第一章 二節
起きたら全部が夢だったらいいのに。
まどろみのなかでそう願うも、背中の痛さと土の上に座りこんでいる感触に佐保は眉根を寄せた。夢では済ませてくれないようだ。彼女はしっかりと目を覚ます。しかし、状況は一変していた。数歩先の茂みから、こちらをのぞく目がある。琥珀色の中央に黒く細い瞳孔が射るように光っていた。全身は見えないが、毛に覆われた胴体は赤褐色に黒い縞模様だ。
佐保は口をわずかに開いたまま、しばし呼吸を忘れた。――こんなに間近で見たのは初めてだった。その初めてが、最後かもしれないと考えてしまう。視線の先にいる動物は、虎にしか見えなかった。
虎は一歩も動かない。佐保の体も硬直した。しかし合わさった目をはずすのは恐ろしい。そらしたら、おしまい。だがそらさなくても、おしまいなのだろうか。襲ってくる気配はなかったが、油断は禁物だ。気を抜いた瞬間に捕食されるかもしれない。佐保は動向をうかがう。まるで永遠にも近い時間を過ごしている気分だった。しかし微動だにしない虎の姿があまりにも奇妙だと思ったとき、虎は身をひるがえして奥に消えた。
「た……すかった」
緊張の糸が切れ、佐保は大きく安堵の息を吐く。ひとまず逃れることができ、何度も深呼吸を繰り返した。どっと汗が噴きでて首筋を伝い、背中が気持ち悪くなる。寝ているあいだは汗もかかず、かといって寒くもない気温だった。しかし今の汗で体が冷えてきた。替えの服があればいいが、そんなものはない。
佐保は額の汗を手でぬぐった。そして辺りを見る。危機が去ったすぐあとだが、ほかにも悩ましいことがあった。今になって羞恥を催す事態に参りだしたのだ。しかたなく佐保は茂みに隠れて用を足し、その足で川辺へと向かった。どうしようもないことだが恥ずかしい。佐保は、トイレットペーパーの代わりに使ったポケットティッシュを川へ流しながら、情けない気持ちになった。排泄ひとつで、ますます帰りたい気持ちが膨れあがる。手と顔を洗った佐保は口をゆすぐと、川面に映る自身の顔に微笑んでみた。疲れきった、ひどい顔だった。思わずひとりごちてしまう。
「お風呂に入って、温かいご飯を食べて、ベッドに飛びこんで、それから、ああ……」
風邪薬を飲まなきゃ。そう言おうとした瞬間、背後から声が聞こえた。
「そこの方、大丈夫ですか」
こんなことになってから初めて聞いた人の言葉に、佐保は勢いよく振り向いた。彼女には救いの声にしか聞こえなかった。
佐保の視線の先には女が立っていた。髪を後ろでまとめているのか肩口がほっそりとして、華奢な印象を与えている。ちょうど姉くらいの年齢だろうか。そう思った佐保は立ちあがり、見知らぬ女へ泣きつかんばかりに駆け寄った。気がつけば「助けてください」と叫んでいた。
この元気はいったいどこにあったのか、彼女は必死だった。知らない場所に放置され、帰り方もわからない。おまけに虎と遭遇し、寿命の縮む思いもした。自分が何をしたというのか。なぜこんな仕打ちにあわねばならないのか。そう思えば思うほど、涙が止まらなかった。女は、そんな彼女の様子を不思議がることも驚くこともせず、うつむいている佐保へ慎重に言葉を発した。
「大丈夫ですか? こんなところでどうされたのですか」
佐保は顔を上げ、女の怪しむような視線を受けた。しかし、どこか柔らかな女の声音のおかげで落ち着きを取り戻し、口を開いた。とにかく現状を説明しなければ先に進めない。
「あの、ここはどこですか? 私、昨日、気づいたらここにいて……倒れていたんです。でも、そのどう言ったらいいのか……。とにかくここがどこなのか知らなくて、なので帰り方もわからないし、おまけに人が見当たらなくて……それで、ずっと川沿いに」
一人で歩いていた、と言おうとして、目覚めてから今までの行動を思いだした。そのせいでまた涙が出そうになる。唇を噛んだ佐保は、ぐいと手のひらで目もとをぬぐい、話を再開した。
「一人で歩いて、ここでやっと人に会えて……。それで、お尋ねしたいのですが、街はどこにありますか? 警察に行きたいんです」
警察に行けばなんとかなると佐保は思った。未成年だから事情を説明すれば保護してくれるだろうし、家への連絡や、あるいは親もとまで送り届けてくれるかもしれない。佐保は焦った表情で女の言葉を待った。
女は困りきった顔をしていた。なぜ困っているのか、佐保には見当もつかない。ひょっとして街が近くにないのだろうか。
しかし女は、不安げな佐保に気づかず答えを口にした。
「街は、ここにはありません。けいさつ、というのは官ですね? 残念ですが、この辺りはそういった管轄はないのです」
佐保は、女以上に困り果てた顔をした。帰れるか帰れないのかすら、不明な返答だった。
ややして佐保は尋ねた。「あの、ここは**県ですよね?」
