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異境譚  作者: おでき
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第五章 二節

 木々の奥へ進んだ佐保は、山道を見つけた。近くに小川も発見し、水の補給をする。水面をのぞきこめば小さな魚が泳いでおり、彼女は思わず腹部をおさえた。

(おなかすいた……)

 泳ぐ魚で空腹を覚えるのも情けない。佐保は手ごろな岩場に腰かけ、西山がくれた食料を口にしながら、今からどうすべきかを考えた。しかし答えは出ない。目の前の小川にしても上流と下流のどちらに進むかすら判断できず、やはり街で経路の確認をしなくてはいけなかった。とは言いつつも騒ぎを起こした手前、戻りたくないのが正直なところだ。

 数日ほどなら野宿もできよう――その気持ちに押され、佐保は街へ戻る案を後回しにした。

 それよりもすでに日暮れが迫っている。今夜から野宿の生活だ。佐保は一夜を明かすための場所を探したが、都合よく平坦な場所や洞穴などは見つからず、考えたあげく虫がいそうにない木に背中をあずけ、頭に布をかぶせて寝ることにした。

 木々に差しこむ光が細くなり、景色は徐々に暗がりを帯びていく。視界の悪さが明かりを恋しくさせた。だが水は豊富でも火はない。さらに夜の闇が深くなれば、野生動物や危害を加えそうな人間に見つかる不安もある。目が冴えてきたが、佐保はふと短剣を取りだし、手もとに置いてみた。それだけで安心感を覚える。

 結局、心配するような事態は訪れず、寝たり起きたりを繰り返して彼女は朝を迎え、探索を始めた。川に面した木の皮に短剣で傷をつけ、枝に別の植物のつるを結んでおく。そうして目印を残しながら、上流から歩を進めることにした。

 三度の野宿をした日には、川に沿っていた道がはずれだした。行く先は生い茂る草木で険しくなり、動物の住処もありそうだ。佐保は立ち尽くして自身の格好を見下ろす。食料もなく軽装で、靴も消耗が激しくなるだろう。装備もないまま奥へ入るのは無謀というものだ。これ以上は断念し、来た道を折り返した。

 途中で果実を採取し、時間をかけて目印をつけた場所へ戻る。その早朝、佐保は服を洗い、岩場で干した。下に着ていた薄い衣の姿になって木々のなかでじっと過ごし、昼間に川で体を洗ってからは乾きかけた服を着て、下に着ていた分を洗う。暖かな気温だが水をかぶったので体が冷えた。衣を乾かす岩場の隣で日の光を浴びながら、佐保はうつらうつらと眠る。一日がかりの仕事だった。

 明日から数日、下流のほうへ歩く。何の収穫も進展もなければ、覚悟を決めて街へ戻らねばならないだろう。悪いことをしたわけでもないが、どうしたって抵抗はある。だがそうも言っていられないほど、ここ数日は不満が多くてかなわなかった。佐保は大きな溜め息をもらし、口もとをゆがめる。

「川辺にいるのだから、話せる虎とか女の人とかやってこないかな」

 我慢ならずに吐いた言葉は気分をまぎらわすための冗談だったのに、余計に苦しくなった。

 皆どうしているのだろうと佐保は心のなかで一人一人の顔を思い浮かべた。こんな状況だからか、会いたい気持ちが強くなる。しかしながら身勝手な行動を起こしたせいで、彼らと再会できる機会が巡ってきたとしても会ってくれるかはわからない。佐保はもう一度、嘆息した。


 厳しい体勢で浅い睡眠を幾日も続け、水と乾物と果実で食いつなぎ、下流のほうへ歩く。

 けれど言いようのない疲労感に、佐保はとうとう川の近くに座りこんでしまった。歩きに歩いた足は熱をもってむくんでいた。靴を脱いで素足を風にさらした佐保は、通った道を見るために振り返る。上流へ続くはるか向こうに、切り立つ岩肌があった。

 休憩しているあいだに日は中天から傾いていた。夜の明かりは月のみだ、日没までに今日の寝床を確保せねばならない。佐保は動きの鈍い体を叱咤し、立ちあがった。途中、枝から広がる大きな葉を短剣で何枚か切りとった。葉は人の膝下の長さほどあった。佐保は適当な木を見つけ、真下に葉を敷いてその上で丸くなった。

 木の枝と葉の隙間からは赤い空が見えている。佐保はまぶたを下ろす直前、李彗に教えてもらった夕焼けの色の名を思いだした。けれど逆立つようなみじめな感情が支配している今、景色を見ることすらどうでもよくなるものだ。

 短剣を胸もとで握りしめ、その日は眠った。


 空が白む頃に佐保は起きた。地面に敷いていた葉も回収して動きだす。いささか荷物にはなるが、あれば便利そうな葉だ。休むときに使おうと佐保は思った。

 それよりも問題は食料である。乾物はほぼなく、上流で採取した果実も尽きた。水で空腹をごまかして食料の消費を抑えてはいるが、もうどうしようもないところまで(ひん)している。

 のろのろと歩きながら、佐保はぼうっとする頭で考えた。

 ――食べ物がほしい。それをたくさんつめこめる籠と袋がほしい。木や草から守る手袋がほしい。寝そべられる板がほしい。火がほしい。火があるなら蝋もほしいし、油もほしい。温かな湯も、布も、服だって靴だってほしい。

