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異境譚  作者: おでき
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第五章 一節

 集落もない道を昼間から歩いて足も疲れた頃、街の全体を囲う壁が現れた。警備をする役人が数人ばかり、街の門前にいる。

 佐保がそこから入ろうとすると、「通行料」と呼び止められた。あ、と彼女は口を開く。最初に通ったときは馬車のなかにいたから、そんなものが必要だと頭がまわらなかった。佐保は荷物を持つ手を握りしめて考える。お金はない。いや、あるにはあるがそれは西山がくれたものだ。いくら払うのか不明なうえ、さっそく使うのもいやだ。どうにかして入れないかと思案してみたが、一度あきらめて、門前の役人に尋ねることから始めた。

「あの、出入りをお尋ねしたいのですが。数日前にここを通った馬車で、街に宿泊していました。その人たちが出て行ったかどうか聞きたいんです」

 佐保の問いに、役人は面倒そうに答えた。

「いちいち覚えてるわけないだろう。どれだけ往来があると思ってるんだ。それに注意するのは『入る』ときだけだ」

 あっちへ行けとばかりに手を振って追いだそうとする役人に、佐保は食い下がった。

「待って、ちょっと待ってください。すみません、宿の名前を知らないのでどうしようもないのですけれど、その人たちの特徴を言いますから、お心当たりがあれば教えてください」

 佐保は周囲から見物人の視線が集まっていることに顔が熱くなった。だが恥ずかしさを我慢する。こんなに声をあげて必死になれることに、彼女も内心驚いていた。

 そこへ別の役人が現れた。大きな図体だ。腹を揺らして歩いてくる。

「あんた、名前は」

 佐保の前に立つやいなや、腹の出た役人はそう言った。

 佐保は立木と名乗ろうとして、とっさに言いかえる。

「玉葉……玉葉といいます」

 最初にいた役人とあとから現れた大きな役人は互いに顔を見合わせた。何事か話しだす彼らに、佐保は困惑顔で二人の様子を黙って見る。やがてあとから現れたほうが口を開いた。

「あんたは玉葉だな?」

 念を押す言い方におかしく思いながらも佐保は「はい」と答えた。

「ああ、なら、伝言をあずかってる」

「伝言? 本当ですか! あの、それは……」

 期待が膨らんだ佐保は腹の大きな男に言ったが、途中で思い直したように口を閉じた。李彗という男からかと問いたかったが、彼の名前を出すことに躊躇し、質問を変える。

「それはいつですか?」

「さあ、何日か前だったな」

 役人は適当な調子で答え、門の隅に寄った。佐保は追いかけ、男の背中越しに声をかける。

「すみません、伝言を教えてくださいませんか」

 役人の男が彼女へと振り向いた。そしてなぜか懐から硬貨を取りだしてみせる。

「先にて待つ、だ」

「え?」

 硬貨に視線をやっていた佐保は役人を見上げた。男は二度も言わなかった。佐保は足もとを見ながら、役人の言った意味を考え、理解した。

 もし伝言が本当なら、彼らはもうここにはいない。先で待つというからには白水しかない。佐保が出て行ってから、彼らは宿を発ち、目的地を目指しているのだろう。佐保はそれを理不尽に感じた。が、逃げだした人間の帰りを待つか待たないかは彼らの自由だ。待っていてくれなかったと思うだけでは、いつまでたっても不平不満ばかりを溜めるだけの考え方が染みつくだけである。

 暗くなりがちな気持ちをおさえて、佐保は男を見た。

「伝言は、それだけでしたか?」

「ああ」

 にべもない返答に、佐保は念のため尋ねておく。

「ありがとうございました。……行き先等、何かわかることはありますか?」

「知らんな。ところで」男は佐保の前に硬貨を突きだした。「これだ。こっちのほうが重要な話だ」

 硬貨は先ほどからこの役人が持っていたものだ。紐に通された十数枚がわずかに揺れている。銅も見られたが、貨幣価値では銅よりも高い銀色がその多くを占めていた。

「これはあずかりものでな、伝言を残した奴が俺によこしてきたんだ……玉葉に、伝言とともに渡せってな」

 佐保は硬貨と男を見比べた。男は自身のほうへ硬貨を引き寄せ、続ける。

「だがな、俺がいなくては、あんたも困っていただろう。伝言も受けとれねぇし、金だって手にできねぇんだ。よって今回は、俺に対しても気持ちを分ける必要があると思わないか?」

 役人は得意げに言い終えると、硬貨の紐を揺らした。二人をはさんだちょうど真ん中で、小さな金属音が鳴る。彼女は目を見開いた。硬貨が互いにこすれる音の向こうで、男がにやにやと笑みを浮かべているのがよく見える。

