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異境譚  作者: おでき
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第四章 七節

 ひっそりと静まりかえった部屋には、女の手荷物があった。しかし持ち主はすっかり行方が知れない。

 今夜は昼間の曇天が嘘のように月が冴え渡っていたが、李彗は眺める気になれず、窓に背を向け自らに拝礼する老齢の男を見た。

「言いたいことはあるか、苑海」

 申し開きの有無を投げかける口調に、苑海は言葉を並べた。

「もうすぐ配下と合流したはずの伍祝らと落ち合う予定でありましたのに、気の早い娘さんでいらっしゃる」

「二度はないと忠告したはずだ」李彗は答え、口を閉じた。

 佐保がいなくなった。気がついたのは彼女が消えてしばらく経ってからである。様子を見に訪れた部屋はもぬけのからで、探し回っても見つからない。そんなとき苑海と出くわし、李彗はようやく彼女の失踪を知った。急ぎ近辺を調べたが足どりつかめず、間もなく夜のとばりが下りた。

 李彗は気持ちをしずめ、最悪の予想を否定するように強い声で命じる。

「我らは先を急ぐ。ここでは融通のきく役人に手を打っておけ。彼女が戻ってくるかもしれぬ。だが白水への道中にて見つからぬ場合、到着後は黄冊および異客と思しき女を調べ、白水から徐々に広げ捜索にあたれ」

「仰せのままに」と返す苑海は、言いそえた。「あの虎殿が珍しく人にかまっているのです。危険が迫れば助けるかと。もっとも、若君におかれては気休めにしかならぬでしょうが」

 李彗はもう何も答えなかった。彼の手には、佐保の持ち物があった。彼女がとても大切にしていたハンカチだ。李彗はそれを持ったまま、静かに目を伏せた。


 異客の話をしてからというもの、佐保と西山には仲間意識のようなものが生まれていた。

 佐保は、少しの住まいを得る代わりに彼の家の手伝いをするようになった。体調のせいで役に立っているのか邪魔をしているのかわからない仕事ぶりに彼女自身はいらだちもしたが、西山は気にしていない様子だ。

 夜、食事を終えた佐保は薬を飲んだ。残すは明朝の分だけである。もうちょっとしたら眠気がくるだろうと思いながら、佐保は西山に話をした。

「私、ここに来てからずっと、ある人たちのお世話になっていたんです」

 食器を片づけてきた彼は、椅子に腰かける。佐保は寝台に座っていた。

「いろんなことを教えてくれて、親切にしてくれました。でも、もしかしたら……」佐保は小さく震える。「うとましいと思われていたかもしれない」

 みな優しい人だった。けれど彼らの内心はわからない。甘えてばかりの厄介な人間を引きとったと思われていたら――そう考えだすと、次々に嫌な発想をして自らを追いこんでしまう。

「その人たちに、白水まで連れて行ってもらう予定でした。なのに途中、体調を崩して……迷惑かけないように黙っていたら悪化して、余計に迷惑かけた。でも心地よかった。心配されて、うれしかった。そんなことを考えていたから、いけなかったのかもしれません。その甘えを同行していた人に指摘されて、私は逃げだした。最初はその人を腹立たしく思って……いえ今でもちょっとは思っているんですけど」佐保は苦笑いをして続けた。「こうして逃げだしてきたっていうのも、自分の甘えをひどい形で実行してしまった結果で……本当、自分で壊してしまうなんて馬鹿だなぁって思うんです。情けない」

 最後の言葉を自嘲まじりにつぶやき下を向いた佐保に、西山はおもむろに尋ねた。

「かえりみているってことは、立ち直れたのかい?」

 佐保はすぐに首を横に振った。「思いだせば顔から火が出そうです」

「若さゆえの過ちと考えれば?」西山はそこで笑顔を見せる。「君の場合は、ぶっ倒れていたわけだから命懸けの過ちだけど」

 なごますような言い方に佐保も笑みを返そうとしたが、過ちと言った彼に、寝台から立ちあがり姿勢を正した。

「西山さんには申し訳ないことをしました」そう言って深々と頭を下げる。「刃物を向けたこと、おわびのしようがありません。本当に申し訳ありませんでした」

 なかなか謝罪を言いだせずにいた佐保はそのままおじぎを続けたが、当の西山は肩をすくめたあと困ったように頭をかいている。

「まあ、そうだね、もう二度とごめんだ」

 怒らず軽い口調で答える西山に、佐保もほっと息を吐いて寝台に腰を下ろした。とたん気が抜けて、少しすると服薬後の眠気がやってくる。別の世界でもまるで変わらぬ副作用に、佐保は、早く治りそうな気がした。

