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異境譚  作者: おでき
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第四章 二節

 翌日には早々の出立だった。船酔いはとうに治まったが、体がだるくて頭がすっきりしない。慣れない旅路に疲れているだけだと彼女は考えた。無理をできるくらいの体力ならまだあるし、睡眠をとれば体ももつ。食が細くはなったが、たいしたことはないだろう。

 それから幾日も移動と宿での一休みを繰り返し、集落を転々とし、どのくらい走ったのか。幌馬車に座り続けて足やお尻との鈍痛にも十分すぎるつきあいとなった頃、石造りの門と壁に囲まれた街に着いた。

 四方から、にぎやかな声が聞こえてくる。しばらくすると馬車は止まり、皆そこから降りた。近くの建物には、馬車を置ける宿があるようだ。

 辺りを見ると木造や土塀があるかと思えば、頑丈な石造りの建物もある。けれど石造りの二階の窓からは美しい女の顔がのぞいているところが多くて、あの場所が何の目的にあるのかを悟っても、佐保は気づかないふりをした。

 それにしても活気があふれている。街中には行商もおり、人いきれに体が暑さを感じる。男も多いが、女も出歩いている。頭髪の色は黒や茶が多く、肌も東洋人のような色がよく目について佐保は少しばかりほっとした。

 苑海が声をかける。「白水に通じる街ですから、それだけ人と物の流れが多い。宿屋も盛況、よいことですな。しかし娘さんは気をつけてくだされ」

「私ですか?」

 苑海はちらりと佐保を見た。

「いつぞやの宿屋の男の言葉を覚えておりますかな。進路は東と。東に行けば、亢県のなかで最も華やかな土地に出ます。おそらくは道中に女を拾い増やして、我々と同じ進路をたどるでしょうから……そういう女も多いですし、知らず巻きこまれる女もおります。宿つきの者もおりますからな、ふらふらと出歩いていたら、宿の女に会いにくる連中に誤解されますぞ」

 尋ねたいこともあったが、佐保は不安とともに疑問を飲みこんで頷くだけにした。

 宿屋へと歩いていると、曹達が提案をしてきた。

「それより、(あざな)を決めたほうがよいのではないか」

 商人の売り歩きの声を聞きながら、佐保は自分の名前が話題となったのがわかった。

 曹達の言葉を引きついで苑海は何度か頷きをまじえる。

「娘さんのお名前は、明らかに耳なれぬもの。これからの暮らしのなかで、わざわざ浮いた点を最初から提示することもありますまい」

 市井に溶けこむため、こちらの世界にあった名前を名乗れということだ。しかたないと割りきるが、どうにも寂しいものだった。

「では、どういうものがいいのでしょうか」佐保は尋ねた。

「そうですな、こちらでありふれた名前がよいでしょうな」苑海が李彗へと話を向ける。「いかがなされます」

「すぐには思いつかぬ」

 考えこむような李彗の様子を見て、苑海はあっさりと名づけの役を奪っていった。

「では、ここは爺がとびきりの名を。……玉葉(ぎょくよう)はいかがですかな」

 短時間での提案に佐保は苦笑したが、響きが綺麗だったので「はい」と答えた。李彗が溜め息まじりに「よいのか」と尋ねたが、せっかくもらった名前をむやみに拒否できない。

 名づけたほうは満足顔である。「たいそうかわいい玉葉殿でありますな」

 そう言われ、少々うれしい気持ちになった佐保は李彗を見た。穏やかな顔つきをしている李彗を眺めていると、新しい名前も好きになれそうだった。きっとここでは玉葉というのは一般的で女の子らしい名なのかもしれない。佐保がそう考えていると、渋い顔の曹達が目に入る。

 苑海は楽しそうに口を開いた。「曹達殿の奥方が同じ名の、これがまたかわいげをどこかに置き忘れた女人(にょにん)でありましてなぁ……男に生まれれば、立派な武人となったでしょうに。いや、今でも夫の首くらいはとれる傑物との噂もありますが」

 曹達は老爺をにらみつけていた。「留守をあずかるに不足ない妻だとほめているなら、老人の減らず口も少ない余生だからと辛抱するが」

「そう言い続けて、我ら三十年のつきあいですぞ」苑海が笑った。

 新たな名を、曹達をからかうために使われた気がしないでもない佐保は、なんとも複雑な心境でこれからお世話になる自身の字を胸に刻みつけ、宿に入った。


 今夜の宿では湯を買うことができた。ここ数日は冷たい水で体を拭くばかりで湯が恋しかった。佐保は部屋に届いた湯を使い、久しぶりの満足感とともに寝台へ横になった。すると急速に深い眠りが訪れた。旅が始まってからというもの、疲れを癒すのは睡眠だけだ。ここ数日は寝ても、けだるさが残ってしまう。が、寝ないと明日に響く。狭い寝台で体を横に向けて、佐保は目を閉じた。