 佐保は右手をぎゅっと握りしめた。そして屁理屈に敗れる悔しさを飲みこむ。ここでもめるのは得策ではないし、相手もやすやすと硬貨を渡しはしないだろう。

「では、どれくらいで?」佐保は動揺を気取(けど)られぬよう、相手の目を見据えた。

 男は紐にぶら下がる硬貨を手のひらにのせる。「話が早い。かしこいのは好きだぜ。半分だ」

「半分?」

 驚きに声を荒らげそうになったが、こらえる。あまりに横暴だと盾突きたいのに、主張できない佐保は唇を噛んだ。このままではやりこめられてしまう。

「いくらなんでも、それはおかしくありませんか?」

「それはあんたの都合だ。俺の都合とは違う」男がせせら笑った。

 悔しさとともに、腹立たしさが彼女の喉もとまでせり上がる。往来でいざこざを起こし、一人で立ち向かうのもつらく、さらには恥をかいている。何も言えない彼女に、男は続けた。

「穏便に済ませないか? かわいいお嬢さん」

 その瞬間、佐保は羞恥が吹き飛び、怒りに支配された熱が内側から弾けた。苑海の言葉を思いだす。物わかりのよさをかわいいと言われ、自身の発言や感情を押しこむのを皮肉られたときのことだ。今の佐保にはこらえがたい屈辱だった。彼女は勢いに任せて口を開く。

「もともと私がいなかったら、お金を手にする機会もなかったはずだわ!」

 突如として張りあがった声に、二人のやりとりを見ていた周囲の人間が少しのあいだ静まり返る。だがすぐに人々の話し声は聞こえだした。

 いくらかの見物人や、通りすぎていく人もいるなか、佐保は男の驚いた顔を見ていた。女の身でそんな口を利くわけがないと思われていたのか、役人は未だ呆気にとられた面をしている。佐保にとっては好都合だった。彼女は役人から硬貨を取り、紐をほどいた。硬貨を数枚むんずとつかむと、その男に乱暴に押し当てすぐに手を離す。役人の男は慌てて手を広げたが間に合わず、金は地面へと落ちた。

 男がちらりと下に目を向けた瞬間、佐保は背を向けて走りだす。

「おい、待て!」

 制止の声が聞こえても、佐保はかまわず街を囲む外壁に沿って駆けた。後ろを振り返りたかったが、とにかく誰の目にもつかないところまで姿を消し去るのが先だ。しかし病みあがりではすぐに息切れがして足も重くなる。

 視界の向こうには木々があった。あと少し頑張れば、たどり着ける。佐保は何度も息を大きく吸いながら足を動かし、ついに木々の前で力尽きた。木にもたれて座りこみ、走ってきた道を見る。人っ子一人いなかった。追われるようなことをしたつもりもないが、役人に捕まらず、佐保は一安心した。

 休息をとるあいだ額の汗をぬぐい、あれこれと考える。もうあの街へは入りにくい。野宿かと思案した佐保は、手に持っていた硬貨を顔の前まで持ちあげて眺めた。銀貨が減っている。役人の男に投げたのは、価値のあるほうだった。佐保は思わず舌打ちをしそうになる。奪ったまま持ち去るか、せめてなぜ銅貨にしなかったのかと後悔しても、もうどうしようもなかった。

 佐保の手から、だらんと力が抜ける。紐につながれた残りの硬貨が地面に広がった。木肌が手を刺激して痛みを感じるが、体勢を変える気も起きない。しばし目を閉じて動かずに、風の音を聞く。髪が揺れる耳のそばでは落ち着きのない脈打つ音もして、どくどくと鳴っていた。ついこのあいだもこんなふうに走っていたなと、佐保は思いだし苦笑いした。

 あのときは、つらくてしかたなかったからだ。傷つきたくないから逃げた。泣いて叫んで、雨のなかをわめいて走った。それが今は涙の一粒も出てこない。くじけそうな状況には変わりない。なのに、泣きたいと思っても当り散らしたいと思っても、そういった行動には移せそうになかった。自分以外にすがる行為がどうしてか許せなかった。

 ふと彼女は先ほどの役人の顔を思いだす。硬貨を押しつけたときの驚きようといったら、痛快なものだった。笑いがこみ上げてきて、知らず口もとが緩まる。けれどそれも長くは続かず、笑みを引っこめ、佐保は自身を見た。長くなった髪は綺麗な黒とも言えず、爪の表面はつやもなくて、指先は荒れて皮膚が厚く、かたい。仕事をする手になったのだろうが、日本の同じ年頃の子と比べると柔らかみや張りをなくしたようで、むなしい気持ちになった。服を見れば地味な色合いに装身具の一つもない。おしゃれも化粧もできない。ときめくようなことも夢中になれるものもなく、明日がどうなるかわからない生活に陥っている。この差は何なのか。いらぬ苦労ばかりしているように思えて、佐保は参った。

「……ちくしょう」

 かすれた声で今まで口にしたことのない言葉を吐く。慣れない文句は、さまになっていないと思ったが、この言葉が今の自分を表せそうで何度かつぶやいた。するとなじんできたのか、違和感なく口に出せるようになる。

 目的地はあっても手順や計画が何もない。のたれ死ぬのもいよいよ冗談ではなくなったのかもしれないと、佐保は他人事のように考えていた。

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