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異境譚  作者: おでき
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第四章 八節

 佐保は残り一つとなった薬を飲んだ。もらった夜に飲み始めた薬は、この朝の分で終わった。

 昼すぎ、薬をくれた瑛瑛がやってきた。

「どうだい調子は」

 部屋に入るなり瑛瑛が、寝台に座っている佐保を見下ろして言う。

 佐保が答えようとすると、遅れて入ってきた西山が声をあげてさえぎった。

「まだだ。時間がかかりそうだ」

 佐保と瑛瑛は、扉の前に立っている彼へ振り返った。瑛瑛は佐保に視線を戻し、彼女をつまらなそうに見やる。

 西山が再び瑛瑛に言った。「起こしていると体に障る。寝かせてやりたいから、悪いが帰ってくれないか」

「なんだい、そんなに駄目なのかい」

 がっかりした声と表情の瑛瑛を、西山は有無を言わせぬ雰囲気で追い返した。彼の態度に驚いていた佐保は、瑛瑛に薬の礼を言いそびれてしまった。

「あの、そんなにひどい状態ではなくなったと思うのですが」

 瑛瑛を見送り室内に戻ってきた彼に、佐保は声をかける。無茶をしなければあと数日でよくなるはずだ。

 西山はちらりと彼女を見たが、何も答えなかった。彼は懐から小さな袋を出し、そのほかにもさまざまなものを机に広げだす。そして「すぐに、ここを出なさい」と口を開いた。

 机の上には日持ちする食料が少しと、竹の水筒や折りたたまれた布が並ぶ。小さな袋のほうは、小指の爪の半分にも満たない原石に、銅の硬貨が入っていた。

「道をずっと右に進めば、君の倒れていたところに戻る。金は少ないが、数日は食べられるはずだ。困ったら小袋の石を売るといい。君の翡翠ほど価値はないが」

 西山は言いながら風呂敷のような大きな布に品物を包んでいき、肩にかけられるようにした。そして事態が飲みこめぬ佐保へ、原石と硬貨の入った小さな袋を渡す。

「あの……」

 佐保はそれしか言えなかった。けれど西山のまじめな表情を見て、本当に今すぐ出て行かなくてはいけないのだと理解する。彼の態度の急変も、あまりに唐突すぎる別れも、ひどく心細い。

「西山さん」

 暗い顔をした佐保が声をかけると西山は彼女から一歩下がり、足もとに視線を落として小さな声を発した。

「僕は、君の体調がよくなったら瑛瑛に売ろうと思っていた」

「……え?」佐保が戸惑いの声をもらす。

 西山は顔を上げて、かたい表情で言った。「君を売るつもりだった。代わりに、娘を返してもらおうと」

 佐保は西山から目を離せずにいた。彼は独白のように言葉を続けた。

「瑛瑛は斡旋をしているんだ。女たちを売り買いし、宿に連れて行く。……君を拾ったのは娘と年が近そうで、体型も似ていたからだ。娘とは、前に会えたとき、苦しくなったらいつでも逃げておいでと伝えたが、それきり音沙汰もない。『知らない男』から言われて気味が悪いと思ったんだろう。瑛瑛は時期がくれば娘の『稼ぎ時』は過ぎ去るから待てなどと馬鹿げたことを言う。そんなの、待っていられるわけがないだろう。だから君を取引の材料にしようとした」

 西山の発言に、佐保は不思議と動揺することはなかった。

「もし私が瑛瑛さんのもとへ行けば、娘さんは帰ってこられるのですか?」

 佐保が静かに尋ねれば、西山は驚きつつも答える。

「そんなことありはしないだろう。どこかで理解していたさ。若い女は大事な商売道具だ。もう一人、ただで手に入ったと喜ぶだけだ」

 佐保には、西山が包み隠さず話したように思えた。それが引っかかった。

「どうして、私に? 正直に言うのは、娘さんを取り戻せるわずかな可能性も消えてしまいませんか」

 彼女の指摘に西山は机へ向き直り、まとめた荷物を両手で持った。それを佐保に渡すと、再び彼女に背を向けて小さく肩を震わせる。

「子供のためなら、親はどんなこともできる。善悪も正否も超えた感情だ。けれどそれが、すべて愛情だと言いきれるならば、どんなに楽だったか。わかるかい?」問いかけた西山はしかしすぐに打ち消した。「いや、答えなくていい」

