第六章 二節
一人になった佐保は小琴の文字を眺めていた。文字の練習で飛泉に叱られたのも今ではよい思い出だ。佐保は小さな石を拾い、小琴の横に「佐保」と書いてみた。しかしすぐに消す。
(違う、今は玉葉だ)
彼女はゆっくりと書きなおし、玉葉、玉葉……と何度も心のなかで唱えた。そこでふと考える。李彗は一度も佐保を玉葉と呼ばなかった。佐保は、彼のまえでは佐保でいられたのだ。彼女はふいに胸が苦しくなり、土をえぐる書きかけの名前を消して、呼吸を忘れていたとばかりに深く息を吸いこんだ。
持っていた小石を地面に置く。そのとき「いいなぁ」という小琴の声が耳もとでよみがえった。佐保は不快げに目を閉じた。あの屋敷でどれだけ努力して得たものがあっても、今やこのありさまだ。
先ほどまでは小琴と楽しく接していたが、気持ちは急激に変化していく。佐保は小琴への腹立ちを覚える瞬間が今だけでなく幾度もあった。理由はわかっていた。彼女と自身の境遇を思っての、ただの嫉妬だ。しかし、他者への羨望からくる怒りは抑えようもない、手に余る感情だった。
佐保がそれを意識しないよう別のことを考えたり川を眺めていたりすると、小琴が戻ってきて隣に座った。小さな手には籠がある。中は泥のついた野菜が入っていた。
「土をとるぞ」小琴は籠の中身を指さし、鼻歌を歌いだした。
佐保も小琴にならって、一つ一つを綺麗にするため土を落としていく。その横で小琴は気持ちよさそうに歌っていた。わらべ歌のような緩やかな旋律が川べりに響く。佐保は小琴をちらちらと視界に入れては、作業した。たいしたことでもない、しかし鼻歌が耳に障るのだ。楽しそうな様子もいらだちを誘う。神経の昂りと感情の波の高低が、佐保のなかでうねりを作って不安定な支えを切り崩そうとしていた。
佐保はそれを無視して、思いついたように尋ねた。「紙って貴重なの?」
何か話題をと考え、紙の話に戻してみた。
鼻歌をやめた小琴が答える。「そりゃ、いいやつは貴重だ」
上質なものは手が届かないということだろうか。佐保が練習に使用していた紙は粗末であったかというとむしろ逆で、よい品であったはずだ。彼女は何も考えず書き連ねては次の紙に手を出すことを繰り返していた。
「知らなかった。いっぱい練習用に使ったのに」佐保は小さな声で言う。
すべて野菜の汚れを落とし終えた二人は、籠に戻していく。佐保は籠を持って立ちあがり、続いて小琴も横に並んだ。
見上げるようにして佐保に笑顔を向けた小琴は、両手を後ろで結んで快活な声をあげる。
「紙の贅沢ができるなんてお姫様なんだな、玉葉は。私らと違うなって思ってたんだ」
佐保は小琴を見て、険のある言い方で返した。
「違う? 何が? よそ者扱い?」
小琴が慌てたように首を振る。「ううん、なんて言うのかな、普通の人に見えないってことだよ」
その言葉は火に油をそそぐだけだった。
佐保も少女の言いたいことを頭では理解している。紙の質と貴重さについて、軽率な発言をした。それが少女には贅沢にうつっただけだ。しかし他意のない言葉でも、今の佐保にはよい意味に聞こえなかった。「普通の人」という言われ方が辛抱できなかった。
「普通って何? 私は普通じゃないって言いたいの?」
佐保は急激に燃え盛る心のうちを言葉にのせる。
「違うよ、玉葉。普通っていうのはさ」
小琴が懸命に話そうとしたところを、佐保は彼女をにらむことで機会を奪う。
すると距離を取ろうとするように小琴が一歩下がり、佐保は少しの悲しみと多くの怒りに支配された。
「一線引きたいんじゃないの? 私が……」
胸のうちで一気に膨らんだ感情のせいで、佐保は言葉を止められなかった。大きな声で悲鳴のように告げてしまう。
「私が異客だから、普通じゃないんでしょ!」
佐保の発言に驚いて黙った小琴は、異客だったのかと小さくもらし、佐保に声をかけた。
「落ち着けよ、玉葉」
それに佐保は食ってかかった。「玉葉じゃない! 私にはちゃんと名前があるの」
佐保が手にしていた籠を勢いよく振り落とすと、小琴が再び繰り返す。
「落ち着け」
籠の中身がすべてひっくり返り、二人で汚れを落としていた野菜が砂をかぶった。小琴がしゃがんで拾い集める。佐保は知らず唇を噛んだ。自分より年下の少女が冷静であることに、よけい怒りに火がついた。
拾い終えて立ちあがった小琴に、佐保は顔をゆがめ、憎々しげな口調で放つ。
「人に食べ物を分け与えるのって、すごい優越感でしょうね。目の前で他者に頼って甘えてくるような人間を見ていたら、どうせこいつは自分しか頼れないんだとでも思えて、さぞ満足するでしょうね」
今までの鬱憤を晴らすように、佐保は言い募った。すると小琴がゆっくりと尋ねてくる。
