第五章 三節
赤々と燃え盛る火から、くべた枝の折れる音がした。
「ひどい顔だな」少女が佐保をたっぷり見回して言う。
足が動かず逃げられなかった佐保は、どういうわけか少女と二人で焚き火を囲んでいた。先ほどまで怪訝な表情をしていた少女も、佐保のくたびれた様子を受けて眼差しが変わっている。
「腹が減ってんだろ?」少女が話しかけてきた。
しかし佐保はうかつに口も利けず、うつむいた。盗みを働こうとしたやましい気持ちと情けない自身を隠したかった。
「しゃべれないのか?」少女が立ちあがる。
火をはさんで反対側にいた少女は、佐保の隣に座った。うつむく佐保の顔の下に果物を持った手をすべりこませてくる。地面しか見えていなかった佐保の視界に、温かみのある色が広がった。つんと鼻を刺激する柑橘類の匂いもする。
「食え」少女は反応を示さない佐保にあきらめず話しかけた。「これ、うまいぞ」
佐保は果物をぼんやりと見た。綺麗な橙色で、なじみのある形と大きさ。この世界で初めて食べたとき、味も日本のものと同じだと思った。
「……香橘?」佐保が小さな声で言う。
ようやくもらえた返事に、少女は満足げに「そうだ」と告げた。
「もらってもいいの?」
「籠にたくさんある。食え」
少女は佐保の手に香橘を持たせた。
燃える焚き火の前で、佐保はちらりと顔を上げる。少女はすでに香橘を食べており、よい香りが漂ってきた。佐保も香橘の皮に指をかける。空腹でしかたなかった彼女に、目の前の果物は魅力的にすぎた。あっという間に食べ終わってしまう。
「もっと食うか?」
少女が籠の中身を見せると、佐保は一も二もなく頷いた。だがそのとき、また別の人影が近づいてきていることに気がつく。今度は複数だ。馬も連れている。警戒した佐保だったが、「姉さん!」と隣にいた少女がうれしそうな声で立ちあがったので、さらに緊張した。佐保はそばから離れていく小さな背中を目で追いかけた。
少女の駆け寄ったところには、男と女がいた。男のほうは二頭の馬の手綱を持って引き連れている。少女が女に何やら話しかけ、佐保を指さした。
「こいつ腹が減ってるみたいなんだ。何かいいもの食わせてやりたい」
少女は女の腕に絡みついていた。「姉さん」という言葉や互いの顔つきからして、年の離れた姉妹のようだ。ふと佐保は自身の姉を思いだしたが、すぐに頭のなかから消し去り、目の前に注意を向ける。
少女の話を聞いた女は、男と不思議そうに顔を見合わせていた。ついで佐保のほうを見て、最後に少女へ視線を戻すと口を開く。
「ねえ、小琴。その人は?」
女の声音は警戒よりも、驚きのほうが多分に含まれていた。
小琴という名の少女はあっけらかんと答える。「拾った!」
夕焼けが木々の隙間をぬって周囲を赤く染めあげ、一帯は多くの影を作っていた。
佐保に声をかけた少女――小琴は、進んで佐保との経緯を男と女に説明した。話しぶりでは印象の悪くなるところは目撃されずに済んだらしく、佐保は安堵した。そのあたりがわかれば、会話もしやすい。いかにして三人に取り入り、しばしの安全と食料を確保するかが重要だ。
佐保が無害そうだと知れば一安心とばかりに、三人は口々に声をかけてくれた。
「街で買ってきたんだけど、遠慮しないで食べてよ」女が食べ物を差しだした。
彼女は名を水丹といい、男は水丹の夫で風進と挨拶した。水丹と小琴はやはり姉妹であるという。三人の説明によると、どうやら彼らは街に泊まる予定を変更し、姉夫婦が馬で買いだしに行って小琴が近くを散策しているところに佐保が現れたようだった。
黙って聞いていた佐保も「玉葉」と名乗り、自身の状況を語ることにした。すると三人は労をねぎらう顔つきで食事と寝床の提供を申し出てくれた。風進などは「野宿で悪いね」と、人のよい顔に困った笑みを浮かべていたが、佐保にとっては願ったり叶ったりだ。
