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異境譚  作者: おでき
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第四章 四節

 死んだのだろうか。いや、眠っていたのだと意識した瞬間、佐保は体の感覚を確かめた。指先を動かそうとするが、できない。ならば足はどうかと試してみても、同様だった。

 しばらくして、まぶたが上がるようになる。けれど、もやのかかった視界は全体的に白く、はっきりしない。見ているだけで疲れ、佐保はすぐに目をつぶった。すると、目と額に温かな重みを得た。誰かの手のようだ。男の人だと佐保は理解した。大きくて、ぎこちない動きをする手が額のあたりを包みこんでいる。

 佐保は閉じたばかりの目を少し開けて確認した。額に手をあててこちらをのぞきこむ姿はやはり男性だ。かすかな視界から、なんとなく父だと思った。彼女はゆっくりと口もとに笑みをのせる。なんだ、やっぱり死んだのだ。死んで父に会えたのだ。こうして額で熱をはかってくれ、心配してくれている。

 話しかけることはできるだろうか。佐保は口を開いた。けれどうまく発声できない。一度口を閉じて、再び言葉をつむいだ。

「……パパ」

 額に触れる手がぴくりと震えたが、なぐさめるように優しく撫でてくる。佐保は安心して目を閉じた。


 次に目を覚ましたとき、佐保は寝台の上にいることを理解した。彼女の額には湿り気がわずかに残った布があてられている。それをつかんだ佐保はふと違和感を覚え、自身の格好に悲鳴をあげそうになった。薄い肌着だけの状態だった。胸の下の申し訳程度の帯をほどけば、裸をさらしてしまう。

 小さな室内は誰もおらず、佐保は音を立てないように気をつけ、背を起こした。部屋の隅には木製の粗末な机と椅子、そして佐保のいる寝台があるだけで、ほかは何もない。

 彼女は枕もとに置かれた短剣に気がついた。李彗がくれたものだ。すぐさま手にとり、鞘から抜いた。短い刀身は彼女の手にしっくりとくる。佐保は左手で胸のあわせを握り、右手で短剣を持った。たとえ小型であろうと切っ先をさらしているのはこわいが、離すことはできなかった。

 寝台の下には彼女の履いていた靴がそろえられている。見れば泥のあとがない綺麗な状態だ。ひどい天候のなか走っていたのが嘘のようである。いぶかしみながらも、素足に引っかけた彼女はそっと立ちあがった。額にあった布も持ち、部屋の扉へ静かに近づく。息を殺して、目の前の扉を見つめた。

 死んだと思っていたのに、知らない場所で目を覚ました。これは、身を守らなければいけない事態かもしれない。どうなってもいいと思っていたのに、何かあった場合どう乗りきるかと思案する。矛盾した考えであったが、佐保は扉のほうへ短剣を向けた。

 そのとき扉の向こう側で物音がした。彼女は思わず後ろに下がる。震える右手に内心でしっかりしろと叱咤し、急ぐ心拍を押さえつけるように服の胸もとを強く握った。

 ほどなくして扉が開いた。やけに木のきしんだ音がして現れたのは男だ。若くもないが年寄りでもない。男は佐保を認めた瞬間、目を見開き、そのあと少しだけ笑みを浮かべた。

 男が部屋に踏み入る。彼女の足は一歩も動けず、ただ短剣を男のほうへ向けるだけで精一杯だった。このまま距離をつめられると思ったが、短剣に注意をやった男はすぐに歩みを止める。そして、緊張した顔つきで口を開いた。

「起きても平気かい?」

 男は、その浮かべる表情よりずいぶんと優しい声をかけた。戸惑う佐保に、男は続けた。

「……君は異客だろう?」

 確認するような問いかけに、佐保は知らず短剣を両手で支え、相手のほうにしっかりと刃先を向ける。柄が手の汗ですべりそうになって動揺するが、視線をそらさず相手の姿だけをとらえる。異客と看破されたことに、彼女は尋常でないほど反応した。

 男は、短剣と佐保の顔を交互に見る。

「落ち着いて。君は異客じゃないのか? そうだろう?」

 なだめるように再び問うてきたが、佐保は恐怖で口が利けない。彼女の手は震えがひどくなり、やがてちらりと短剣を見下ろしてすぐに目線を男に戻すのを繰り返す。その様子に、男は慌ててつけ足した。

「待ってくれ、何もしない! 僕も異客だ! 妻子と……家族でここに流された、日本人だよ!」

 男の真剣な様子に、佐保は目を見開いた。

 異客、日本人。その言葉が大きく心に響いた。

 佐保の体からこわばりが解け、両手がだらりと下がる。短剣が床に落ちて、金属音が部屋に響いた。


 佐保と男は、相手の出方を待つように無言で向かい合った。しかし呆然と立ち尽くす佐保より、男のほうが先に動いた。男は部屋の外へ行き、すぐに戻ってくる。手には服を持ち、それを寝台に置いた。女物のようだった。

