第四章 一節
佐保たちが向かうのは、白水という街だった。彼女のほかに李彗、苑海と曹達、その従者らは船で目指し、蓉秋と博朴、飛泉は別の迎えが来るまで屋敷に待機である。
出立のため屋敷を出た佐保はもの悲しくなり、川までの道のりを何度も振り返った。見送りに隣を歩く飛泉は、そのたびに「せわしない奴だ」と言い、しまいには彼女の背後を歩く。振り向けば視界を占めるその姿に、佐保は後ろを見るのをやめた。すると笑い声が起こった。博朴が飛泉をからかっている。
「我が兄は、たまにかわいいことをするね」
「うるさい、黙れ」
「口が悪いな」
「お前は根性が悪い」
飛泉のいつもの話の落ち着け方に、博朴の苦笑する声がした。佐保もそのやりとりを密かに笑った。
川岸にたどりつくとそう大きくもない木造の船が見え、佐保は立ち止まる。視線の先には李彗と栄古、それに蓉秋が立っている。苑海たちは船の上だ。
最後の最後とばかりに、彼女は栄古をぎゅっと抱きしめた。
栄古は頬をすり寄せる。「達者でな。また会おうぞ」
はい、と返事をしようにも、喉がつまって声にならず、彼女はひたすら頷いた。
佐保は栄古から離れ、立ちあがる。博朴と別れの挨拶をしたあと、彼は言った。
「よろしければ兄にも、抱擁をお願いしても?」
飛泉はぎょっとし、佐保も感傷的な気分が吹き飛んだ。
「なんだ、それは!」飛泉が剣幕をあらわに、声を張りあげる。
「むきになって」博朴は大笑いしていた。
李彗と佐保は船に乗りこむ。送りだしてくれる視線に、佐保は手を振って応えた。
船から厚い雲に覆われた空を見上げたあと、佐保は船べりに寄った。舷側をのぞきこむように下を向くと、喫水線が揺れている。
陰りをはらんだ川面のたゆたいと小さなしぶきを眺めつつ、川岸の向こうへも目を向けた。続く景色は川と木々ばかりだ。彼女はまた川の流れを見下ろした。
佐保の隣には李彗がいた。
「つらい思いをさせるな」彼は言った。
「いいえ」佐保はまるで川に返事をするように答えた。
内心は皆と別れることもつらいが、せっかく慣れてきた環境から離れることにも参っている。知らず溜め息がこぼれた。
「すまない」
隣から聞こえた李彗のつぶやきに、顔を上げた佐保は微苦笑を浮かべて首を振った。彼がそう発言したのは、なぐさめる言葉が見つからないための発言だと理解している。
「李彗さん」佐保は話しかけた。「白水ってどんなところですか?」
なんでもいい、たわいない話を記憶にとどめたいと、佐保はその気持ちに忠実にしたがった。
船上で日の入りを見る頃、佐保はぐったりとしていた。乗馬よりひどいものだと思っていなかった彼女にとって、船酔いは人生初の体験だった。佐保は自身の体力を過信していたが、乗船して間もおかず吐き気と頭痛に襲われ、横になってしまう。
見るに見かねた李彗は、荷の調達で寄る予定の船着場から陸路で進むと変更した。これに真っ先に反対したのは佐保自身だ。そのような選択が出てきた原因は、自分のせいだと彼女はわかっていた。だからこそ無理を押してでも船に乗ることにこだわった。だが李彗は「降りる」の一点張りで話し合う余地すらない。やがて、静観していたほかの者が陸路の提案を受け入れると佐保の出る幕はなく、ひたすら申し訳なく思いながらも何も言えなくなった。
頼りない足どりで、佐保は船上から空を眺めた。見渡す限り一面は朱色を刷いている。紅霞の空というらしい。夕焼けで雲までも燃えるように染まることを言うのだと、李彗に教えてもらったのだ。
船に乗ってからは、屋敷で過ごしていた以上の親密ぶりではないかというほど、李彗は彼女のそばについていてくれる。そのあいだ佐保は、たまに途切れながらも体調と時間の許すかぎり彼に多くのことを話した。屋敷の住人たちは気遣いからか佐保に彼女の世界のことを尋ねず、また佐保も自ら機会を作らなかった。それが今や、彼女は積極的に話している。思いだせばつらい気分にもなるが、知ってほしい気持ちが勝った。李彗は彼女の話に耳を傾け、ときに目を細め、あいづちを打ち、返答をした。けれども彼は自身のことを話さなかった。
船で見る日没はまぶしく、佐保は目を閉じる。
「佐保……宵のうちに着く。それまでの辛抱だ」
李彗の声がして、佐保はゆっくりと振り向いた。彼は当然のように佐保の隣に寄った。