「そうそう。どこまで行くの?」水丹が微笑みながら尋ねる。
夫婦そろってお気楽そうな笑顔だと内心で小ばかにしたが、佐保も水丹に似せた害のない笑顔を作って答える。
「白水です」
「白水か。なら、街から馬車が一番いいよ」風進が提案する。
佐保は下を向いてつぶやいた。「その、旅費が……」
「そうか。でも一人で行くのはどうにも危なっかしいね」
風進の言葉に水丹は大きく頷く。
「このへんはまだいいけど、上からのお達しの、ひどい搾取と食料の徴収で、人さらいやら何やら物騒なことが多くなってるもの」
水丹の言い聞かせるような口調に、佐保は生返事をする。金が盗まれたことはあったが、それは気絶しているあいだの出来事だったので、あまり心に刻まれるような恐怖でもなかった。だから、水丹の言うような物騒なことというのが今ひとつ想像しがたい。
「護衛もない女の子が一人でいたら、そりゃ格好の餌食だけどねぇ。危ない目に遭わなかったの?」水丹が不思議そうに尋ねてくる。
答えあぐねた佐保は自らの行動を思い起こした。が、おそらく水丹の考えているだろう「危ない目」には遭遇していないと思われた。
「はい」
短く答えた佐保に、水丹は目を見開き、ついで安心しきったような笑みをこぼす。
「運がいいんだね」
佐保はぎこちない笑顔を返した。はずみで逃げだし、渡された金を失い、出会った人間には刃物を向けたあげく餞別をもらい、街の門では都合よく金を手に入れた。そして欲を満たすために人のものを奪おうとした。吐き気がするほどの自分の行動のどこが、運がいいという一言で落ち着けるのか。
考えているあいだに風進と水丹は寝るための支度を始めていた。木々に幌をつないで風よけを作っている。そのあと敷物を二重にして地面に置いた。それだけで格段に寝やすそうである。
最後に一家は、幌の中に佐保を招きいれた。横一列でまるで家族のように並ぶと、小琴が犬も呼んで近くに寝かせる。
「鼻が利くんだ、こいつら。おまけに怪しい奴に噛みついてくれるからな、見張りのために近くで寝させておくんだ」
危険の察知には、野生に近い動物のほうが優れている。佐保はなるほどと思ったが、小琴が佐保に近づこうとすれば二匹の犬が小琴にまとわりついて離れない。佐保に牙を向けてはいないが、犬たちの様子では二人が互いにそばにいるのをよしとしないようであった。
「なんだなんだ? 玉葉は悪い奴じゃないぞ?」小琴が犬の前にかがんで疑問をつぶやく。
犬がそうする理由は佐保にはわかっていたが、何も言わず小琴と一緒に不思議そうな顔をしておいた。
「玉葉、ごめんな」小琴が立ちあがり、困ったふうな口調で謝る。
「会ったばかりだもの、なつかないのは当然よ。気にしないで」
佐保が肩をすくめてそう言うと、小琴はすぐにうれしげな表情をした。
「やっぱりお前、いい奴だ。だからきっと天がよくしてくれて、今まで無事に旅ができたんだな。よかったなぁ」
佐保は小琴の顔を見ていた。佐保にとって天とは、神とは、そもそもの元凶を作ったものでしかない。憎みこそすれ、崇め畏れる存在でもなかった。それなのに天がよくしてくれていたとは、何がどうあっても認めたくない話である。
小琴の言葉を受けて佐保は同意を示すように目を細めたが、小琴が背中を向けた瞬間、彼女は誰にも聞こえぬ声で吐き捨てた。
「……そんなわけ、あるか」
その夜、いくら犬が周囲の警戒を担って安全に寝られるとわかっていても、佐保は身についた癖をやめられなかった。横に向いて寝ると、荷物を腹に抱えこむ。すぐに短剣を取りだせるようにして、彼女は眠りについた。