第四章 三節
朝、目が覚めると部屋は清浄な空気に包まれていた。雨もあがって昇り始めた太陽に窓からのぞく木々や葉は光っているが、遠くの空は未だ雲が厚い。ぐずついた天気になりそうだった。案の定、降ってはやんでの状態が続き、昼すぎには大雨になっていた。
今日はこのままもう一泊することになり、佐保は部屋に閉じこもった。一度、李彗が様子を見にきたが、佐保は浮かない顔をした。彼から、雨のなかの移動が危険だから泊まることと、大事をとって寝るようにと言われた。だが立ち聞きした話のせいで移動できない理由を邪推して、佐保は卑屈になる。部屋から出て行く彼の後ろ姿を見ていれば、迷惑をかけたくないのに困らせたい気持ちもむくりと起きあがってきた。するとさらなる自己嫌悪を催し、佐保はいらだたしげに両手の指をきつく結んでこらえる。
手の甲に爪あとが浮かび、自分で作ってしまった傷を見て彼女は笑った。こんなことをして、いったい何になるというのか。ぼうっとしているだけで時間は過ぎていき、爪あともすぐに薄くなる。佐保は寝転がっていた寝台から立ちあがり、窓に寄りそった。ひどい雨だ。外の景色は視界が悪くてあまり先まで見えない。佐保は溜め息をついて庭を見下ろす。すると見たことのある木が目に入った。
「羅漢樹……」思わずぽつりとこぼす。
佐保が李彗とともに山に分け入って実をとった果樹だ。あのとき、もとから持っていたハンカチを、実を包むために使った。かといってそのハンカチは実用品になったわけでもなく、今でも大切に持ち歩く品である。そこには、李彗にもらった短剣と硬貨の袋も加わった。
ふと佐保は羅漢樹を間近で見たくなった。昨晩から握りしめ、しわの寄ったハンカチを綺麗にたたみ、室内に置いて出た。雨音以外は静かで、人の立てる音が聞こえてこない。庭に面した雨よけのできる端まで近寄り、佐保は果樹を眺めた。彼と行ったときよりも小さい実がなっている。
なんとなく実はいくつだろうと数えていると、雨にまじって「羅漢樹」という声が背後から聞こえた。佐保は当たり前のように「李彗さん?」と後ろを向きながら姿を確認しようとした。しかし声の主は李彗ではなかった。
今いちばん会いたくない人物が、穏やかな面持ちで立っていた。
「娘さん、いかがされましたかな」苑海は佐保に尋ねる。
彼女はわずかに後退した。その拍子に雨が肩を濡らす。
苑海をうかがうようにして口を開かぬ佐保に、当の本人はなんら気にすることなく、一人でしゃべりだした。
「そうそう……この爺、うっかりしておりましてな。娘さん、お約束をしていただきたいのですが、若君の御名を、衆目の場にてお呼びになるのをおやめくださいますように。さる高貴な身分の方にあらせられます。それをお伝えせず今まで暮らしていたのは、相応の理由がございます。くれぐれも口になさらないよう、お願い申しあげます」
「え?」ようやくできた佐保の返答はそれだけだった。
「簡単にお呼びにならぬようにと言いたいだけです。なに、それこそ簡単でございましょう」苑海が目を細める。
馬鹿にしたわけでもなく、不快にさせるような口調でもない彼の言葉は、佐保に言い知れぬ不安を与えた。李彗の名前を呼ぶことを、取りあげられてしまったのだ。そんな頼みを言われては、疎外感もひとしおだった。一線を引かれたように感じてならない。
わずかに不服の表情をした佐保は、けれどそれを引っこめて静かに「はい」と答えた。
苑海は彼女の様子を見て、笑みを浮かべる。
「結構、結構。ものわかりのいいふりをしてくださる娘さんですな。なんと、おかわいらしい」
あからさまな揶揄に、佐保の頬に朱が走る。苑海は佐保を気にせず、一歩、彼女のほうへと近づく。
「さて、娘さん。養生のために幾晩かここで過ごすという手は、いかがですかな?」
そんなことをすれば、もっと嫌がられるだろう。
「わ、たしは……」佐保は弱い声で返した。
