第三章 五節
佐保は寝台のなかで体を丸める。悔しいのか、腹立たしいのか、悲しいのか、寂しいのか、さまざまな感情がこみ上げたが、布団を頭までかぶり、こらえた。
翌日、佐保は玉蘭と家事をしながら、これからのことを話した。明朝、玉蘭と伍祝が一足先にここを発つという。皆、亢県の一番大きな街に行くらしいが、川と山に囲まれた風景しか知らない佐保には、どのような街があるのか想像もつかなかった。そう伝えると玉蘭が地図を持ってきて説明をする。
そもそも亢県は、徐郡の中の一つの県にすぎない。つまり国があり、郡があり、県がある。玉蘭はときおり地図を指さして、これからの行路、主要な地名を交えて話した。佐保はあいづちを打っている。
「亢県の東のほうは、それは栄えておりますよ」
あらかた話を終えると、玉蘭は地図を机の隅にやり、乾いた洗濯物と裁縫道具を手にした。衣服のほつれを直すようだ。佐保はその横で、天日で乾かした幾枚もの木綿の生地をたたむ。
「郡治や太守の公邸がある、大きな街です。佐保さんの暮らしについても手配しております」
「郡治? 太守?」佐保はたたむ手を止めた。
玉蘭は手もとから目を離さず言う。「郡治は郡の政務を執り行うところ、太守は郡を治める官吏の長をそう呼びます」
ようは役所関連があり、そこには郡の権力者――たとえるなら知事だろうか――もいるのだと、佐保は納得した。
「心配事もありましょうが、佐保さんが困らないようにと李彗様より仰せつかっております。どうぞ、ご安心を」
「はい」
佐保のかすかな返事に玉蘭は顔を上げ、にこりと笑った。
「私どもも街に逗留する予定ですから、すぐに別れるということはありませんよ」
逗留というからには、いつかそこを出るのだろう。佐保は、彼らがどこに行ってしまうのか尋ねたかったが、できなかった。玉蘭も明かすつもりはないのか、それ以上は何も言わずにいる。佐保は休めていた手を再び動かし始めた。
馬で陸路を進む玉蘭と伍祝が発って数日、いよいよ佐保の出発も明日に迫った。
その夜、荷造りを終えた佐保は、茶を持ってきた蓉秋に、栄古と別れるというのを聞いた。
「なんで」
独り言のようにつぶやいた彼女に、蓉秋は困った顔をする。
「なんでって、そりゃあ……人目についちまうからね」
虎の姿では街中にいられない。けれど……と、佐保は思った。蓉秋は、彼女の言わんとしていることを読みとったのか続けて口を開く。
「栄古殿が決めたんだ、しかたないさ。李彗様もお許しになられたし。落ち着いたらまた会えるかもしれないね」
諭すような口調に、佐保は納得しかねる表情だがゆっくりと頷いた。
しばらくして二人分の茶器を盆にのせた蓉秋が部屋を出て行き、佐保も時間をおいて部屋を出た。歩いていると、庭で栄古を見つける。そばには李彗もおり、暗がりのなか立っていた。
「嬢……いかがした」
栄古のいつもどおりの声音に、佐保は無言で首を振り、彼らに近寄る。ききたいことが多すぎて、口を開けない。李彗も栄古も、彼女の反応をじっと待っている。佐保は、おずおずと切りだした。
「栄古さんと、お別れって聞いて……」
そこで黙った佐保に、栄古は横腹をこすりつけるように彼女の体に触れる。
「言わずじまいにするつもりはなかったが、遅くなってしまったな。だが案ずるな、いつか再び会おうぞ」
気休めに近い約束でも、佐保はうれしく思った。肯定のかわりに、彼女はしゃがみこんで虎の首に抱きつく。栄古は耳をぴんと立てて、つぶやいた。
「これは役得であるな」
佐保は顔を上げる。すると李彗と目が合い、どきりとした彼女は栄古から腕を離し立ちあがった。
「まだそこにおったか。無粋なやからよ」
からかう栄古に、李彗は笑って言う。
「浮かれた虎はもの珍しく離れがたい」
佐保は表情をやわらげた。小気味よい返答をする李彗は以前に見た光景に似ていてどこか懐かしい。初対面で虎に食わせると言われ、栄古が現れたあのときを思いださせた。
「李彗さん」佐保は尋ねた。「これからのことって、李彗さんにとってよくない方向に向かうのですか?」
「なぜそう思う」李彗がきく。
「許すと言っていたので……あのとき」
思いあたったのか、李彗は緩やかに息を吐いた。だが彼よりも栄古のほうが、佐保に言葉を返す。
「もしや仙籍のことか」
「そう、そうです」佐保は頷いた。
そのような言葉だった。今度こそ頭に浮かんだ文字を記憶する。佐保が李彗を見ると、彼は苦笑を浮かべ、少しして答えた。
「それは私の決めることではない。いずれ余人が判断するだろう。よいか、よくないか、と」
「自分のことなのに?」
首をかしげて難しい顔をする佐保に李彗は答えず、佐保はさらに困惑した。彼女は李彗の顔から視線をはずし、それを地面にさまよわせながらつぶやいた。
「仙籍という言葉って、その……犯罪とか釈放とか、そういうことと関係ないですよね?」
佐保の言葉に、李彗と栄古は互いを見合った。沈黙しきった場にたまりかねた佐保は、矢継ぎ早に言葉を並べる。
「いえ、あの、私の勘違いなんです。でも気になって。仙籍を許すって言うから、何かその……許すって言うと、ごめんなさい……私、てっきり李彗さんが犯罪者かと思ってしまって」
佐保の声は次第に小さくなっていった。未だ続く沈黙に、彼女は顔を上げて様子をうかがう。すると、李彗が声を立てて笑いだした。
佐保は驚いた。目を見開く彼女に李彗は楽しげに告げる。
「お前は私をおかしくさせるのに長けている」
なお驚き顔を解かない彼女は、李彗を見たままぽかんとしていた。
「よい意味で言ったのだ、佐保」
「……そうですか?」
佐保は気の抜けた答えしか返せなかった。先ほどの李彗の表情のせいだと彼女は思った。なんだか居心地が悪くなり、また下を向いてしまう。
李彗は笑い声を引っこめ、なだめるような表情をした。
「佐保」
「……はい」彼女は顔を上げる。
「いま私は何も答えない。それがお前のためであり、私のためでもある」
佐保は李彗を見て思った。これでは問うこともできないではないか。李彗という人間を知り、距離を縮めたいのに踏みこめない。今しがたの彼の言葉はまるで拒絶だ。けれど、しかたない。彼女は頷き、本心を隠すように小さな笑みを浮かべた。
なぜ今ここで自覚するのだろう。佐保は、目の前の男に対して熱をもつような感情を抱いていることに気がついた。