「薬がきいてきたみたいです」

 佐保がぼんやり笑むと、西山が頷いてみせた。

「効果が期待できるといいね……ここは、医薬の発展は遅いようだから。日本では治療できても、こっちでは不治の病と恐れられるものもある」

「感染症とかですか?」

「そう。風土病なら、感染した異客に抗体がないだろう。風邪をひいただけでも、命とりになるかもしれないことを覚えておいて。そして、逆があることも忘れないほうがいい」

「逆?」佐保はきき返した。

「僕らが感染源という意味さ」

 西山の言葉に佐保は表情をかたくした。異客の保有していた菌が、薬のきかないものだとしたら……そこまで考えて背筋が凍る。

「私、大事な人にくっついていたんです。一度も考えなかった。もし、何かあったら……」

 佐保はずっと前のことを思い返した。ここにきて最初の頃に李彗は、この世界の医術の水準に慣れないといけないと言っていた。

 今まで生きてきた世界とは違う。あちらでは軽い症状でも、こちらではそうとは限らない。佐保は今の今まで李彗の言葉を、自分が病気をもらうことばかりだと考えていた。が、そうではない。自分のせいでこちらの人も注意せねばならないという事実が抜け落ちていた。行動をともにしてきた李彗らにうつしてしまったらどうなるのか。病人と長旅をすればそれだけ可能性が高くなる。考えがおよばず浅はかだった自身に、佐保は自然と手を強く握りこんだ。

「悲観的になっても、どうしようもないことだ。けれどずっと一緒にいて今まで何もなかったなら、そう深刻にならずにいい気もするが」

「……そうですね」佐保が小さな声で返答する。

 黙りこんだ彼女を前に、西山は話を変えた。

「そうだ、君の短剣、見せてくれないか」

 佐保は急にどうしたのだろうと思いながら、懐から短剣を出した。西山に渡そうとすると、彼は椅子から立ちあがり佐保のそばに寄ってくる。ひとしきり短剣を眺めた彼は、触れることなく椅子に戻った。

 西山の行動に佐保が困惑していると、彼は机に片腕を置き、もう片方の手であごをさする。

「それ、高価な品物じゃないかな?」西山はあごに触れていた手で、佐保の短剣を指さした。

「え?」

 佐保はしげしげと短剣を眺めた。柄の部分には細工が施されており、綺麗な緑の石がはめこまれている。かといって装飾の面だけではなく切れ味もよさそうだし、さびてもいない。日頃から手入れされていたのがわかる。

「石は翡翠だろう」西山が言った。「こちらでの翡翠の価値を知っているかい? 向こうで言うところのダイヤだ。宝石の代名詞だよ。小ぶりだが、質のいいものだろうね」

「これ、先ほど言った……大事な人からのものなんです」

 佐保はそっと石に触れた。けれど指紋で汚れたと思い、慌てて服の袖でひと拭きする。西山はその様子を見て微笑んだ。

「そうか。ところで人は、邪険にしたい気持ちがある相手に良質なものを渡すだろうか」

 佐保は顔を上げ、西山を見た。

「それとも短剣をくれた人は、うとましいと思う人間に与えるほど酔狂なのかい?」

 佐保は首を横に振り、つぶやいた。「とても優しい人です」

 思えばこの短剣は初めて彼からもらったものだ。好意を寄せた人から贈られるには物騒な代物だが、今は何よりも魅力的に見える。

 佐保は短剣を両手で大切に握った。すると安心感と同時にこみ上げてくるものがあった。ぼろぼろと泣きだしてしまう。

「もっと一緒にいたかったなぁ」

 彼女は、胸のうちから気持ちを吐きだした。あふれてくる涙を引っこめようと目もとをぬぐうが、たいした意味もない。

「幸せだったんだね」西山がつぶやく。

 佐保は答えず、これ以上泣いてしまわぬように彼の言葉を頭から遠ざけた。

 椅子から立ちあがった西山は、寝台に座る佐保の頭に手を置く。そして子供の頭を撫でるように一度だけ触れると、すぐに離れた。ついで部屋から出て行こうとした西山は、扉を開けて向こうに消える寸前、悲哀の入りまじった、だがどこか穏やかな口調で告げた。

「僕らもそのような人たちに拾われていたら……きっとつらくはなかったはずだ」

 夜のしじまに扉の閉まる音だけが寂しげに響いた。

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