なぜ苑海はそのような発言をするのか。佐保は、裏があるように思えてしかたなかったが、内心「あっ」と昨夜の出来事を頭に浮かべた。買いつけがもし同じ進路をたどっているなら、苑海の言った意味がわかる。このままここにいると、自分だけが置き去りにされて売られるのかもしれない。そう考えることが自然のように思えた。盗み聞きした会話にも「捨て置く」と出ていたのだ、きっと見当違いの発想ではないだろう。
危機感が佐保の胸の奥からこみ上げた。不快な心音に拍車をかけるには十分だった。
佐保の目の前にいる老いた男は、人を試すような鋭い視線でもって何かを投げかけている。佐保は緊張し、短い呼吸を繰り返した。
ややして、雨にもよく通る声で苑海は告げた。
「甘えるのは心地よいですかな? 優越を感じられるというのは、己の卑屈を埋められる」
佐保は否定しようとした。が、出るのは小さくかすれた声だけだ。うまく発声できず、首を一生懸命に振って否定してみせる。こんなところで泣くのは卑怯なのに、涙があふれて止まらなかった。
雨はいっそう激しく、風は吹きすさぶさまを見せる。
「しっかりしていただきたい」苑海は声を落としてつぶやいた。
途端に顔を上げていられなくなった佐保は、自身の表情を隠すようにうつむいた。
苑海はすぐに立ち去る。佐保は足もとに視線を落としたまま、ぼろぼろと涙をこぼした。けれど、泣くことも喉が痛くてままならない。冷たい空気は、喉を突くように通って肺に取りこまれる。部屋に戻る気になれず、ただ立ち尽くして手で顔を覆った。
どうして自分だけが……佐保は胸のうちで叫ぶ。人に状況に、言葉に振り回されて、自分が何をしたというのか。どうして誰も来てくれないのか。泣いているときに、なんで誰も手を差しのべてくれないのか。ここではいつまでも、ひとりなのか。
帰りたい。
唐突としてその気持ちが膨れあがった。こんなに苦しいのに、こんなに求めているのに、誰も与えてくれない。日本にいた頃に戻りたい。そして二度と、こんな世界とは無縁な暮らしをして、家族と幸せに過ごすのだ。母と姉なら抱きしめてくれる。友人なら手を握っていてくれる。ここで生きていこうという前向きな気持ちは、最初から間違っていたのだ。なぜならこの世界は佐保にとって優しい姿であってくれない。すがるのも、支えてくれるのも、この世界やここに住む人々ではなかった。
佐保は泣き続けた。やがて、激しい雨音のせいで自らの泣き声すら聞きとれなくなった。
どれくらいそうしていたのか……積もり積もったものに押されるように、佐保の足は自然と動いた。雨の降りしきる庭に飛びだし、いつの間にか宿の外へと歩く。徐々に駆け足となり、どこを進んでいるのかわからないまま走った。
そうすることで、楽になれる気がした。目の前のことから逃げだせると思った。
刺すように上から落ちてくる大きな水滴が服に染みこみ、進む足も重たくなるが、かまわず走り続ける。
つらい目にあうのはもう嫌だ。その気持ちを蹴り飛ばすように、雨のなかをあてもなくさまよった。
だが、ぬかるみで足がもつれ、泥の上に倒れこんでしまう。髪は乱れ、服も泥だらけで、全身がびしょ濡れだった。佐保は、土に爪を立てて握りしめた。喉の痛みも気にせず泣き叫んだ。
この世界にきてすぐの頃に出した高熱で死んでしまえばよかったものを、こうして生きのびている。今さらどうにもならないことに憤っていれば、雨と泥が体を冷やしていった。
かすれた声も次第に出なくなり、佐保は投げやりになった。起きあがる気力もなかった。
野垂れ死にでもいい。このまま死んでしまいたい。命を放りだすよりも、現実に向き合うほうがはるかにつらい。
母にも姉にも友人にも会えぬなら、こんな世界にいることもどうだっていいじゃないか。
死んだら父に会える。そのほうが生きるよりも魅力的だ。生きる世界は数多くあっても、死の世界はきっと一つだろうから会えるかもしれない。
佐保はそう思いながらうっすらと笑みを浮かべて、雨に打たれた。
もう、どうなってもよかった。