 翌日、彼女は喉の違和感で目を覚ました。温かい飲み物で喉を潤しても、あまりすっきりしない。ここで持ち直さないと迷惑をかけてしまうだろう。佐保は気をつけようと思った。が、そううまくはいかなかった。

 出立からの日数の経過は、両手の指を超えてから数えるのをやめており、それでも二順はしたはずだが、最近ではぼんやりとして、日付の感覚もよくわからない。

 喉がつまり、食事の時間が憂鬱になりだしている。心配してくれる李彗の手前、彼女は笑顔で食べたが、皿に残す量は日に日に増えていった。それでも旅を続けた。

 食べる量が半分になった頃から、極端に口数が減った。しゃべっても喉が痛いし、息を鼻から吸うだけでも喉が刺激されて気持ち悪い。それから数日、ますます食べられなくなった。考えれば考えるほど重症化しそうで、佐保は気にしないのが一番というようにふるまった。

 だが眠っていても、ふとした拍子に起きてしまう。食事はなかなか飲みこめない。水気のものも喉を通るときに痛みを発する。寝ていれば治ると思っていたのに、悪化するいっぽうだ。様子のおかしい佐保に皆が気を遣う。家族にそうされることはうれしいものだったが、こちらの世界では申し訳なさもあった。

 道中、休みやすいようにと馬車の速度は緩やかになり、泊まる部屋は粗末な寝台ではなくなる。佐保の体調が好転しないので、薬を用意するか医者にみせようかという話があがる。けれど佐保はその両方をつっぱねた。自分のせいで予定が崩れているのはわかっているし、資金を予定外に食っているだろう。これ以上、滞在を延ばすのは嫌だ。遅れた分を取り戻したかった。けれど心細い自身の気持ちも知ってほしくて、李彗には弱音をこぼした。彼がそばにいると、甘えては気丈に見せることを佐保は繰り返す。そんな自身に嫌悪しつつも、かまってもらえるうれしさには敵わなかった。

 迷惑をかける申し訳なさと不安で胸がいっぱいのまま、その日の夜を迎えた。

 雲間に隠れた月が窓からわずかに見え、風の音と虫の鳴き声が室内まで夜気を運んでいる。佐保は寝返りを何度もするうちにすっかり眠気が覚めてしまった。しかたなく寝台から起きあがり、窓辺から外を眺める。しばらくぼうっとしていると、ささやきが聞こえてきた。どうやら部屋の扉の向こう、室外のすぐ近くで話し合いをしているようであった。彼女が近寄れば、扉ひとつ隔てたところから会話がもれ聞こえてきた。

「ずいぶんな甘やかしぶり。おかげで大変な乱れにございますな」

 その声に佐保はぴたりと足が止まる。扉に手をかける寸前だった。

 苑海の声だ。佐保は身動きをせずに外の内容に耳をすました。

「丈夫が取り柄であったらよいものを。ここを乗りきっても、あのまま市井に放りこめば、いずれは買いつけの餌食になるやも。気丈な女子(おなご)には見えませぬ。右往左往する間に力ずくで取り押さえられたら、どうなることやら。これでは先まで連れていくにも、この場で捨て置くも、同じ結果になりそうですな」

 苑海の厳しい口調に、李彗が低い声で答えた。

「ぼけるのは役を辞してからにしろ。二度はないぞ、不愉快を申すな」

「失礼いたしました。そうとうお気に召されておいでで」苑海の、とってつけたような謝罪が返ってくる。「しかしながら少々……障りになるということはお心におとめいただきたく」

「くどい」

「爺はこのへんで口をつぐみます」

 佐保は静かにあとずさりして、耳に入ってくる会話を遮断した。いやな動悸に、大きく吸いこんだ息を吐こうとして踏みとどまる。さらに後ろへ慎重に下がったところで、ようやく息を吐いた。

 細心の注意を払いながら寝台に音を立てずにすべりこむ。ゆっくりと布団を引きあげ頭までかぶった。そこまできて気が抜けると、口もとに手をあてて、鼻をすすった。涙が止まらなくなって、指先と手のひらだけでは涙をぬぐうのに足りなくなる。懐からなじみのハンカチを取りだすも拭くことができず、ぎゅっと握りしめるだけにとどめた。

 邪魔だと、ここまでわかりやすく言われたのは初めてだった。佐保は自身が足手まといになっていることに悔しくなった。李彗までもがわかりやすく怒り、かばってくれている。けれど彼の内心は知れない。船上でも自分の話ばかりして、彼のほうはあまり心のうちを告げてくれなかった。そのような態度の彼が、いくら佐保をかばっても、内心は責め立てていたとしたら、どうすればよいのか。

 いつしか外は雨が降りだしていた。雨音にまぎれ、佐保は泣いた。

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