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異境譚  作者: おでき
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第一章 一節

 玄関にいた佐保(さほ)へ声をかけたのは彼女の姉、(あおい)だった。

「熱があるわね」

 佐保の額に手をあてた葵に、佐保は首を横に振る。

「別に大丈夫、微熱だし。それよりお姉ちゃん、仕事は? 遅れるよ」

 溜め息をもらす姉の横で、佐保は靴を履いた。

「車で送ろうか?」

 その申し出に佐保は「平気」と笑い、胸もとの臙脂色のネクタイを整える。

「しんどくなったら早退するから。いってきまーす」

 佐保は学校の鞄を右肩にかけると、玄関を開けて出て行った。

 それが、葵の見た妹の最後の姿だった。


 佐保は母と姉の三人暮らしだ。早くに父を亡くし母が働きに出たので、子供の頃は姉との思い出ばかりである。父親不在の家庭だが、母と姉のおかげで経済的な苦労はしたことがなかった。しかし佐保は今の生活に満ち足りた印象を受けない。金銭的な余裕よりも欲するのは家族との時間だ。そのため佐保にとって体調不良というのは少しだけ気持ちのよいものだった。家族が心配してくれるのがうれしい。それに今日は二人とも仕事を早めに終えて帰ってくるというので、微熱による億劫な気持ちもやわらぐものだった。

 佐保は、常より緩慢な足どりで川にかかる橋を渡り始めた。中ほどまで来ると、強風が背中を何度も舐める。肩下に流れる黒髪が揺れて、頬を撫でるように巻きあがっては乱れた。鞄を肩にしっかりとかけ直した彼女は、両手で髪を整えた。そのあいだも橋の上を突風が走り、流れる川の水面がにわかに音を立てる。高校への通学路に使って三年目だが、こんなことは初めてだった。

 水と風の音が一緒くたになって耳に届く。うるさいほど鼓膜を刺激するそれらに佐保はたまらなくなり、両耳をふさぐのも不十分なまま一目散に駆けだした。そうして橋を渡りきる直前、彼女は不可思議な感覚に見舞われた。

 足もとがぐにゃりと揺れて、立っている気がしない。何かに沈むような、まるで蟻地獄か底なし沼に足を取られるような……。それを意識するもつかの間、今度は体の自由がまったく利かず、愕然とする。

 何が起こっているのかわからない。助けを呼ぶこともできずに、足先から溶解していく感触におびえた。体が動かないせいで震えることもできず、余計に恐怖が呼び寄せられる。佐保は気味の悪さを味わいながらも、耳鳴りと微熱のせいか、ぼうっとして何も考えられなくなってきた。間もなく意識が遠のきだすと、恐怖から逃げられるとばかりに彼女は五感を手放した。


 目覚めた佐保を襲ったのは、右半身に伝わる冷たい感触だった。どうやら寝そべっていて、半身がひやりと感じたらしい。試しに上半身だけ起こしてみると、足がしびれて浮遊感すら覚えるありさまだった。意識を失う直前の出来事に思わず眉をしかめた佐保は、しかし次の瞬間驚いて辺りを見た。

「……え?」と、思わずつぶやく。

 自身の小さな声すら耳に障った佐保の眼前には、見たことのない景色が広がっていた。

「な、に……これ」

 岩木に囲まれた、一面が深緑の見知らぬ景色のなかで彼女は目覚めたのである。

「え?」

 佐保は再び戸惑いをこぼした。不安が辺りに伝わったように木々が揺れる。佐保は警戒しながらゆっくりと立ちあがった。上半身は草むらに寝ていたが、腰から下は草の少ない土の上に投げだしていた。呆然としながらも頭が汚れていないか髪を撫で、確認する手を肩へと下ろして土を払い、制服のプリーツスカートも(はた)く。一通り土を落とした彼女は、再び注意深く近辺を見回した。

(どうしよう……ここは、どこ)

 佐保は困惑しつつも、ひとけのない鬱蒼とした木々のなかを歩いてみた。靴が枝を踏み鳴らす音にまじって、川のせせらぎが聞こえてくる。ときおり吹く風は冷たく、彼女は上着のあわせを握りながら、いったい何が起きたのかを考えた。

 意識を失い、気づけば知らぬ場所にいた。ならばこれは誘拐だろうか。しかしそうだとしても、捨て置かれるとは思いもしない。

 佐保がそう考えるのはいたって自然なことだが、一人ではまったく事態の見当がつかなかった。しかし犯人が近くにいればいるで、それは恐ろしい。身震いした彼女は、とにかく目を覚ました場所から少しでも離れたくなった。