「少しよいか」
尋ねた彼に頷くと、船の隅へと導かれる。
佐保は彼を眺めた。茶色い髪が、夕焼けの光に染まって見える。男性にしては長い髪を美しいと、彼女は思った。
「これを」
李彗がおもむろに差しだしたものと、彼の顔を、佐保は交互に見る。李彗の手には小さな袋と、彼といるときに幾度か見かけた代物があった。
彼は強引に、戸惑う佐保の手にそれらを持たせた。袋には、中央の穴に紐を通して連ねた銀、銅の硬貨が入っていた。そしてもう一つは革の素材にくるまれた短剣だった。柄の部分には緑の石が埋めこまれている。
「お前にとって刃物とは、調理に使うことが第一だと言っていたな。ならば、それ以外の目的で渡そう」
「でも……」佐保は困惑した。
短剣は物騒なものにしか見えないし、硬貨はこれからのことを考えるとありがたいが、どちらももらうのは気が引ける。
迷うふうな佐保に、李彗はしっかりとその手に握らせた。
「人は我が身がかわいい」
佐保の手のひらに置いた短剣の上から、彼はそっと手を重ねる。そしてそこに少しだけ力を加え、言った。
「大事なときに握っていられるなら、それでよい」
短い刀身を隠すように置いた彼の手のぬくもりを覚えながら、佐保は頷いた。
船着場に船が係留された。薄い霧に囲まれて視界はよくないが、船から降りた佐保は辺りを見やる。隣に立った李彗は無言で彼女の手をつかみ、幌のついた馬車にさっさと乗せた。
「長居はできぬ」彼は佐保に苦笑をまじえて言うと、わずかな荷物を放りこんだ。
すばやい行動に佐保が目を向けていると、周囲の荷物はおろか人も乗り終えていた。彼女の向かいにはいつの間にか苑海が座っており、すでに出発の態勢が整っている。佐保は老人の迅速な行動に驚いた。気分の優れない佐保に、やれ腰が痛い、やれ膝が痛いと船上で言っていたわりにはずいぶん元気な姿で従者をせっついている。
佐保が首をかしげると、曹達が物騒な助言をした。
「化け物じみているうえ減らず口だ。相手に疲れたら、茶と偽って一服盛るとよい」
返答に窮した佐保の前で、苑海は笑っていた。本人に丸聞こえである。
馬車は人目を忍ぶように、船着場から遠ざかり始めた。
景色を見ようと思っていたにもかかわらず、佐保は眠気に襲われた。瞼を開けていられなくなり、とうとう穏やかな寝息を立て始めた佐保に、李彗は肩を貸した。
しばらくすると佐保は起こされ、頭だけでなく体ごと彼に寄りかかっていたことに気づく。佐保は急いで姿勢を整えた。
「すみませんでした」うわずった声で、李彗に謝る。
「かまわぬ。寝心地が悪かったろう」李彗は佐保を見た。「じき泊まるところに着く」
彼の言うとおり、間もなく馬車は止まった。
「今晩はここに泊まります」苑海が幌の隙間から外を指し示した。
荷を降ろす従者を見て佐保も手伝おうとしたが、目を細めた苑海に「引っついていなされ」と制され、彼女は慌てて李彗から離れた。
馬車を降りると、二階建ての建物があった。どうやら宿屋らしく、小柄な男が門前で出迎えていた。
苑海と曹達についていた従者の一人が、男に袋を手渡している。男は袋の口を広げ中身をあらためると、あごをしゃくった。
「いいだろう。奥へ」愛想のない言葉とともに、男が先に建物の中へ消えていく。
宿は、廊下をはさんで向かい合ういくつもの小さな部屋でできていた。室内は粗末な寝台だけで、雨露をしのぎ、寝るためだけにあるようだ。
案内を終えた男は、落ちくぼんだ眼で佐保を見てつぶやく。
「二日後、買いつけの連中がくる。進路は東」
言動と、じっと絡まる視線に気味悪さを覚え、佐保は李彗を仰ぎ見た。そのあいだに、男はきびすを返し去っていく。
男が見えなくなると、苑海はあごに手をあてた。「忠告にしても、仲介にしても、いらぬ親切心ですのう」
李彗が部屋へ入るよう佐保を促しながら言う。
「女の売り買いだ。気をつけろという意味か、引き渡せるという意味か……どちらにせよ気分が悪い」
人身売買や性産業をほのめかす言い方に佐保はびくりとした。現実味がわかないが、男の目を思いだして背筋に震えが走る。
「知りたくもないことだろうが、知る、知らないではずいぶん違ってくる話だ」
それがまかり通る世界であることを覚えておけということなのだろう。佐保は神妙な面持ちで頷いた。