第三章 四節
月夜のなか、佐保は李彗を見つけた。話があると彼に呼びだされたのだ。
客人の来訪から数日、彼はときおり難しい顔をしていたが、今や何らかの憂いも晴れたようである。小さな明かりを手にして立っている李彗に、佐保は近づいた。
李彗は彼女を認めると、誘うように中庭へ向かう。少しして立ち止まるので、後ろをついてきた彼女もそれにならった。
李彗が振り向く。「佐保。ここの暮らしはどうだ?」
わざわざ呼ばれたのでどんな話かと案じていたが、彼の問いかけを受けて佐保は微笑んだ。
「前向きに、いろいろと学びながらの日々です。でも、つらくないのは皆さんのおかげです」
謙虚や愛想で言ったのではなく、本心だった。帰れる帰れないで悩んで過ごすのは不毛だ。あがいて少しでも自分のために開く道があるなら、新しい生活に目を向けていくのはよいことだ。何より、ここは否定的で嫌悪感をむきだしにするような劣悪な環境ではないし、住人との関係性も良好だと彼女は思っている。
穏やかな心地で話していた佐保に、李彗は「佐保」と声に出した。月を背にした彼の輪郭はその光に縁どられ、佐保はぼうっと彼を眺める。
李彗は静かに言った。「頼みがある」
「頼み?」
「やらねばならぬことが、迫ってきた」李彗は続きを口にする。「急ではあるが……皆ここを出なければならない。佐保、私が懸念しているのはお前のことだ」
あまりの突然さに佐保は理解が追いつかず、混乱した。
「あ、あの……」
何を言おうとしていたのかわからなくなり、彼女はそれ以上しゃべれない。
なぜそういう話になったのか。これからどうなるのか、これからどうすればよいのか。しかしそんなことより、一つだけ合点のいくことがあった。
佐保は、苑海と曹達に会うたび妙な視線を感じていた。悪意もなく善意もない、けれど特別な意をもって向けられる目。思いあがりではない――その確信は、先ほどの李彗の言葉で決定的になった。
「佐保。お前自身、これからのことに望みもあろうが……できることなら」
李彗は続きを言うのをためらうように口を閉じた。佐保は思う。今から聞く言葉はここ幾日の、彼の抱く憂いの一部であるはずのものから導きだした宣告だろう。
じっと動かず立っていると、佐保は寒気を覚えた。目の前の李彗の顔を見ることができず、彼女はそっと両手の指を腹部の前で合わせて、彼の言葉を待つ。
やがて、李彗は言った。「……一人、市井で暮らしてはくれないか」
佐保は手をぎゅと握りあわせた。居候の身に「いいえ」も「嫌だ」もない。理解と反発を置きざりにして、佐保は静かに頷いた。
愚かにも、都合よく思っていた。この生活が続くのでは、と。ずっと屋敷にいられるわけがない。それは、ここに住み始めてから何度も何度も意識してきたことだったというのに、いざそうなると佐保の心は沈む。
頼れるものは自分だけとわかっていたはずだが、彼女はその足りなかった自身の覚悟に唇を噛んだ。鉛のように重くなる気持ちを押しこめて、佐保は李彗に尋ねる。
「いつ……それはいつですか」
「次の新月には、ここを出る」
佐保は月を仰ぎ見る。もう少しで綺麗な丸い形になるだろう。彼女はうつむいた。
李彗が持っていた手燭を佐保に渡す。一瞬間、触れあった彼の指先は冷たく、弾かれたように佐保は顔を上げた。
「すまない」
そこには、彼のかたい表情があった。
佐保は首を振った。李彗は背中を向けて去っていく。佐保はその姿を見ていたが、やがて手燭へ視線を落とした。
先ほどまでの、自身の楽観的な考え方が馬鹿らしかった。何が、新しい生活にも目を向けて……なのか。彼らと暮らすから、そう思っていてもよかっただけなのだ。状況が変われば、不安しかない。佐保は思いだす。母と姉がいても心細い日があった。だがそれは家族のせいではなく、自分の問題だ。誰にだって、もちろん家族といえども皆それぞれに都合があるのだから、自身が優先されないことはいくらでもある。それに、ずっとそんな考えだけを必要以上に大事に抱えこむことが自らを幼稚にし、子供じみた態度につながっていることも、わかっている。けれど、どうして今なのか。なぜこのときになって、小さな頃からの気持ちと重なるのか。
佐保は揺らめく手燭の火を見つめた。
「ほら……やっぱり、ひとりじゃない」
小さなつぶやきは夜のなかに消えた。
手燭がないと月明かりだけでは心もとない。しかし心もとないなどと思うのは、それだけであるものかと李彗は自問した。彼は、中庭から近い建物の壁を曲がったところで立ち止まる。夜の暗さに手伝わせ、物陰に潜むようにしているその姿に眉を動かした。
「二人して悪趣味か」李彗は低い声で咎めた。
彼の注意に、苑海と曹達は悪びれず月光の差すなかへ姿をさらした。
ここから中庭はよくのぞけるが、庭からはこちらを見がたいだろう。静かな夜だ、耳をすませば中庭にいる人間の、多少の話し声くらいは聞こえていたはずである。
「若君が渋られる理由は、あの娘さんでしたか」
苑海の言葉に、李彗は気が立っている内心を自覚した。
「あまり私にかまうな。今は気分がよくない」
それだけ言って、自室に戻ろうとする。何をこれほどいらいらとしているのか、どうにも自身が解せない彼は、早くこの場を去りたかった。しかし二人の横を通りすぎてすぐ、彼の足を止めるように声が飛ぶ。
「どこまで、お話しになられた」
尋ねた曹達に、李彗は告げた。
「彼女は何も知らぬ」
言ってから、ふと李彗は振り向いた。苑海と曹達の向こう側で、明かりが揺れて離れていくのを見つける。先ほど彼女に渡した手燭だ。
佐保は自室へと向かっているようだった。李彗の目は、その明かりが視界から途絶えるまで追いかけていた。
「……少しばかりよい夢を見ていた。叶えたい願望の夢、か」彼は自嘲気味につぶやく。「だがどうやら見すぎたようだ」
「お目をお覚ましになられた……と?」苑海が声音を落としてきく。
李彗は首を縦にも横にも振らず、ただ静かにこぼした。
「ぞんがいに心地がよかった」
「殿下」苑海が呼ぶ。
李彗の足もとで、苑海と曹達は膝を折り、叩頭していた。
「身命惜しまず、御身にお仕え申しあげます」苑海の声が響く。
忠誠を誓う二人の姿を、李彗は淡々と見下ろしていた。