 佐保は彼を見つめていたが、渡された荷物に目を落とした。ぐずぐずとその場で身動きせずにいると、西山はつとめて平淡な口ぶりで佐保を促す。

「立木さん。急ですまないが……頼むよ」

 佐保は目を閉じ、ゆっくり開けると部屋を見渡した。お世話になった場所だと思うと感傷的な気分が訪れる。西山とも突然の別れになったが、なすすべもなかった。佐保は甘んじて受け入れた。こうして拾われ看病してもらい、薬も飲むことができ、寝床と食事にありつけた。おまけに路銀と食料、換金できるものまで与えてくれた。どんな意図や理由があったにせよ、親切を受けたことに変わりはない。だまされたと憤るのも、彼を恨み、がっかりするのも筋ではない。が、やり場のない複雑な気持ちはあった。それを飲みこんで佐保は別れを告げるために頭を下げた。

「借りたものをお返しできないこと、お許しください。お世話になりました。本当にありがとうございました。……お元気で」

 西山の背中に声をかけた佐保は、そのまま部屋を出て行く。戸を開けて外に踏みだせば、日輪が彼女の影を作った。木の枝葉が風にさやさやと鳴っている。佐保は荷物を肩にかけて、深呼吸をした。それから、ゆっくりと後ろを振り返る。彼女がいた西山の家は外から見ても小さく、脇にはせまい畑と、一人分の農具が置いてあった。

 佐保は前に向き直り、歩きだす。が、ろくに進まないうちに後ろから物音が聞こえた。西山が駆け寄ってきている。

「西山さん?」いくらか緊張をもった佐保が声をかけた。

 彼は一呼吸おくと、右手を差しだした。「楽しかったよ、ありがとう」

 佐保は西山の顔と彼の右手を交互に見た。握手を求められている。それだけのために家を飛びだしてきたのだろうか。佐保は西山の右手をつかんだ。ごつごつして節くれだった手だった。息を整えた彼を見やれば、ほんの少しだけ眉間にしわを寄せて困ったように笑っている。佐保は彼の顔から目が離せない。年を重ねていく男の人のにおい、日焼けした首、ところどころに浮かぶしわ。もし父親が生きていたら西山の年の頃かもしれない。熱いくらいの西山の手に、いろいろな感情がこみ上げてきて佐保は涙が出そうになった。

 楽しかったというのは別れ際の気遣いか、彼の心境など知る由もないが、まったくの嘘だとも思いたくない。自然と離れていく互いの右手から、佐保はしっかりと彼を見て、一言だけ告げた。

「さようなら」

「元気でね」

 西山も、それだけこぼすと背を向けた。

 見送ることなく彼は家に戻り、佐保も振り返りはしなかった。

 西山からは多くの話を聞いた。聞きたくないこともあった。嘘だと思いたい内容もあった。が、知らぬままでよかったわけでもない。

 瑛瑛が佐保の不在に気づいたとき、彼はどうなるのか。取引の約束を反故にしたと言われ、彼の娘の働きを代償に、親子で暮らす日が余計に遠のくのだろうか。ただでさえ西山の娘は自身の父親が誰であるか忘れているのだ、彼ら二人がともにいられる時が訪れるのかもわからない。

 それにもう一つ。西山の言ったことが本当なら、いずれ記憶をなくすおそれもあるのだ。得体の知れない恐怖を頭に描けば、佐保は震えを起こしそうになる。だが今は考えたくなかった。

 佐保の気持ちとは反対に、空はどこまでも青一色に澄んでいた。旅立ちに似合った晴天ではあるが、どことなくざわついている気持ちには焦慮を生むだけで憎らしい。彼女は目の上に手をかざして空を見た。

(神頼みなんて、ごめんだわ)

 どうにか現状を打開したいが、西山の話を聞いてからというもの、藁にもすがる思いはあるも神頼みには至らない。佐保にとってこの世界の神や天などの存在は、信じるに値する気持ちを与えるものではなかった。

 何も頼れず心のよりどころもない。自業自得とはいえ、とうとう一人きりで立つ瞬間がきていた。

 まずは逃げだした場所に戻り、宿で彼らの居所を確認する。会えれば謝りたおして白水に連れて行ってもらう。会わなかったり、会えても振り払われたりしたら、自力で白水に行く。どのみち白水に行かねば活路を見いだせない気がした。

 頬を打つ風に、佐保は決意を新たに歩きだした。

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