まさか県をまたいで車で移動し、捨て置かれたのだろうか。
住んでいる県の名を口にした彼女に、呆気にとられたような表情を見せた女は次の瞬間、「……異客」と小さくつぶやいた。佐保は聞きとれず首をかしげる。が、腕をつかんできた女に、自身の陥っている状況が只事ではないと悟った。
「ここで話すのは、よしましょう」女が言う。「あなたはお疲れのご様子。よろしければ我々の住まいに」
「えっと……あの」
家に招いてもらえるようだが、赤の他人の家に上がるのは、ためらわれる。しかし願ってもない申し出だった。屋根があり、岩や地べたに座らずに済む。おまけに食事にありつけるかもしれないのだ。その気持ちは佐保の首を縦に振らせていた。
「お邪魔でなければ、お願いします……すみません」
頭を下げて頼んだ佐保は、顔を上げた先にある女の不憫そうな表情にこれからどうなるのか不安を覚えた。しかし女はその表情を消すと、今度は温かみのある笑顔を佐保に向けた。
「ご安心を。悪いようにはいたしません……あなたが危害を加える者でないかぎり」
ただ口調だけは、やけに張りつめていた。
川辺から離れ、茂みを進む。佐保はただ女の後ろをついて歩いた。混乱もおさまり落ち着くと、少しばかりの余裕も生まれる。佐保は女の背中を眺め、先ほどまで露も思わなかった不思議な点に気がついた。女の衣装だ。どこか変わっている。だが見なれた感じもし、それが和装のつくりと古代中国の衣装に似ているからだと合点がいった。向かい合ったときの姿を思い起こせば、右前のつくりで帯があったはずだ。しかし着物とは違って上下別々の布で切り換わっている。やはり教科書にある漢詩の作者の絵姿にそっくりな格好といったほうがよかった。
女が佐保へ振り向く。「もう少しですよ」
その言葉どおり、辺りの風景が少しずつ変わってきた。人の手入れが入っている証拠だ。周囲にはごつごつとした大きな岩が転がり、膝下より低い草花が生えていた。
佐保は歩いているあいだも、女の服装が気になった。普通の格好とは違う人間について行くのは危険ではないかと、自らの選択に不安を覚え始めていた。しかし今さらである。咲いている草花が減り、明らかに人が歩くための小道が目の前に現れ、畦のような場所を歩いていくと、ならされた土が広がった。
「こちらです」
女は、右手を持ちあげて一点を示した。佐保は女の示す先を見て、ようやく人の居住する場所を拝めたことに安堵の息を吐いた。と、同時に緊張した。
どうぞ、という女の言葉に頭を下げた佐保は、敷地に足を踏み入れる。古びてところどころ亀裂の入った白い塀。門をくぐると、奥は塀に似た外観の壁が視界の隅まで支配していた。いくつかある平屋を廊下で結んだ、大きな屋敷のようだった。もの珍しい視線を隠さずにいた佐保は、門からすぐの建物に案内される。その一室の椅子に座らされると、女は「少々お待ちを」と言い部屋から出て行った。一人になった佐保は部屋を眺め、考えた。広さはおそらく自分の部屋と同じか、それより少し広めなだけだろう。入り口には扉もなく、質素な一間だった。あるのは中央に設置された机と、椅子が二脚。そのうちの一脚に佐保が座っている。
しばらくすると、入り口から声が聞こえた。思わず佐保は背筋を伸ばし、太腿の上で組んだ両手に力を入れた。
「お待たせしました」
そう言って姿を現したのは先の女と、もう一人、女と年の近そうな男だった。この男も、女と似たような格好をしていた。だが上背がある。まじまじと見つめたつもりはなかったのに、男は佐保の視線に気づいて破顔した。
「珍しいものでも見たようだ」
そう言った男に、肩をすくめて笑みをこぼした女は手に持った盆を机に置き、湯飲みを佐保の前に差しだした。
「……ありがとうございます」
お茶の香りに、佐保は湯飲みへ手を伸ばした。遠慮のない手つきや、それをはしたないと思う感情にもかまっていられなかった。昨日から冷たい水ばかり口にしていたのだから、ありがたい代物だ。しかしさすがに恥ずかしく、半分を飲み終えたところで湯飲みを戻した。
佐保のその姿に、女は入り口に立っていた男に目配せをする。すると男は出て行き、間もなくあるものを抱えて戻ってきた。急須と、大きな盆を器用に掲げている。盆には雑炊の入った椀と、果物がのった皿があった。それらが机に置かれると、女は佐保の前に椀と匙を並べて向かいの椅子に座った。男は入り口付近の壁に寄りかかったまま、部屋から出て行く気配を見せない。
「さて、お話をいたしましょうか。あなたのことを聞かせてください。ですが、その前に……」
ためらいがちなふうを見せた女は一息置いて、眉を下げて微笑んだ。
「時間はたっぷりありますから、まずはどうぞ、めしあがってください」
なぐさめられているような声音だった。