「食べ物を粗末にしたくないから、こうして拾ったんだ。その粗末にしたくないものを、優越感のためだけに人にあげると思っているのか?」
「知らないわよ」悔しまぎれに佐保が吐き捨てる。
佐保の頭のなかは自身が何を言っているのかわからぬほど乱れていた。小琴にもそれは伝わっていた。
「言いがかりなら子供でもできるぞ」
「……子供? 子供ですって?」佐保は眉間にしわを寄せ、ついで笑った。「そう思ってるならそれでいいわ。ずっと子供だったのよ、私。子供だから、与えられるものをもらってきたんだもの!」
不明瞭な佐保の話に小琴は訝しげだったが、口をはさまなかった。
佐保にとってはすべての言動が一つの不満としてつながっていた。ほしいもの、してほしいこと……発端は紙の話であったのに、彼女のなかでは多くの欲求と不満がうずまいて、言葉が追いつかないほどの圧迫があった。それがようやく外に通じる穴を見つけたのだ。不満は喉もとまで駆けこんでいき、佐保の口調はさらに荒々しいものへと変わっていく。
「いつだって、なんでも、私はもらう側だった! それを与える側も良しとしていたはずよ。それが急になくなったら要求するのは当然でしょう? だって私ひとりでは何もできないんだもの!」
「横暴だ。言ってることがめちゃくちゃだぞ」
佐保は大きく息を吸い、こぶしを握りこんだ。年端のいかない子供に諭されている事実を突きつけられ、憤りで目の奥が熱していくようなめまいを感じた。
「うるさい」佐保が小さくうめく。
言い負かされて、それしか返せない。何もかもが彼女をいらだたせ、みじめにさせていた。
小琴は静かに佐保を見守っていたが、ぽつりとこぼす。
「言いたいことがあるなら言えばいいだろ」
「言って何が変わるのよ」
佐保が目もとを力強くぬぐう。彼女なりに精一杯、言い返したつもりだった。けれど、少女は反論した。
「言わずに我慢するのも大事だけどな、だったら相手に期待するな」
怒りに震えて口を開きかけた佐保を小琴が制し、続けた。
「何も言わないまま、勝手に不満を溜めこまれ開き直られても、どうしろっていうんだ」
あきれ返るような言葉を向けられた佐保は、自分よりも小さい少女をにらみつけた。
「小琴、ねえ、何がわかるの? 異客の私が、よそ者の人間が、どれだけこの世界で生きていくのがつらいか、苦しいか、知らないでしょう! 何がわかるっていうの、言ってみなさいよ!」
手を上げそうなほど激昂する佐保に、小琴もついに大きな声を出した。
「異客だから苦しいのか? 違うだろ! 自分でそう仕向けたんだ。確かに異客は不利だ。けれど玉葉には助けてくれた人たちがいたんだろ? なら少なくとも、玉葉は生きていくための力も道も切り開けたはずだ! よそ者を理由にしてそんなふうに考えだしたのは、自分の責任だ! 違うか?」
「最悪な目に遭ったのよ? ひどいことばっかりで、本当に最悪だったわ。知らない世界に放りだされる恐怖を思えば、行き着く結果としては当然の考え方じゃないの。馬鹿でもわかるわよ」
そう言って佐保は鼻で笑った。相手を傷つけようとして言う言葉はこうも遠慮がなくなるのかと思いながら、わずかな良心がいたんだことに気づかぬふりをする。
だが小琴は挑発に乗らなかった。
「最悪? 最悪か? ここでの生活は嫌なこと尽くしだったのか?」
目をむいて怒っていた佐保だが、途端、屋敷で過ごした記憶が脳裏によみがえった。反論どころか何も言えなくなった。
小琴は佐保の表情から答えを得たようで、静かに投げかける。
「いいこともあったんだろ? それで最悪なら、幸せな人生だ」
その瞬間、佐保は地面にへたりこんだ。勢いが急激に消えうせる。怒りもなりを潜めた。
ふと西山の言葉が頭に浮かぶ。彼は言っていた。幸せだったんだね、と。確かにそうだ。幸せだった。つらいこともあったが、幸せなこともあった。つらいことはいつまでも覚えているのに、幸せなことは忘れてしまう。そうして自分の不遇を嘆いていた。決して最良とは言えないが、最悪だと人に当たり散らす道のりでもなかった。
一人で頑張らねばならない。そう覚悟を決めていたはずなのに、納得していない部分にくすぶる不満や不安を隠した。異客であることに依存したのは佐保自身なのだ。それは、まぎれもない甘えだった。甘えに応えてくれるものがあれば、優越を感じられる。甘えなければ、依存しなければ何もできない身なのだという卑屈も、優越の前では忘れられる。
彼女は嗚咽をもらして胸のうちでつぶやいた。自分はいったい今まで何を見ていたというのか。
佐保の目の前には土の小さな隆起がある。消したつもりの「玉葉」の文字が、ゆがんだ視界のなかでかすかに跡形を残していた。