第四章 六節
深刻そうな切りだし方をした西山は、一度部屋を出て行き、二人分の茶を持って戻ってきた。
温かな飲み物を渡された佐保はしかし西山の様子のせいで口をつける気になれず、彼が話し始めるのを静かに待つ。やがて西山は椅子に腰かけ、ぽつりぽつりと語りだした。
「言葉が通じるのを、不思議に思わなかったかい?」
佐保を見ずに問いかける口調は、返事を求めているようにも思えなかったので、彼女は黙って西山の話すままに任せた。
「神の力らしいけれど、神は干渉しないはずだ。なら、異客の頭に浮かぶ文字の変換や通訳は何なのだろう? それは、干渉ではないのか。矛盾している」
西山はそこで切って、溜め息を吐いた。
「僕たち家族がこの世界に来てしばらくしてから、異客のご老人に会った。その方いわく、言語に何の障害もない我々には、新しい土地になじむため邪魔なものがある……と。それが記憶だ。我々は神によって調整され、あちらの思い出を奪われていく。
干渉しないというのは、まったく都合のいい言い方さ。異客であるうちはこちらの人間でなしと干渉するが、異客でなくなる……すなわち記憶をなくしこちらの人間となれば干渉しなくなるわけだから。すがるものを、こちらの世界のものに変えて初めて異客は異客でなくなるんだろう。だから最初から会話が通じ、代わりに忘れていく」
「そんな」佐保は驚きに満ちた瞳を大きく見開いた。
なおも西山は続けた。
「こちらで過ごすうち、少しずつ向こうの記憶が曖昧になる。すべて忘却するのに何十年とかかる者もいれば、たった数年で忘れていく者もいるようだ。僕はここに家族三人で来た。娘が記憶をなくしだし、心労の重なっていた家内は呆気なく死んだ。それから娘は、完全に僕ら両親のことを忘れた。娘は異客のなかでも進行が早かった。『知らない男』の家にいることに驚いて逃げだした」
佐保はじっと西山を見ていた。彼は言う。
「それから死に物狂いで娘を探して、一年が経とうとしたところでようやく見つけた。……売り飛ばされて、あの子がつくとは考えもしない商売に身を落としていた。金をかき集めて迎えに行って、あの子を抱きしめた。無事でよかった、ごめんな、と何度も謝った。それから、とにかく話をするために連れだそうとした。でも」
西山は、こぶしを握りしめた。
「……お客さん、ここは初めて?」
そうきかれたんだ、と小さくつぶやいた彼の声は震えていた。
「わかっていたつもりだったが、僕はもう父親じゃなかった」
何も言えない佐保を前に、西山は身のうちの悲傷を言葉に代えて吐き捨てた。
「僕はね、残念ながら覚えがよいようだ。いっそ忘れてしまえばと思うのに、まだ忘れられそうにない……何もかも全部」
一人で抱えて生きてきた彼の視線は、今はただ遠くを映しているように宙をさまよっていた。
「……悪かったね。続き、話すよ」
西山は目もとを一瞬ぬぐって、佐保を見た。彼女は西山から目をそらしてうつむいた。
「黄冊に登録するとき、こちらの世界での名前、字を決める。これのおかげで異客だと見破られにくくなる。そのせいかこの世界の住人も、神は干渉しないという言葉をそれ以上の意味でとらえる機会はない。どれだけの人が、異客が記憶を失うというのを知っているのか気になるところだけれど、まさか国が知らないわけはないだろうと思う。怪しい知識を持つ人間を意味もなく野放しにはできないから」
一度ゆっくりと呼吸をした西山は続けた。
「国にとって異客とは新しい風だ。よき技術を取りこみもできるが、悪しき知恵も取りこめる。なのにこうして市井で暮らす異客もいるし、黄冊にも登録して国民になることもできる。それは、異客がいずれ神によって記憶をなくし、一介の民になることを国が知っているからだとは思わないか?」
西山の鋭い視線が飛んできたが、論拠がないうえに話の展開が速すぎて、佐保は何も答えられなかった。
「古くからこの世界では天をあがめ、その尋常ならざる存在を認めているらしいが、それは僕たちの世界でいう宗教とは言いがたいようだ。たとえ神がいても人の世を動かすのは人であり、政に必要なのは天の動向ではなく、国主の勅旨というのは理解できる。しかしここでは、天と国は密接な関係性を保持している。恐ろしいことに政治の面でもだ。民の、天への信頼を損ねれば国は立ち行かなくなる。そのため国主を人の世に顕現した神として配し、政を行う」
佐保は呆然とした様子で話を聞いていた。次から次に衝撃が襲ってきて内容を理解しきれない。
まくしたてるように語っていた西山は、ふと力ない表情をした。
「ここでは神と国の関係が強固で切り離せない。この世界の人間が抱く畏怖や畏敬の念を前にしては、異客はなすすべもない。記憶が消えるのが神による仕業と少数が騒いでも、いずれその少数である異客は記憶をなくして証明できない」
「それは、本当ですか」佐保は静かに尋ねた。
「憶測でものを言っているだけにしか聞こえないだろうね。でも僕はそう考えるし、きっかけをくれた異客のご老人も、今まで出会ってきたほかの異客たちの例からそう結論づけていた」
重々しい空気に佐保は寝台から立ちあがり、窓まで近寄った。外を見れば、夜でもないのに視界が悪い。
「私、ずいぶん前に父を亡くしているんです」佐保はぽつりとこぼした。
彼女は思い返す。李彗とともに出かけたとき、夢のなかに現れた声を父であると言いきれなかった。今もまさに父の声は綺麗によみがえってこず、母づてに聞いた父の口調や口癖も、すぐに浮かばなかった。時がそうさせただけと片づけられない自身に、佐保は胸に走る痛みを唇を強く噛むことでごまかした。
「思いだせないと感じたことも、いつか忘れるのでしょうか」
「……そうだね」西山が目をつぶって答える。
「誰かを忘れていく寂しさも忘れてしまうのは、もっと寂しいですね」
佐保の言葉に西山は額に手をあてる。しばらくして、彼は抑揚のない口調で語った。
「娘は僕と家内を忘れたが、僕は覚えているよ。二人の顔も、声も、どんな性格だったか。ただ家内が死んで娘も消えてから……死んでしまおうと考えた。けれど幸せだった頃を思いだしたんだ。仕事に結婚、そして家庭を持って……。娘が生まれたときはぼろぼろ泣いて、それを家内が笑って……貴重な男泣きを笑ったんだぞ、ひどい人だ」
話しているうちに西山は小さな声で笑って続けた。
「でも僕だって君だって、死んだら大事な記憶もおしまいだ。それに、娘をおいて楽になれない。もうあの子は僕を覚えていないし、この国の民として生きている。異客とは違う。けれど、僕にとって娘は娘だ」
「西山さん」窓から目を離した佐保は首だけひねって彼を見た。
「……だから僕は、異客のままでいい」
目頭をもんでいた彼が、佐保を見ずに話す。
「異客という言葉が、僕らの世界にもあるのを知っているかい」
「いいえ」
なお西山は佐保を見ずにいる。
「意味はいくつかある。客、旅人という意味と、もう一つ。僕にはその一つのほうがしっくりくる」
もったいぶるように間をおかれ、佐保は体ごと西山に振り返った。彼は座ったまま微動だにせず床を見つめていたが、長い沈黙の末にようやく口を開いた。
「招かれざる人を指すんだよ。異境から来た我々は異客というレッテルを貼られる。我々はしょせん、よそ者のままなんだ」
佐保は窓に映る空を見上げた。曇天にはわずかな光すらも見えなかった。