 ほしいものが頭に浮かんでは次々と消えていく。

 そして何より、人が恋しかった。誰かになぐさめられたい。守られたい。助けられたい。

 だが、そこまで考えて急に笑いがこみあげてきた。体の底が冷えていくような静かな嘲りが生まれる。佐保の足は止まった。

 結局、誰かに頼っていたいのだ。甘えていたいのだ。苑海の「しっかりしていただきたい」という言葉を認めたくはなかったが、どうやらぴったりな言葉だったのだろう。

 佐保はかがんで、転がっている石を取った。手のひらにおさまるほどのそれを、わきあがった衝動のまま思いきり川に投げつける。流れのなかに落ちた石はたいした音も立てずに視界から消えた。彼女は石を手にし、何度も川へ放りこんだ。勢いよく落ちれば、少しだけ気がまぎれる。それで憂さを晴らす自身を、彼女は滑稽だとますます笑った。笑っているうちにむなしくなってその場にうずくまった。

「何やってるんだろ」乾いた笑いを引っこめて、つぶやく。

 このままではおかしくなってしまいそうだった。明日の心配どころではなく、今日のことで不安になる。佐保は川をのぞきこんだ。黒髪がほつれ、ひどい顔をした姿が映っている。水面を指先で払うと滴が弾け飛び、光を反射した。

 街へ戻ろうか。

 頭のなかで響いた声は、無視しきれない大きさになった。佐保は水で濡らして髪をできるだけ整え、立ちあがる。空を確認すれば日は昇りきっていた。じき西へ傾く。今日も野宿だ。

 佐保は、眠る場所の確保と、食料や何か使えそうなものはないか、周辺を見渡しながら歩いた。そのとき、遠い向こうに人影を見た。思わぬ光景に驚き、声が小さくもれる。が、どうも信じられず、願望が幻として現れたのかと目をこらした。人影がなくなる。やはり見間違いか。佐保は落胆した。

 今度は動物の鳴き声がした。人の見えたほうから、犬が吠えているらしい。

 緊張を催しながら、佐保はゆっくり近づくことにした。はっきり確認できる距離になると、彼女は理解した。犬だ。木に紐でつながれた犬が一匹いる。口の隙間から鋭い歯を見せ、警戒心をあらわにしている。佐保は、犬の届かないところで足を止めた。

 犬の近くには、焚き火をしたような形跡と、ほしいほしいと願っていた籠があった。それだけではない、食べ物もある。籠はちょうど片手で持てる大きさで、中には大小さまざまな果実が入っていた。

 佐保はごくりと唾を飲んだ。鼓動が早くなる。周囲をじっくりと見回した。何度も慎重に繰り返したが、犬しかいないようだ。

(盗んでしまおうか)佐保は籠をじっと見つめた。

 問題は犬だ。襲いかかってきたらと想像し――持っている短剣を思いだした。

(これさえあれば)

 浮かんだ考えに、佐保は恐ろしく感じた。しかしほかに、欲求を満たす上手な解決方法を知らない。考えれば考えるほど後戻りのできない方法ばかりに偏っていく。

 佐保はみじめな気持ちを抱きながら、自らを奮い立たせた。

 いま実行すれば、この先が楽になるのだ。生きるためだ。生きやすくするためだ。決して悪いことをするわけではない。なぜなら、しかたのないことだからだ。

 犬の声が耳に張りつく。頭のなかで誰かが、やってしまえ、やってしまえと言っている。うるさいくらいに響く、犬と誰かの声。そこにもう一つ重なった。

 ほしい。ほしい。ほしい。どうしてもほしい。

 渇望が駆け巡り、ついに佐保は短剣を出した。出したまではよいが、鞘から抜けない。犬が彼女を見て低くうなっている。

 彼女は汗を額に浮かべながら、胸中で言い訳を描いた。

 籠も中身も、本当はまっとうなやり方で手に入れたい。けれどどうしようもなくなったから、こうするしかないのだ。できるなら盗むだけで終わりたい。最初から短剣で犬に害を加えるつもりはないのだ。西山にも危機感から刃を向けたが、それだって「ふり」をしただけだ。ただ身を守るにはこれを握っておくのが一番の方法だからだ。自分は悪くないはず。

 佐保の呼吸が荒くなる。多くの言葉を心のうちに並べても一つとして口から飛びださないのに、いやに唇が乾いていた。

 こんな機会はそうそうない。意を決してせねばならない。早く、早くと、さらに気持ちを急かす。

 犬だけだ。邪魔なのは犬だけだ。あの、たった一匹。

 ――私は。

「私は、悪くないはず」

 佐保がつぶやいた途端、犬の耳がぴくりと動いてうなり声を止めた。佐保は急な変化に驚いてあとずさる。犬が木々の向こうに視線をやった。つられて見ると、枝を踏みしめる音が近づいてきた。

 佐保は短剣を荷物に隠す。そのとき木々のなかから少女が出てきた。佐保よりいくつか下の、まだあどけない顔をした細身の子供。少女は木につながれたのとよく似た犬をもう一匹連れていた。

「あんた誰だ。ここで何してる」

 木にいる犬のそばまで来た少女は、険しい目つきを佐保によこした。

 佐保は動揺する。けれど葛藤する心境から逃れることができた。

 一度やってしまえば二度目などたやすい。見咎められてよかった。邪魔をした少女をうとましく思う心もあったが、佐保はそれを良心で上塗りして消した。

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