第六章 一節
――亢県、白水。
「伍祝、報告を」
にぎわう街の中心から離れた屋敷の一つに、李彗はいた。
彼の前には腹心の伍祝が額ずいている。大きな体をかがめ、うやうやしい物言いを始めた伍祝の姿は、山仕事や農作業をしていたときと別人であった。
李彗を白水にて待っていたのは屋敷を先に出た伍祝と玉蘭で、あとから飛泉、博朴、蓉秋の三人も到着した。
いま室内にいるのは李彗と苑海、曹達、伍祝である。
李彗は報告を終えた伍祝をねぎらうと、いよいよだと静かな決意をうちにともした。兵を整えれば、すぐに発つ。退路はない。人知れず生を終えてしまう暮らしにも戻れない。李彗はこのさき目指すものを明確にとらえていた。
弟の首をとり、自身が舞い戻る。そのために生き、生かされている。
「徐郡太守よ」李彗は声を発した。
衣擦れと人の動く気配がしたのち、李彗の前で一人が深く頭を垂れる。
「徐郡の兵を借り受ける。皇宮に攻めこみ、討ちとるぞ」
「御意」徐郡太守――曹達は短く返事をした。
伍祝だけを残し、李彗は人払いをした。当面のことを話し終えれば、話題は私的なものに移った。
「お嬢さんは……」伍祝が言う。
佐保の失踪は皆の知るところとなっていた。
「捜させている」短く息をもらし、李彗が返した。
彼女の行方はようとして不明で、街から街への経路をあたっても、宿屋で最近入ったばかりの女を調べても見つからない。個人に買われたならば、発見は不可能に近かった。
李彗は懐に入っている彼女のハンカチを思い浮かべる。たった一枚の布切れのせいで、さまざまな想いが去来した。しかし彼女の身を案じるだけでは何の解決にもなりはしない。
「あれには、返さねばならぬものがあるからな」
気を取り直すように口を開いた李彗へ、伍祝はのんきな声を出した。
「戻っても、あんまり叱らないでやってくださいよ」
李彗は何も言わず小さな笑みを浮かべることで応えた。
期せずして佐保は小琴のおかげで道中の安定を得た。夜は幌のなかで眠れ、食事にありつくことができ、火をおこせ、水をわかすこともできる。移動手段に馬が加わったのも、ありがたいほど快適だ。
旅のあいだ、佐保はよく小琴に話しかけられた。各地を転々とするせいか、小琴の話し相手はもっぱら水丹か風進だけであったらしい。佐保も佐保で、懐かれることに気をよくし、おしゃべりに興じた。だが故郷の話はしなかった。李彗らと過ごした日々は語れても、生い立ちを告げれば異客と知られてしまう。三人からは事情のある娘と思われたが、佐保もわざわざ否定しないでおいた。
あるとき、犬を使って狩をしていた風進と小琴が佐保に獲物を見せてくれた。四つ足の動物で、逆立った毛に乾きかけの赤い血が付着している。内臓の処理も済ませてきたようだった。
水丹が沸騰した湯を準備しており、佐保は調理のために行う準備を前にして気持ち悪さを覚えた。久しぶりの肉だと騒ぐ小琴の喜びようを耳にしながら、吐き気がこみ上げてきて、目の前の光景から目をそらす。
李彗らと一緒にいたときも肉は食べていたが、毛皮の分離に青ざめた佐保のために彼らはみな生き物が食材になるまでを見せないようにしてくれていた。それからずっと、佐保の仕事に動物の処理は含まれなかった。もっぱら文字の読み書きに時間を割き、生活に必要な処置や役割分担も、彼女が想像しうる範囲での女性らしい仕事というものばかり振られていたのだ。無理やり生活のすべを叩きこまれなかったのは、屋敷の人たちが彼女自身の許容をはかっていたのかもしれないと、佐保は今さらながらに気がついた。
「玉葉。小琴と水を汲んどいで」水丹が言った。
この場から放りだされたことに佐保は正直ほっとした。が、解体作業が一般的な家庭に必要なら、いつかはしなければならないはず。想像するだけで佐保は気が滅入った。
水汲みのあと小琴の遊び相手をしていると、胃を刺激するよい匂いが漂ってきた。そのまま食事の時間となり、四人で火を囲んで食べた。佐保が渡された椀の中には少し前まで生きていたものが入っている。口にするのをためらったが、多くの不快感を補って余りある湯気と香りは極上だった。何も考えず口に放りこむ。そして噛んで、飲みこんだ。佐保は椀を見下ろす。久しぶりの肉はとんでもないほどうまく、食の進みなど心配無用だった。