「すまないが、その……短剣をしまって、身なりを整えたら呼んでくれないか?」

 張りつめた空気を破って男が言った。そうして困った表情をして寝台に置いた服を指さすと、部屋から出て行く。

 閉まった扉をしばし眺めた佐保は、はだけて肩が見えていた自身の姿に気づき、顔から火が出る思いで男の持ってきた服を確かめた。地味な青い色の生地は着古したようだったが、もとはよい品物に見える。着ていたものの上に重ねて肌の露出を抑えると、少しばかり安堵した。

 佐保は、短剣を目について取りやすい寝台の中央に置いた。それから深く呼吸をし、意識的に気持ちを落ち着けようとする。脈打つような頭の痛みを無視して彼女は扉の前に立った。右のこぶしで扉を三回叩くと、隔たれた向こうから返事が聞こえ、佐保はゆっくりと扉を開いた。

 そこは小さな炊事場だった。男はかまどのほうを向いて、佐保に背を向けたまま声をかけてくる。

「着替えたかい?」

「はい」佐保はじっと男の背中を見ながら答えた。

 確認の済んだ男はようやく立ちあがり、彼女に目を移した。

「白湯と、少し食べるものを用意するから、ちょっと待っててくれ」

 短剣を向けられていたというのに、男は落ち着き払っている。あまりに冷静な姿に混乱した佐保は何も言えぬまま、寝台のある部屋に引き返した。待てと言われたので座っておこうと思ったが、短剣はどうすればよいのか迷う。胸もとにしまい椅子に腰かけるのが安心だろうが、男の言葉が事実なら同じ日本人の異客という共通点があるのだ、見えるところに出しておかないのは、助けてくれた恩に唾を吐くようなものかもしれない。結局むやみに悩みだすうちに食器類の音が聞こえたので、佐保は慌てて短剣を懐にしまい、椅子に座った。

 部屋に入ってきた男は彼女の前に盆を置いて、白湯と椀を差しだした。椀には汁物が入っている。男は自分の分も持ってきており、二つあった椀を一つ持つと寝台に腰かけた。

「どうぞ」男が手もとの椀を持って、促す。

 佐保は、男が一口食べるのを見て、白湯に手をのばした。

「……いただきます」

 口に含めば喉の渇きと痛みが同時にきた。彼女は汁物も少しずつ口にした。

 男が言う。「声がかれてるね。悪いけど、薬はないんだ。昨日は熱もあったし……自力で治ってくれるといいが」

「以前から調子が悪かったんです」佐保は少し考えて告げた。「熱は下がったような気がします。微熱程度になったらすぐ治るので大丈夫です」

 多少の倦怠感はあるものの、発熱するのは寝ているあいだに過ぎ去ったように感じていた。体調は悪くなりやすいが、体を崩したときに心配になる体力は昔からあった。

 男は食べていたものを飲みこむと、苦笑いを浮かべた。

「君が道端で倒れていて、ここまで連れてきたのが二日前。肺炎になるかとひやひやした。命とりだからね、気をつけないと」

 その言葉に、佐保は椀を置いた。

 目の前の男は命の恩人なのだ。たとえ投げだしたような自分の命でも、なぜ助けたと責めるのは筋違いだし、短剣を向けてしまったことも悪いと思っている。護身のためとはいえ刃物を振りかざした状況のあとにこうして世話をしてくれるというのは、悪意から自身を拾ったのではないと思えてきて、佐保の緊張はわずかに解けた。彼女は姿勢を正して深く頭を下げた。

「助けていただいたのに、先ほどは失礼しました。本当に申し訳ありません」

「……君、いくつ? 学生さん?」男は唐突に尋ねる。

 佐保は答えた。「高校三年です。いえ、三年でした」

 この世界に来たときは三年生だった。だが、もといた世界で考えればとっくに卒業しているはずだ。ここに来た当初は躍起になって日数の経過をなじみのあった月の数え方に当てはめていたが、いつしか考えるのも悲しくなりやめた。

 椀に口をつけて残りを食べきった男に、佐保は話を進めようと試みる。

「あの、私の格好は……」

 いま着ている青地のものと、起きたときに着替えさせられていたことも含めてきく。

 男は察しがよく、すぐに答えをくれた。

「寝かせるときに知り合いの女性に来てもらってね、着替えと清拭を頼んだ。服も、その人に融通してもらったよ」

 佐保は、ひとまず安堵の表情を見せた。「ありがとうございました。それで、あの……ここはどこですか?」

「ああ、そうだった、失礼」男は気さくな声を出した。「ここは僕の住んでいる家だよ。場所は亢県の蓮勺(れんしゃく)。君を拾ったところから少しばかり距離がある。二日前に運んできて、看病していた。土の上で倒れている君を起こそうとしたら、懐から質のよさそうな短剣が見え隠れしていてね、おまけに身なりもよさそうだったからどこぞのお嬢様かと思ったけれど、まさか同胞とは」

