫婦には聞かれたくないようで、彼らから離れた場所でようやく立ち止まった。

 月明かりで周囲は確認できるが、水丹らの姿が少しばかり小さい。離れすぎてはいないかと思ったが、佐保は何も言わず小琴と向かい合った。

「言いすぎたと思って……」そう切りだした小琴はうつむいた。「えらそうに言っちまって……その、悪かった」

 佐保が首を横に振る。「違う、小琴は悪くない。私こそ言いすぎた。ごめんなさい」

 あっさりと謝罪をしあえた様子に佐保はほっとし、小琴のほうは弾かれたように顔を上げて言葉を続けた。

「あのことは、姉さんにも兄さんにも言ってない」

 彼女の持ちだした「あのこと」とは、佐保が異客であるという話にほかならないだろう。

 佐保は「うん」と頷いた。今や水丹と風進に打ち明けるのも抵抗はない。いや、伝えたい気すらある。二人とも異客を理由に佐保をどうこうするなど考えられない。彼らの人柄ゆえか、ありのままを受け入れてもらえるだろうという自信と、そうされたい願いがわいていた。

「信じてくれ」

「信じるよ。でもね、秘密にしなくてもいいよ?」

 佐保の言葉に小琴は困ったような顔をしてかがみこむと、犬を撫で始めた。

「それは、玉葉……が決めたらいい」

 こちらの世界でつけられた名前を呼んだ、少女の戸惑い気味の声音を聞いて、佐保は静かに「そうする」と答えた。

「玉葉も撫でるか?」

 小琴は犬に触れている手を止めて佐保を見上げた。犬も佐保を見ている。佐保は少女と一匹に目を細めた。初めのうちは犬たちから警戒されていたが、佐保に敵意がないと判断したのか最近はそばに寄ってくる。だが互いに触れることはない。佐保には負い目があるからだ。彼女は首を横に振って、断った。

「私に触られるのは嫌だと思う。最初に会ったときにね、取り返しのつかないことをしようとしたから」

 その言葉に小琴は、じっと耳を傾けた。佐保は恥じ入るような声で答える。

「食べ物に目がくらんで、それで……ごめんなさい」

「……そうか。なら、なおさら撫でてみるといいぞ。気持ちは手に出るからな」

 何も聞かない小琴はそう言うなり、緊張でこわばった佐保の手をつかんで犬まで導いた。すると犬は逃げずに体を触らせてくれる。謝罪を受け入れてくれたのだろうか。まるでこれが小琴と犬の答えだと言わんばかりの行動を受けて、佐保は再び小さな声で謝った。犬の体温は瞬く間に思いださせるものがある。李彗に手を引かれ、栄古に初めて触れたときだ。佐保は懐かしさに表情をやわらげた。

「あったかいだろ?」

 まるでその出来事を繰り返しているみたいだと考えていた佐保は、しかし次の瞬間、犬が耳を立てたので手を離した。

「やっぱり、触られるのはだめかもね」

 そう言って苦笑した佐保だが、すぐに笑みを引っこめた。

 様子がおかしい。犬が周囲を探るように顔を上げ、犬を見ていた小琴も表情をかたくして口を結んでしまう。

「……何?」佐保が小さな声で尋ねた。

 小琴が佐保の手を握り、ぐるりと周囲を見渡す。犬がうなり声をあげだした。佐保は困惑げに小琴と犬を交互に見る。木々が揺れ、髪が顔にかかる。邪魔をする毛を片手でまとめた矢先、小琴の抑えた声が届いた。

「戻るぞ」

 月明かりのもと、急ぎ足で水丹と風進のほうへ向かう。何の異変なのか佐保には理解できなかったが、不穏な雰囲気が肌にまとわりついているのは感じた。

 雲が流れて月が隠れだす。佐保たちは歩いた。薄暗くなった景色に風進と水丹の姿が見えた。佐保は緊張がほぐれそうになったが、二人と一緒にいたほうの犬もしきりに警戒しているのがわかり、安堵する気持ちが消えた。しかしもうすぐだ。二人との距離は近い。

 ああ、そろった。彼女は心のうちで思った。つながっている小琴の手を握り返す。

 ――そろうのは、目と鼻の先だった。

 雲が月を覆う寸前、馬のいななきと荒い足音が辺りを振るわせた。何事かと注意をやるより早く、動転と混乱が押し寄せる。

 複数の声が駆け抜けた。悲鳴と犬の鳴き声と風の音がして、佐保と小琴の前に影が躍り出た。佐保は目を見開く。

 にたりと下品な笑みを浮かべた男がぼやけた明るさのなか、奇妙に浮かんでいた。

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