食べ終えた佐保が寝床用の幌を広げていると、木々のあいだから風進と犬二匹が姿を現した。川にでも行って洗ってきたのか、犬の体毛は濡れている。小琴が使い古した布で犬を拭き始めた。
幌の端を木に結びつけていた佐保に、風進は苦笑しながら話しかける。
「狩りを手伝ったからいつもより汚れてやがるんだ。おまけに肉を食らった口で小琴を舐めまわすもんだから、洗ったほうがいいだろう?」
犬にこびりつく血を想像した佐保は思わず顔をしかめた。そこへ水丹がやってきて、佐保の肩に手をのせて言う。
「玉葉。見なかったら、知らないままだ」
佐保は「何がですか?」と、小首をかしげて切り抜けようとした。けれど、水丹の伝えんとしていることはおぼろげにわかっていた。出されたものしか食べなかった食生活が当たり前で、見たくない部分は目隠しでも怒られることはなかった。それを指摘したに違いない水丹の言葉は佐保にとっては都合悪く、わからないふりをして避けたかった。
水丹は優しく笑んでみせる。「小琴を手伝ってやっておくれ」
合図のように佐保の肩をぽんと叩いた。佐保は居心地の悪さから背を向けるように、犬を丁寧に拭いている小琴のそばへ寄った。
朝になり目が覚めると、今度も風進はおらず、小琴は眠っていて、犬たちは相も変わらず佐保の挙動を見つめ、水丹は食事の支度をしていた。
快晴になりそうな青一面の空に、草や葉がこすれあう程度の風が吹いている。心地よく過ごせそうな天候だった。
食事が終われば移動を開始する。馬に乗って進み、休憩してはまた進む。馬を休ませるときは、犬に周囲を散策させつつ風進と小琴が食料採取をしていた。ときおり聞こえる二人の笑い声を耳にしながら、佐保は荷を広げてさぼしている水丹に近寄った。昨夜、彼女から受けた言葉を佐保は横になってから考えていた。そのうちに、水丹への興味がわいたのだ。
佐保は水丹の手もとを見つめた。
「それは? 紙ですね?」
質問すれば、水丹は紙を見せてくる。
「そう。一枚だけ手もとに残っちまってるけど、これがあたしらの売ってるもんさ」
「用途は何ですか?」
佐保は、文字を飛泉に教えてもらっていたときの紙を思いだす。このような薄さで、荒さは屋敷で使っていたもののほうが、ややあった気がする。
「そりゃ、買っていった人の好きに使えばいいさ。何か書きとめるもよし、書簡にも使える出来だ。お役人や金持ちが買ってくれる」
「へえ」佐保は短く返した。「手伝うことはありますか?」
「布を洗ってほしいかな」
水丹から布をあずかり、佐保はひとり川へ向かった。
せっせと仕事をしていると、小琴がやってきた。犬はいなかった。佐保はちらりと少女に視線を向けたが、水に揺れている布へと注意を戻す。それをしぼるあいだに、小琴が隣にしゃがみこんだ。
「紙を見せてもらったんだってな」
小琴は手ごろな石を見つけ、川に投げ入れて遊びだす。
「水丹さんから聞いたの?」作業を止めずに佐保は声をかけた。
川からは石が当たって沈む小さな音が聞こえている。隣からは「うん」と肯定の返事がきた。小琴は石を投げるのをやめ、今度は土をいじった。布を洗い終えた佐保は、手の汚れを気にしない小琴にあきれたような笑みを浮かべた。
「汚れてるよ」
佐保が声をかけても小琴は何やら懸命に土を指先でなぞっている。佐保はしばらく続きそうな小琴の行動から、周囲を見やることに目的を移した。ぼうっとしていると、ようやく嬉々とした声で呼ばれる。
「見ろ、これが私の名だぞ!」
彼女が頑張っていたのは、土の上に自分の名前を書くことだったようだ。佐保はのぞきこんで、首を少々かしげた。佐保の読解力もだが、小琴の字も問題あるように思えてならない。
「へえ」
佐保の手ごたえのない返答を聞いて、少女は先制した。
「へたくそって言うなよ」
佐保は目を細める。「言わないよ。人から言われたら腹が立っちゃうもの」
「言われたことあるのか?」
「いっぱいあるよ。おかげで少しは上達したかもしれない」
「いいなぁ」小琴はうらやましそうに声をあげた。「ちゃんと練習するにも紙や筆の用意が手間だし、字なんか書けなくたって生きていけるからさ。でも自分の名前くらい書きたいから、兄さんに教えてもらったんだ」
土に書いた名前をじっと見つめていた小琴だが、川で手を洗って立ちあがった。
「玉葉、ちょっと待ってろ」
それだけ言うと、少女は軽快な足どりで佐保の前から去った。