 佐保はそこまで聞いて、はたと思いだした。所持品は短剣だけではない。貨幣を入れた袋があったはずだ。李彗にもらってから必ず持ち歩き、注意をおこたらずにいたのに今は手もとにない。

「あの!」佐保は声をあげた。

 だが、言葉が続かない。どうきけばよいのか。持っていたはずの金がないと言えば、男が盗んだとこちらが疑っているように思われてしまうかもしれない。

「……ええと」佐保は困った顔をした。「私が倒れていたとき、ほかに持ち物はありませんでしたか?」

 男が首を振る。「なかったね。短剣だけだ」

「お金が……」

 それだけ言って黙った彼女に、男は柔らかな表情を正した。

「おそらく盗まれた。もう返ってこないだろうから、あきらめなさい。身ぐるみ剥がされなかったうえに、若い女の身で乱暴もされず金をとられるだけで済んだ。短剣が残っただけでも奇跡だよ。運がよかった」

「それはそうかもしれません、でも……そんな」

 佐保はうつむき、目を閉じた。なぐさめの言葉をかけられても、落ちこみは隠せない。死んでしまえなかった今、多くの不安ばかりが残された。このまま自らを手にかける気はないが、生きる希望もない。何もできない役立たずのまま、人からもらったお金を盗まれ、一文無しになったのだ。佐保は途方に暮れた。

 男は彼女の様子を黙って見ていたが、食器を下げに行った。戻って再び寝台に座ると、膝に手をついて少しばかり身を乗りだす。

「確認があとになったけれど、君は本当に異客でしょう? 名前は?」

「立木佐保です」佐保が答える。

「立木さん?」男は言った。「そう。僕は西山浩一郎(にしやまこういちろう)。よろしく」

「よろしくお願いします」佐保は頭を下げた。

 名前は、やはり漢字が頭のなかに浮かび、問いただす必要はなかった。

 彼は溜め息を吐くように話した。「ここでは西山(せいざん)って呼ばれてる」

 この世界では「にしやま」よりも「せいざん」のほうが呼びやすいのだろう。佐保も、こちらで与えられたばかりの自身の名を言おうと思ったが、途端に名づけた人の顔が浮かんできて、つらくなる。

「なぜ私が日本人だとわかったんですか?」

 話を変えた佐保に、西山は笑みをにじませた。

「君が熱に浮かされて、パパと言っていたから。久しぶりに耳にした言葉だったよ」

 思いもよらない答えを聞かされ、佐保は驚いた。

 彼女は小さな頃、両親をパパ、ママと呼んでいた。就学時には呼び方を直したが、幼少期に亡くした父親だけはついぞ「お父さん」と呼ぶ機会なく「パパ」の時代で終わっている。甘えていた頃の呼び名のせいか、彼女は今でも心細くなると父を「パパ」と呼んでいた。

「そうだったんですね」佐保は男を見て、控えめに尋ねた。「……あの、ご家族は?」

 確か先ほど、家族がいると聞いたのを彼女は思いだした。

 男は目を閉じて首に手をあてると、撫でるように数回かいてから手をのけ、寂しそうに答える。

「家内は死んだ。君と年頃の近い娘がいるが、わけがあって離れてる。あとで話すよ」

 佐保は男の顔を見た。あらためて中年の、娘がいてもおかしくない年齢の人だと感じる。男の話だと家族三人でこちらに来たようだが、根掘り葉掘りきけない雰囲気に、彼女はいたたまれず謝った。

「すみません、不躾でした」

「いや、いいよ」西山が首を振る。「それよりも、もし体調がいいようなら……少し話せるかい?」

 寝台から向けられる意図のつかめない男の顔つきに、佐保はかまえつつも首を縦に振った。

 木のきしむ音が部屋に響く。座っていた寝台に腰をすえ直した西山はいささか興奮ぎみに前のめりになった。

「向こうの、日本の話を聞きたい。たくさん聞きたいんだ。知りえる限り、なんでもいいから話をしてくれないか」

 西山は佐保へと、どこか満ち足りない瞳を向ける。郷愁の念なのか、声には切実さがあった。

 それからとりとめのない話が始まった。西山は飽きもせず、夜通し佐保の話に耳を傾けた。彼女のほうもかすれた声であったのを忘れて語った。こんなに懐かしい気持ちを真剣に話せ、相手が理解してくれることに話の種は尽きなかった。

 やがて佐保は疲れて机に伏そうとする。その姿を見て、西山は彼女が病人であったのを思いだして話を切りあげた。寝台を貸そうとする西山に、佐保は緊張もあったが、そんなことを言っていられないほどぐったりとしてしまい、いつの間にか寝台に体をあずけていた。

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