 今まさにこの瞬間も、危害をどこかから加えられるのではと思うと、ぞっとして足がすくみそうになる。しかし立ち止まるのも怖く、耳をすまして辺りに注意を配りながら進んだ。

 とにかく開けた場所へ。佐保は、水の音が増すほど、その方角へと向かわずにはいられなかった。


 あまり経たずして川辺に着くと、佐保は堤から見える眺めに息を呑んだ。眼前には、向こう岸がかろうじてわかる大きな川が広がっている。穏やかに流れる水は太陽に照らされて金色の波紋がたゆたい、川面が遠くまで光っていた。

 彼女は、左手首につけている腕時計を確認した。目覚めた場所から歩いた時間は数分くらいか。そう思いながら文字盤を見るも、肝心の秒針が動いていないのに気がつく。何かの拍子で衝撃が加わったのかもしれないが、文字盤のガラスもひび割れていないし、ほかに傷がついているわけでもない。時刻は、家を出てから十分ほど経過した頃を示していた。ちょうど、橋に差しかかっていた時間とみてよい。しかし佐保は時計に頓着していられなかった。重要なのは、現在地の把握と身の安全である。

 太陽の位置から正午くらいと推測した彼女は、また川に沿って下流のほうへと歩き始めた。川口にたどり着けなくても、途中で誰かを発見するかもしれない。だが考えが甘いのか、いつまで経っても人はおろか動物の気配もしなかった。おまけにここへ連れてきたはずの犯人すら見当たらない。いよいよもって置き去りにされたのが濃厚となってくる。佐保は緊張状態のままとにかく歩き続けた。


 西日が全身を茜色に染めあげる。とうとう歩き疲れた佐保は、川岸にあった大きく平らな岩の上に腰を下ろした。安定感に欠けるがほかに手頃なものが見当たらず、座り心地に文句も言えない。

 佐保は溜め息を吐いて目をつぶる。一人で見知らぬ場所に放置され、どうやって家に帰ればいいのかわからない。絶望的な状況に、泣きそうになる。そんな自分を励まし、よろよろと岩から立ちあがると、川の水を両手ですくった。喉が渇いていたのだ。そんなことも忘れるほど動転していた。

 佐保は、水が指のあいだからこぼれ落ちるのを見て、もう一度すくい口につけた。だが思うように飲めない。こんな簡単なことも満足にできない自分の両手に、いっそ目の前の川に顔ごとつっこんでしまえば早いじゃないかと考えた。

 どうにも疲れてたまらない。水をすくうのも面倒だ。けれど喉が渇いてしかたない。

 夕刻のひんやりとした風が通り抜けていく。佐保は両手を頬にあてがった。顔は熱いのに思わず肩が震える。右手を額にあてると、冷たかった手が徐々に温もっていく。確実に体調が悪化していた。

 再び溜め息を吐いた彼女は、濡らしたハンカチを額にあてようと、スカートのポケットを探った。その途端、通学鞄がないのに思いあたった。倒れる直前までは持っていた。そして草の上で起きたとき、周囲にはなかった。犯人に取りあげられたのだろうか。

(携帯電話、入っていたものね……)

 連絡手段を絶たれたことに、さらなる絶望感を突きつけられた。

 佐保は我慢ならず涙をこぼす。しかし泣いていても無駄なだけだ。熱っぽい体を奮い立たせると、川の水で顔を洗った。

「よし」

 誰ともなしに言えば、心なしか前向きな気分になる。

 佐保は川辺をゆっくりと歩きだした。すでに陽が傾いてずいぶん経っており、このまま野宿するはめになりそうだ。ならば、川岸よりも木々のほうへ進んで夜を明かしたほうが賢明かもしれない。そう考え、低木が生い茂る場所に向かった。

 とにかく疲れた。休みたい。

 今や彼女の思考は、それに支配されていた。極度の緊張と疲労に、体がついていけない。早く横になりたい。佐保はぼうっとした頭の隅で、いったいどうしてこんなことになったのかと、悪いほうに沈んでいく気持ちに自嘲した。

(なんとかなる……なんとかなる? 本当に、なんとかなるのかな?)

 相反する気持ちは自らを参らせる。まったく楽しくもない状況であるのに、口もとには笑みが浮かぶ始末だ。つらいのに、人は笑えるのだろうか。

「最悪だ……」

 笑った彼女は、適当な低木に背をあずけると深く息を吐いた。

 明日また考えればいい。大丈夫、家に帰れる。

 根拠のない自信にすがる佐保は、それでも内心つぶやいた言葉に満足して瞳を閉じた。

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